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花田虎上

花田 虎上(はなだ まさる、1971年1月20日 - )は、東京都中野区(出生地は杉並区)出身で二子山部屋(入門時は藤島部屋)所属の元大相撲力士、第66代横綱・若乃花 勝(わかのはな まさる)、3代目若乃花となる。父は元大関・貴ノ花、母は元女優・藤田憲子、弟は第65代横綱・貴乃花、伯父は第45代横綱・若乃花、本名は花田 勝(はなだ まさる)。2011年4月9日より、風水建築デザイナー直居由美里のアドバイスで芸名を「花田虎上」(はなだまさる)に改名。実業家、タレント、スポーツキャスター、血液型はB型。既婚(再婚)。上背はなかったものの、強靭で巧みな足さばきを生かして多彩な技を繰り出し、技能派の名人力士として知られた。また人当たりのよい性格で話術にも長け、力士時代から「お兄ちゃん」の愛称で親しまれる。容姿や相撲の内容は実父・貴ノ花利彰よりも伯父の初代若乃花を彷佛とさせた。「最大の企業秘密」として現役中は徹底して隠し通されていた点があり、入門前から左の股関節が弱かったため、「左を差されて前に出られる相撲」など左の股関節に負担がかかる体勢を苦手としていたという。1988年3月場所初土俵。「花の六三組」の一人で、弟の貴花田(のち横綱貴乃花)の他、のち横綱曙・大関魁皇らと同期入門だった。初土俵以降順調に出世するも、1989年11月場所で史上最年少関取となった貴花田には一歩出遅れたが、若花田も弟の後を追いかけるように1990年3月場所で新十両となる。同年9月場所には新入幕を果たした。入幕して最初の頃は、天性の勝負勘と強靭な足腰で相手の攻撃を凌いで技を繰り出して勝つという勝ち方が多かったが、1992年後半頃からおっつけに磨きがかかるようになり、成績も伸びていった。1991年9月場所2日目には、前頭3枚目の地位で横綱旭富士を右上手投げで破り初金星を獲得し、同9月場所は自身初の三賞(殊勲賞・技能賞)を受賞。さらに1992年1月場所3日目も、前頭筆頭の地位で再び旭富士を右下手投げで下し、2個目の金星を獲得。なお横綱旭富士は同1月場所で進退を掛けたが初日から3連敗を喫し、この若花田(当時の四股名)の敗戦を最後に現役引退を表明した。1991年11月場所で、自身初の三役となる新小結に昇進したが、7勝8敗と負け越し。さらに翌1992年3月場所と同年7月場所を、相次ぐケガで途中休場(2場所共にのち再出場、但し3月場所は14日目から再休場)するなど、小結と前頭の地位を上下する足踏み状態が続いていた。しかし2度目の再小結だった1993年3月場所は、初日から7連勝と絶好調。中日(8日目)で当時関脇の武蔵丸戦で初黒星を喫したが、12日目には宿敵・当時新横綱の曙を下し殊勲の星を挙げるなどで、14勝1敗の成績で自身初の幕内最高優勝を達成した。1993年5月場所直前に四股名を若花田から若ノ花に改名。同5月場所では新関脇で10勝5敗と二桁白星を挙げ、幕内上位で3場所合計34勝11敗の成績となったが、3場所前に前頭3枚目(10勝5敗)の地位だった事がネックとなり大関昇進は見送られる。さらに同場所千秋楽、大関小錦との取組では明らかに小錦の手が先についていたのに、行司軍配は小錦の方に上げられ、しかも物言いもつかなかったため、若ノ花の負けとされる不運もあった(千秋楽の翌日、当時の鏡山審判部長(元横綱柏戸)はこの一番に物言いをつけなかった責任を取り、辞表を提出しようとする事態となった)。それでも、翌1993年7月場所には最後まで優勝を争い13勝2敗の成績を挙げ、横綱曙・大関貴ノ花(当時の四股名)と共に3名で優勝決定巴戦に出場。惜しくも巴戦初戦で曙に敗れ優勝は逃したものの、三役の地位で3場所合計37勝8敗の好成績により、同年7月場所後文句無しで大関に昇進。増位山、弟貴乃花に次ぐ親子大関、伯父・実父に次ぐ兄弟大関となった。大関昇進後も順調に土俵を務めていたが、1994年3月場所で左足首をケガして2場所連続の休場(公傷適用)。同年11月場所前は若ノ花から若乃花と改名したが、右腰を痛めてしまうアクシデントなどで暫く低迷。この間曙を倒して弟貴乃花の優勝の援護射撃をするという場面は見られたものの、自身が優勝を果たすまでにはいかなかった。1995年11月場所に12勝3敗で弟貴乃花との優勝決定戦を制して漸く2回目の優勝を果たし、翌1996年の1月場所は自身初の綱取りとなったが、場所直前に罹ったインフルエンザの影響や肝機能障害による絶不調で、初日から3連敗を喫して4日目から途中休場した。1996年中盤頃から徐々に復調の兆しが見え、翌1997年1月場所は初日から完璧な相撲で14連勝して14日目に3回目の優勝を決めた。千秋楽は惜しいところで武蔵丸に敗れて全勝優勝はならなかったものの、若乃花の土俵人生の中で最高の相撲を見せた場所となった(余談だが現役時代は武蔵丸とは14勝24敗と相性が悪く、武蔵丸に敗れて全勝を逃したケースが多かった)。2度目の綱取りが大いに期待され、その期待に応えるように翌3月場所も初日から3連勝と絶好調だった。しかし、3日目の旭鷲山戦で勝ちながらも倒れ込む際に右大腿二頭筋を断裂し、またも4日目からの途中休場により綱取りは全くの白紙となってしまう。しかも全治3か月の重傷で、2場所連続休場後の7月場所に復帰したものの、序盤に3連敗する等、絶不調で引退を囁かれるまでになってしまった。この同7月場所、中盤以降は持ち直して何とか8勝7敗と勝ち越して引退の危機は乗り切ったが、怪我の箇所を考えると「もう上は望めないのではないか」と言われるまでにもなった。それでも1998年3月場所、突如爆発するかのように、初日から完璧な相撲を取り12連勝。13日目に横綱曙に敗れたものの14日目は武蔵丸に勝利し、千秋楽は立合い変化の注文相撲で琴錦を下して14勝1敗で4回目の優勝。翌5月場所は3度目の綱取りとなる中、4日目に小城錦と6日目琴錦に苦杯を喫し、さらに11日目には魁皇にも敗れてしまう。それでも他上位陣総崩れの幸運もあって自身最後まで優勝を争い、千秋楽には武蔵丸を破り大関の地位で2場所連続優勝を果たし、5月場所後についに横綱昇進を決めた。但し5月場所は12勝3敗という低いレベルでの優勝で、日本相撲協会からは「もう一場所見るべきではないか」という声もあったが、横綱審議委員会で反対論は全く出ずに、史上初の兄弟横綱が誕生した。尚大関29場所目での横綱昇進は、当時琴櫻に次ぐ史上2位のスロー昇進だった(現在は1位タイの琴櫻・武蔵丸の32場所に次ぎ史上3位)。またこの昇進を最後に、日本出身の横綱は2016年(平成28年)現在18年に渡り1人も誕生しない状態が続いている。横綱土俵入りでは、後継者が少ない「不知火型」を敢えて選択する。隆の里が中心となって、琴櫻や初代若乃花までが登場して土俵入りを指導した。若乃花らしい切れのあるきびきびとした土俵入りであった。ただ当初は、弟貴乃花が横綱土俵入りを指導するものと思われていたが、貴乃花は一切姿を見せなかった(この頃から兄弟仲の確執が噂されるようになり、これが明らかになるのは1998年9月場所前の事である)。史上初の兄弟横綱として期待されたが、一方で約5年間の大関在位時で多くの怪我に苦しんだ事も有り、また「不知火型」のジンクス通りに「短命横綱で終わるのではないか」という懸念の声も聞かれ、結果的にその悪い予想は的中してしまう事になる。1998年9月場所と1999年1月場所は最後まで優勝を争ったが、それ以降は左足の太股や左足関節の外側靱帯を痛める故障等により、1999年3月場所と5月場所は途中休場、7月場所は横綱昇進後初の全休となった。復帰した1999年9月場所は、序盤2連敗したがその後白星を重ね、10日目の闘牙戦では左足の肉離れを起こしながらも取り直しの相撲で勝利する。だが翌11日目からはケガの影響により黒星が続き、当時の時津風理事長(元大関・豊山)らを初め周囲からの「休場勧告」を一切無視して強行出場したものの、千秋楽の武蔵丸戦でも熱戦の末敗北。結局7勝3敗から終盤戦では5連敗を喫して、ついに負け越してしまった。横綱の皆勤負け越しは、15日制が定着してからは史上2人目(大乃国以来10年ぶり)の不名誉な記録となった。この9月場所限りでの引退を勧告する声もあったが、千秋楽後に時津風理事長との話し合いの末若乃花本人は現役続行を志願し、翌場所から2場所連続全休して再起を図った。そして翌2000年、まだケガが完治せず稽古不十分なまま「ゲンの良い」同年3月場所への出場を志願、「もう一場所待て」という二子山親方の説得を振り切り自ら進退を掛けて土俵に臨んだ。しかしやはり満足な相撲が取れず、5日目に栃東戦で敗れて2勝3敗。この栃東との相撲を最後に、現役引退を発表した。記者会見では引退の理由を「体力を補う気力が限界になりました」とコメント。当時の若乃花はまだ29歳2か月の若さで、横綱在位は11場所だがその内皆勤したのはわずか5場所であった。横綱時代は休場の方が多くかつ横綱の地位で一度も幕内優勝出来ず、十分にその役目を果たせなかった。それでも大関時代は大型力士が台頭する中で、小兵の若乃花は下手をすると大負けしかねない状況だったが、休場明け等の場所を除いた場所では概ね二桁以上の成績を上げている。その為引退時には「横綱昇進しなければ『名大関』として名を残せた」「大関の地位に留まれば、こんなに早く引退する事は無かった」との惜しむ声もあった。しかし後年本人は2014年6月2日放送分のフジテレビ『ジャネーノ!? 』で概して「相撲という競技は好きだが小さな体で大きな相手と戦わなければならないので大相撲力士にはなりたくなかった」と明かしており「横綱になったらやめるという条件を付けてもらった」とも話していた。また、力士生命にとって致命的になった足の怪我の容態は引退後も回復しておらず、後に「将来、車椅子の生活になる事は避けられない」と医師から告げられた事を告白している。2016年夏に武蔵丸は若乃花に会い、その時若乃花が怪我の後遺症で毎日痛み止めを飲んでいることを知り驚いたという。横綱昇進後は実弟・貴乃花との不仲や離婚問題等、ワイドショーを賑わす騒動に巻き込まれることが多かったが、本人によると「(ワイドショーで)騒がれた場所ほどかえって相撲に集中出来た」らしく、実際に騒がれた場所では優勝は惜しくも逃しているが好成績を残している(1998年9月場所12勝3敗・優勝次点、1999年1月場所13勝2敗・優勝同点)。年寄藤島を襲名し、当初は後進の育成に専念するような発言をしていたが、引退相撲を終えて間もない2000年12月18日に突如日本相撲協会を退職した。その後はタレントに転身。スポーツキャスターとして活動するとともに、2002年にドリームアーク社を設立。代表取締役会長として、全国に店舗展開する「Chanko Dining 若」、「うどんダイニング若」、「&kitchen」、「Onii Chan and Kitchen(おにいちゃん&キッチン)」、またフードコート業態「わかどん」、「ちゃんこうどん」をプロデュース。2008年11月、同社の代表取締役会長を退任し、経営権も売却。以降はプロデュースのみ担当。2010年5月6日、ドリームアーク社は東京地裁に自己破産を申請。負債額は約4億5千万円であった。「Chanko Dining 若」は、その後別法人によって運営され、2012年現在西日本を中心に2店舗営業している。上記とは別に、2012年から個室居酒屋業界大手のアンドモワ株式会社において個室居酒屋「若の台所」「赤鶏御殿」、ラーメン屋「若のらーめん」をプロデュースしている。   (カッコ内は敗数の中に占める不戦敗の数)           ○     ○

出典:wikipedia

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