アントン・セミョーノヴィチ・マカレンコ(ロシア語:、1888年3月1日-1939年4月1日)は、帝政ロシアからソヴィエト社会主義連邦共和国に変わっていく時代のロシアの教育者。ウクライナのベロポーリェの生まれで、父親は鉄道工場の塗装工だった。彼はその地方の師範学校を出て、元々は小学校の教員であった。十月革命が起きた1917年に高等師範学校を卒業し、視学官の職を経て、1920年、ポルタヴァ近郊の、収容した非行少年を勤労活動を通して矯正教育を行っていく少年院の院長に転進。1922年、同少年院は、ゴーリキーの名を冠して、ゴーリキー記念コムーナと改称する。1926年には同コムーナはハルキウ付近の修道院跡地に移転するが、彼は考え方の違いからこの施設のポストを辞して、それまで兼任職となっていたハルキウ近郊のジェルジンスキー・コムーナ(コミューン)での矯正教育に専念することになり、ここからの彼の集団主義教育の成果となる教育実践が生まれる。彼は、同時代に世界的な規模で広まった新教育運動の、子どもの自発性や関心、子どもの個性への着目の傾向とは一線を画して、集団の中での忠誠と服従、協同に重きを置いた。ジェルジンスキー・コムーナに彼は1935年まで在職し、キエフに移った後1937年にモスクワに移り、その教育体験を著作として次々に世に送り出した。彼の著作の大半は、教育小説のかたちを採っている。マカレンコはナデジダ・クルプスカヤと並び,ソビエトの集団主義教育の体系化を行った人物として知られている。生前、彼の教育論は、あまり高い評価を受けていたわけではないが、1931年、ソ連でまだトーキーが始まったばかりの技術で、彼の著作のいくつかから着想を得た映画「人生案内」が製作され、大きな反響を生んだ。この映画は翌1932年、日本でも公開された。この映画のヒットから、ソ連でもその映画の影の登場人物であるマカレンコの弟子が、別の少年院で教育実践を続けていくといった小説も書かれた。ヴィグドローヴァの『新人生案内』、邦訳もある。(草鹿 外吉訳、新評論社、1955年)日本においては1970年代にいわゆる全生研教育の一環として、マカレンコの理論の影響を受けた「学級集団づくり」という教育手法が、主に全国生活指導研究協議会に所属する一部の教員の間で流行した。原武史は,小学生時代に東京都の滝山団地でこの「集団づくり」教育を体験し,後に『滝山コミューン一九七四』としてその記憶をまとめ,発表した。
出典:wikipedia
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