崇礼門(すうれいもん、(スンネムン))は、大韓民国のソウル特別市中区南大門路4街29にある門である。一般に南大門(なんだいもん、(ナムデムン))の通称で知られる。2008年2月の放火により、花崗岩製の石造の門を除いた木造楼閣の大部分が焼失した。2010年2月10日から2013年4月まで復元工事が行われ、翌5月4日に復元記念式典が行われた。大韓民国の国宝第1号に指定されている。管理者はソウル市中区庁。城壁都市であった当時の漢城(かんじょう、(ハンソン))には門が4か所あったが、最も規模が大きいのはこの崇礼門である。一般的な懸板(扁額)が横書きであるのに対し、崇礼門の懸板は縦書きであるが、これは炎の形に似ている冠岳山からの火気を阻むため、文字を縦に書いて城門を塞ぐという風水的措置による。ソウル二大市場のひとつ南大門市場は崇礼門を起点に広がっているが、その名称は崇礼門の通称である南大門に由来する。1392年に李氏朝鮮を建て漢城に遷都した太祖・李成桂は、1395年に都の城門の建設に着手し、1398年に完成。南側の主要な門である崇礼門は、俗に南大門と呼称された。世宗治世の1448年、および成宗治世の1479年に大きく改築され、冠岳山の火気を遮るようにと二階建てになった。讓寧大君が書いたとされる懸板は、火気を遮るために縦に書かれた。その後、文禄・慶長の役や丙子の役など幾多の戦乱を経るも、長い間、都の正門としての役割を果たしてきた。大韓帝国時代の1907年、日本の皇太子嘉仁親王の行啓を機とする街路整備のため両側に続いていた城壁が撤去され、門だけが道路に孤立する形で残された。門の前に開業した京城駅(現在のソウル駅)は1905年から1922年の間「南大門駅」と呼ばれた。日本統治時代(1910年 - 1945年) 、1925年から1926年にかけて門を挟むように、南に京城駅のレンガ駅舎、北に京城府庁舎(現在のソウル広場に建つソウル市庁舎)が建てられた。1934年、朝鮮総督府が、朝鮮の主要文化財を保護する目的で宝物第1号に指定した。1948年の大韓民国建国後、朝鮮戦争ではソウルの大部分が破壊されたが、崇礼門は一部の損傷にとどまり焼失を免れた。破損した部分の大規模な解体、改修工事が1962年に行われた後、同年12月20日に改めて同国の「国宝第1号」に指定された。元々日本が勝手に決めた国宝であり、日本統治時代の烙印であるとして、韓国国内の一部には「国宝第1号」を朝鮮の文化的な「独立宣言」である訓民正音等に変えるべきであるとの意見もある 。ソウルで最古の木造建築であり同国の象徴のひとつともなっていたが、2008年2月の放火によって石造の城門を除いた大部分が焼失した。韓国統監府による門周辺での路面電車(京城市電)軌道敷設に伴い立ち入り禁止となった様子を撮影した1907年の写真が残っているが、一方で派出所による警備や自由通行の様子を撮影した1910年の写真も残っている。朝鮮戦争後の1961年に大規模な補修工事が行われ、工事が終了した後、2006年まで門の立ち入りは禁止されたままで、大きな車道に阻まれて近づくことも困難であった。しかし2005年5月、門の南側に芝生の広場が造成されたのに伴って門間近までの観光客の訪問が可能となり、2006年3月3日からは門をくぐることもできるようになった。また、ホームレスによる不法侵入は2005年以前から常態化しており、それを受けて、崇礼門を管理する中区庁は2005年に業者に警備を依頼した。しかし、警報を受けた警備員が現場に向かわないなどずさんな警備が浮き彫りとなった。後述する放火事件後、修復、再建工事が行われ、2013年には再び立ち入りが可能になったものの、同年12月、再建工事の不備が見つかったため、再び立ち入り禁止措置が講じられている。2008年2月10日20時40分(現地時間)ごろ、崇礼門で火災が発生し、石材部分を除く木造楼閣部分の大部分が焼失、崩壊した。消防当局は5時間以上にわたる消火作業にもかかわらず崩壊を防ぐことができなかった。消防当局は通報を受け、ポンプ車やはしご車など消防車32台と消防隊員128人を現場に向かわせ、消火作業に着手した。楼閣2階の屋根から発生した火により木材が焼け、周辺が白い煙で覆われたが、消防隊員らは「国宝第1号」という文化財の棄損を懸念し、積極的な消火作業を行えなかった。いったんは消火したと思われたが、初期消火の失敗から消え残った火が再び燃え広がり、全焼という事態に至った。消防側は文化財庁に「消火は慎重にやってくれ」と言われ躊躇(ちゅうちょ)したと語るが、文化財庁側はそのような指示はしていないと語り、韓国メディアから責任のなすりつけ合いと批判された。また、焼け跡からライターが2本発見されている。国宝ではあるものの、1階2階部分に消火器は8台しか配置されておらず、火災報知機などは設けられていなかった。一般開放後、誰でも門に侵入できたという点も、監視体制が粗末であったと指摘されている。2008年4月の昌慶宮文政殿放火犯の男が、2月14日に崇礼門放火容疑で逮捕された。犯行の動機として、都市再開発事業による家の立ち退きの件で補償額が少ないことに不満を持ち、大統領府や区役所に陳情したのに受け入れられず世間の注目を集めたかったが、まさか全焼するとは思わなかったと述べている。2008年4月25日、ソウル中央地裁は崇礼門放火容疑で逮捕した男に対し、懲役10年の判決を言い渡した。ただし、効果的な消火活動体制があれば全焼には至らず、崇礼門焼失の全責任を被告に負わせることは難しいと述べ、文化財保護の関係機関にも責任があると指摘した。10月9日、韓国の大法院(日本の最高裁判所に相当)は男の上告棄却を決定し、懲役10年の刑が確定した。2006年の補修の際に楼閣などの精密な測定が行われており、技術的に復元は可能としている。韓国文化財庁は、復元に2 - 3年の期間と約200億ウォンの費用がかかるとの見通しを示した。2008年4月14日、韓国文化財庁国立文化財研究所は、火災で破損した懸板の精密保存処理を行うことを発表した。崇礼門の火災から100日目にあたる2008年5月20日、韓国文化財庁は記者会見を開き、「崇礼門復興基本計画」を発表した。2009年12月までに発掘調査、考証、設計を行い、復元工事は2010年2月10日に工事が着工し、2012年12月に復元予定。復元は伝統的な技術で行われ、作業員は民族衣装を着用し、電動工具は使用されない。崇礼門の復元は、李朝時代に建てられた原形を再現することに重点がおかれ、日本統治時代に1.6m高くなっていた周囲の地盤を従来の高さに戻すとともに、門の両側には1907年に取り壊された城郭の一部も再現する予定。復元される崇礼門には赤外線熱感知器・煙感知器、スプリンクラー設備、監視カメラ等の防災システムが設置され、復旧費用には当初の予想を上回るおよそ250億ウォンを予定している。復元にあたって、丹青(彩色)に使う顔料と「伝統的な接着剤」(膠もしくは漆のこと)は日本製を使用するため、韓国国内で批判されたが、韓国では「伝統的な接着剤」を作る技法はすでに失われていて技法の復元にも失敗しており、『日本製の接着剤は優れている。国宝で実験はできない』との理由もあって、結局日本製を使うことになった。2013年4月に復元工事が終了し、同年5月4日に復元記念式典が開催された。ところが同年10月頃から丹青に亀裂や退色が、また一部の木材に亀裂が走るなどしたため、復元工事に問題があったのではないかとの指摘が相次いだ。この際、韓国の一部では原因は日本の塗料や接着剤を使用したためとも報道された。同年11月には韓国文化庁が手抜き工事を認めて謝罪、保存管理に最善をつくすことを発表した。その後の調査により、丹青の膠が予定されていた天然のものではなく、化学顔料を用いた安いものを使用していたこと、乾燥が不十分であった木材を使用していたことなどが判明した。2013年12月の頭より立ち入りが禁止されている。また、32本の柱に使用した木材の内、確認されただけでも3~4本、予測では7~8本が本来予定されていた韓国産の金剛松ではなく価格が100分の1程度の安価なロシア産であったことが判明した。警察関係者は何者かが金剛松を横流しし、費用を着服したと見ている。2014年5月になって監査院は、手抜き工事は言うまでもなく、職人の独断で燃えやすい油が使われたため火災の危険があり、再工事が必要との意見を表明した。2016年6月23日、8年ぶりに崇礼門把守儀式が再開された。
出典:wikipedia
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