LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

笠間藩

笠間藩(かさまはん)は、江戸時代に常陸国茨城郡笠間(現在の茨城県笠間市)に存在した藩。藩庁は笠間城。笠間は笠間氏が鎌倉時代初期から有していた地であった。しかし豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏に味方したため滅ぼされる。その後は宇都宮国綱が笠間城代となったが、継嗣問題で改易される。1598年、蒲生秀行が宇都宮城主となった際に、笠間の地も秀行の領有とされた。1600年の関ヶ原の戦い後、1601年に松平康重が武蔵騎西藩から3万石で入封して立藩した。1608年に康重が丹波篠山藩へ移封されると、小笠原吉次が下総佐倉藩から入封した。しかし吉次は、与力の給料の横領・与力の家臣化を企てたとして改易された。その後一旦、笠間藩は幕府領となり、1612年に松平康長が下総古河藩より入封する。1616年に康長が上野高崎藩へ移封されると、永井直勝が入封する。1622年、直勝は古河藩へ移封となり、常陸真壁藩主であった浅野長重が真壁領を合わせて入封した。1645年、次代の長直の時、播磨赤穂藩へと移封した。浅野家の後は、井上正利が遠江横須賀藩から入封した。1692年、次代の正任の時、美濃郡上八幡藩へ移封となり、本庄宗資が下野足利藩より入封した。1702年、次代の資俊の時に遠江浜松藩へ移封した。井上正岑が常陸下館藩より入る。1747年、3代目の井上正経の時に陸奥磐城平藩へと移封した。日向延岡藩より牧野貞通が入る。以後笠間藩は、越後長岡藩の支藩として牧野家の領有で固定され、明治維新を迎えることとなる。産業面では、藩主・牧野貞喜の陶業者保護政策により、笠間焼発展の礎石が築かれたとされる。藩主が代々剣術を奨励し、唯心一刀流と示現流を主に二大流派とした。その結果幕末には「剣は西の柳河(筑後柳河藩)、東の笠間」としてその剛勇が知られるようになった。幕閣要職に就任することが多かった牧野家はゆえに、慢性的な財政難に苦しんだ。これは表高8万石に対して実高が伴っていなかったことが根幹にある。江戸時代後期には、新田開発や肥料の改善などによって、諸藩では表高を大きく上回る収穫があった中で、笠間藩は厳しい状況に置かれた。戊辰戦争では、官軍に属して陸奥会津藩攻撃に加わったことで賞典禄を受け、本藩の越後長岡藩とは違った動きを見せた。譜代 3万石。慶長6年(1601年)2月-慶長13年(1608年)8月譜代 3万石。慶長13年12月24日-慶長14年(1609年)3月26日譜代 3万石。慶長17年(1612年)7月-元和2年(1616年)譜代 3万2,000石→5万2,000石。元和3年(1617年)10月15日-元和8年(1622年)12月7日外様 5万3,500石。元和8年-正保2年(1645年)6月22日譜代 5万石。正保2年6月27日-元禄5年(1692年)11月12日譜代 4万石→5万石。元禄5年11月11日-元禄15年(1702年)9月12日譜代 5万石→6万石。元禄15年9月28日-延享4年(1747年)3月19日譜代 8万石。延享4年3月19日-明治4年(1871年)7月14日            (牧野)         牧野氏は、上野館林藩主・徳川綱吉(15万石、後に10万石加増)の家老や、5代将軍・徳川綱吉の側用人となった牧野成貞の後裔である。成貞は、初代越後長岡藩主・牧野忠成の甥で、上野大胡藩主・牧野康成の孫に当たる。成貞は越後長岡藩の領地と家臣団を分与されて立藩したものではなく、成貞の父である成儀が新恩をもって旗本の召し出しを受けたものである。しかも成貞は、成儀の総領ではなかった(旗本であった成儀の総領家は、後に罪により改易となっている)。笠間牧野家の家祖となる成儀の庶子であった成貞は、はじめ成儀家において捨て扶持を与えられていた。4代将軍・徳川家綱の弟であった綱吉の部屋住み時代に、成貞が分家して、その屋敷・神田館に側衆として出仕することになったのが、笠間牧野家の起源である。牧野成貞家系が笠間藩主として定着する前の下総関宿藩主・三河吉田藩主時代には、当家が越後長岡藩の支藩に当たるか否かについては議論があった。また、成儀の総領家が改易となったため当家が、成儀家の総領家の名跡を持つか否かも明確ではなかった。当家は分家してから明治維新まで、信濃小諸藩主や越後三根山藩主の牧野家のように、越後長岡藩から政事上の指導や重臣人事の内諾は受けていなかった。この越後長岡藩と常陸笠間藩が本・支藩関係になるか否かについては、『忠敬養子入りにみる笠間牧野家との関係』の項目にも解説がある。成貞は綱吉の寵を受け、彼の将軍家からの分家により館林藩御奏者などを経て家老(3,000石)となる。やがて綱吉が4代将軍、徳川家綱に男子がなかったため将軍の世継として江戸城に呼び戻されると、成貞には側衆として常陸国内に1万1,000石の点在した領地が与えられた。1680年に下総関宿藩主として城主となる。1681年、成貞は将軍綱吉の側用人として14年間にわたって大きな権勢を得た。その間もしきりに加増されて、牧野宗家の越後長岡藩の表高7万4,000石を意識したためか、綱吉は成貞の表高を7万3,000石とした。成貞隠居後、家督を相続した成春が、まもなく加増を受けて三河吉田藩(8万石)に転封となった。これを根拠に、成貞は柳沢吉保に蹴落とされて失脚したのではなく勇退したという意見もある。1709年に綱吉が死去すると、3年後の1712年には成貞も没し、同年には幼少の藩主、成央に対して、幕府は日向延岡藩に移封を命じた。表高は同じであるが遠国への左遷であった。1719年、13歳で家督を相続した日向延岡藩主・牧野貞通は、奏者番・寺社奉行・京都所司代を歴任して、1740年に常陸笠間藩に移封をみた。領地の内高は表高を数千石程度下回ることが多かった。幕末期の収穫高を内高ベースで比較した場合、長岡藩の内高は表高の2倍近くある一方で、笠間藩は宗家の長岡藩の約6割しかなかったが、表高は長岡藩を約6,000石上回っていた。辺境の延岡から江戸に比較的近い笠間藩に移封を成功させた貞通は、男子2人(忠敬、忠利)を越後長岡藩に養子として出した。次代の貞長は、実は牧野忠周の忠敬嫡子認定後に出生した実子であり、当初は牧野姓を許されず、牧野忠寛を幕府へ実弟として届け出た上で長岡藩主とした。貞通は、自らの嫡子忠敬を長岡牧野家の養子とした。一族ではあるが当時、血縁としては疎遠となっていた長岡牧野家に、自らの家系が傍系であることを認めた上で嫡子を養嗣子とした。それまでは、家祖の成儀は新恩をもって旗本に召し出されたのであり、長岡家から家臣と領地の分与を受けていないこと、また、成貞が分家をした後に諸侯に取り立てられていたことを盾に、笠間家は長岡家の支藩か否かを明確にしていなかった。しかしその後も両藩の実力が伯仲して競争していたため、不仲を伝える逸話や文献が残っている。長岡牧野家の家臣・河井継之助が、1865年に長岡藩江戸藩邸で、長岡藩主・牧野忠恭と笠間藩主・牧野貞直の会談に着座し、貞直に不敬になる出過ぎた発言をしたため、謹慎処分を受けて在所に帰されている。旧笠間藩主家は華族に列して子爵となった。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。