呂尚(りょ しょう)は、紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師、後に斉の始祖。姓は姜、氏は呂、字は子牙もしくは牙、諱は尚とされる。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる。謚は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。一般には太公望(たいこうぼう)という呼び名で知られ、釣りをしていた逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる。歴史上重要な人物にも拘らず、出自と経歴は数々の伝説に包まれて実態がつかめない存在である。殷代の甲骨文に呂尚の領国である斉の名前は存在するものの、周初期の史料に呂尚に相当する人物の名前を記録したものは確認されていない。『史記』斉太公世家では、東海のほとりの出身であり、祖先は四岳の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている。一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市西部)や申(現在の陝西省と山西省の境)の地に移住し、土地名にちなんだ呂姓を称したという。元は屠殺人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する。また周に仕える以前は殷の帝辛 (紂王) に仕えるも帝辛は無道であるため立ち去り、諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、最後は西方の周の西伯昌 (後の文王) のもとに身を寄せたと伝わる。周の軍師として昌の子の発 (後の武王) を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ。殷を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地に封ぜられる。営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にしたという。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した。また、斉は成王から黄河、穆稜(現在の湖北省)、無棣(現在の河北省)に至る地域の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与えられた。死後、丁公が跡を継いだ。呂尚は没時に100歳を超えていたという。しばしば呂尚は部族集団の長とみなされ、周と連合して殷を滅ぼした、もしくは周軍の指揮官として殷を攻撃したと解される。呂尚が属する姜氏は周と婚姻関係があったと推定する意見もある。春秋初期に強国となった斉は、自国の権威を高めるために始祖である呂尚の神格化を行った。呂尚の著書とされる『六韜』と『三略』は唐代に重要視され、731年に玄宗によって呂尚と前漢の張良を祀る太公廟が各地に建立された。760年に粛宗から武成王を追贈され、太公廟は武成王廟と呼ばれるようになり、文宣王孔子とともに文武廟に祭祀された。明の時代に入ると、洪武帝は周の臣下である呂尚を王として祀るのは不適当であるとして、武成王廟の祭祀を中止させた。呂尚が文王に仕えた経緯については、『史記』に3つの逸話が紹介されている。しかし、いずれの逸話も信憑性に疑問がもたれている。呂尚は、後世の兵法と周の権謀術数を論じる人間の尊敬の対象とされた。兵法書『六韜』は呂尚の著書とされたが、『六韜』は後代の人間による著作であり、実際に書かれた時期は戦国末期以降と考えられている。また、呂尚は『三略』の著者にも仮託されている。後秦の王嘉が編集した『拾遺記』に収録されている有名な説話として、呂尚が斉に封ぜられた時に昔別れた妻がよりを戻そうと来たがこれを拒んだ話がある(「覆水盆に返らず」)。『漢書』に収録された朱買臣の逸話など、中国には類似するエピソードが多く存在する。明代の学者・謝詔が著した「風月夢」第十回には「姜太公釣魚願者上鉤」という句があらわれる。明代の娯楽小説『封神演義』においては姜子牙と称し、殷周革命を指揮する周の軍師かつ崑崙山の闡教の道士として主役格で登場する。澎湖県馬公市には、呂尚は封神の儀式を行った後に自分が封ぜられる地位が無くなったため、石敢當という魔除けの神様に変化したとする伝承がある。
出典:wikipedia
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