O-Zone(オゾン、オー・ゾーン)は、モルドバ共和国出身の男性3人組によるルーマニアの音楽グループ。名前はダン・バランが友人ペトル・イェリホフスキ (') とグループを結成したときにDanの計画「'」(ゼロから始めるということから0-Zoneと名がついたと言われる)がそのままグループ名となった。Petruが抜けてラドゥ・アレクセイ・スルブ ('、 ルーマニア式綴りでは') とアルセニェ・トデラシュ (") が加入した新しいグループにもその名前が継続された。2004年夏、『恋のマイアヒ』(原題:『』)が大ヒット。『SMAP×SMAP』(フジテレビ)に出演したり、『ミュージックステーション』(テレビ朝日)に緊急生出演している。それに関してはDiscO-ZONEの節を参照。1979年2月6日生まれ。リーダー、作詞作曲担当。「アヒル声」とも称される事も有る、エフェクターを通したような響きの若干鼻に掛かったような独特のボーカルで、こぶしをきかせて歌うことが多い。2000年、ペトル・ジェリホフスキとのペアでO-Zoneの名でアルバムを発表している。不思議なことに、大ヒットを記録したにもかかわらず同アルバム中では現在の彼からは想像出来ないほど歌唱力が劣る。写真によってかなり顔の印象が変わる。1997年に「Pantheon」「Inferialis」と言ったバンドで活動。O-Zone解散後はロックバンド「BALAN」を結成したほか、2007年にはO-ZONEと同路線のユニット「Crazy Loop」を結成している。1978年12月14日生まれ。少しかすれて頼りなげなハイトーンボイスを持つ。シャイな性格。一番小柄だがグループ最年長である。やや筋肉質で「"」をステージで歌う際、「」(この部分は「僕には力がある」と言う意味)のところでマッスルポーズをすることも多い。2005年初夏(少なくとも7月1日以前)に妻アナとの間に女児アナスタシア・ダリアを授かった。小学生の頃はあまりにもシャイな性格だったため発表会ともなると声が出なかったがO-Zoneに入って克服した。Cupydonという白猫を飼っていたが2005年5月に他界してしまった。解散直後に男性歌手Mahayと「DJ Mahay feat. Radu」名義で「'」を発売、現在はRadU名義でソロ活動中で、「'」「"」などの曲を発表。1983年7月22日生まれ。長身と良く通る低音ボイス、さらにはきれいなファルセットも持ち合わせ、Raduと好対照を成す。怪しい目つきで台無しにしてしまうことが時々あるが、かなりのイケメンである。ファッションにもこだわりを持ち、特別なプロモーションなどでは、ベージュのカジュアルスーツとどくろの絵が入ったピンクのTシャツで決めている。ちなみに子供の頃から日本に憧れていて、青いプラスチックの刀のおもちゃを持っていたり、忍者になりたがっていたり「七人の侍」よろしく友達を集めて7人で近所の悪ガキと決闘したこともあるほか、現在でも日本車に乗っている。さらに10歳からは合気道もやっていた。大好物はキャンディーで、これだけは最愛の妹にねだられても渡さないらしい。O-Zone解散後は、ドイツなどでソロ活動を開始。Arseniumという名前で、「"Love Me Love Me"」「'」、などの曲を発表している。2006年3月24日から、ルーマニアのテレビ局Pro TVのダンス勝ち抜き番組『'』に女性ダンサーアリオナとペアを組んで出演、5月5日の決勝まで勝ち進み準優勝している。この年のユーロビジョンアテネ大会モルドバ代表に選ばれ5月20日の本戦に出場、20位だった。6月25日、アルバム「"The 33rd Element"」(Arsenium(ヒ素)が33番目の元素だから)を発売。2006年には9月1日に日本でも公式ファンクラブが設立され、10月20日よりルーマニア国内で公開の映画『"』に出演した。ファンサイトのチャットに顔を出すなど、ファンとの交流も欠かしていない。12月20日にはファンとのチャット会でファンにクリスマスプレゼントとして新曲「"Professional Heartbreakers"」を贈った。現在ではArsenie名義で活動している。1999年、'とその友人'の2名で結成。モルドバ国内で、アルバム『』からタイトル曲の他ファーストシングルの『』、『』『』など7曲のメガヒットを生み出す前代未聞の快挙を達成する。しかし、作詞作曲を担当し音楽を真剣に考えるDanはルーマニアでの活動を希望、あくまで音楽を趣味と考えるPetruとの対立が表面化し、二人は袂を分かつがその後も友人関係は続いている。2001年春、Danは3人組のユニット結成を計画、そんな中、彼のボーカルの先生が音楽スクールの後輩'を紹介した。は歌を習い始めたばかりで時期尚早とも思われたが、将来性を信じたDanがグループにArsenieを迎え入れた。この時ロシア訛りで話すArsenieがオーディションでエルヴィス・プレスリーの「Love Me Tender」を歌うと、ロシア語のアクセントが嫌いでロシア訛りが苦手だというDanだったが、彼の歌に嫌悪感は吹っ飛び「気にならない」と言ったそうである。少し経ち、Danは'と出会う。Danは、Raduに対してダンスの方向性に違いを感じていたがすぐにいい意味で固定されると思い、Raduを残り一人のメンバーに迎え入れ、ここに第2次O-Zoneは結成された。メンバーを揃えたDanはさっそく楽曲を用意し、まず『』『Number1』『』『』の4曲をレコーディング、2001年秋にシングル『』『Number1』をリリース、人気は上々だった。これを受けていよいよDanが望んだルーマニア進出に乗り出す。モルドバ人がルーマニアで成功した前例はなかったが、3人は成功を信じ、努力は惜しまなかった。資金が不足していたため、所有していたスタジオとシンセサイザーを売却した後に『』のプロモーション・ビデオを制作、この頃に『』『』、さらに『』をレコーディングしている。2002年春、ルーマニアの音楽大手「Media Services」と契約が決まり、8月に3人としてのファーストアルバム『Number1』を発売したものの、当初ルーマニアでは「モルドバの新しいバンド」としか受け止められていなかったためか、ラジオでもなかなか取り上げられずに苦戦した。そこで同年秋には、このアルバムの中から『Despre Tine』をシングルカットして発売、「覚えやすくて面白い」をテーマにプロモーション・ビデオも制作されるとこれがルーマニアでは数十年ぶりという大ヒットを記録、5ヶ月以上に渡ってヒットを続け、多くの老若男女が口ずさむほどの人気曲となり、それに乗じてアルバム『Number1』も10万枚を超えるメガヒット。O-ZONEは一躍ルーマニアNo.1のバンドとなった。2003年、シングル『』 (DDT) をリリース、との争い(後述)の後にヨーロッパ全土を巻き込んで大ヒット、同年8月にリリースされたセカンドアルバム『』も翌年夏に大ブレイクし、『』の軽快なリズムに乗ってO-Zoneはヨーロッパを席巻、モルドバのヒーローとなった。2004年冬にはシングル『』をリリース。この曲は元々ルーマニアでかつてNorocと言うグループが歌いヒットしたフォークソングだったが、これにDanが加筆して自分たちのアレンジでカヴァーしたものである。さらにこの年、ルーマニアのラジオ局Pro FMとのタイアップで女性歌手と『』を歌っている。しかし、ヨーロッパを席巻し、日本でもヒットの兆しが見え始めていた矢先の2005年1月14日、突然解散を発表した。Danがアメリカに渡り、という男性とO-Zoneの名で『MA-YA-HEE Song』(DDTに英語で新しい歌詞をつけた曲)をリリースしたことに反発した残りの2人に対し、Danが「今まで、作詞作曲プロデュース、全て自分でやってきた。O-Zoneはずっと俺のものだった。」「O-Zoneに今後はない。今このプロジェクトを終わらせているところだ。」と一方的に解散を宣言したのだ。このことでDanを兄のように慕っていたArsenieはショックからか体調を崩してしまい入院、この時のインタビューで『知らないよ。そんなの信じられないし、もう興味ないよ。俺はもう二度とダンには会いたくないんだ。』『実を言うと、彼との事はもう既に過去のことになりつつある。もう、俺はダンのことなんて忘れたよ。もう、彼は俺の中には存在していないんだ。』とその悲痛な胸の内を語っている。そんな経緯もありDanは2人から孤立してしまったが、奇跡的に和解し、現在ではすっかり元の鞘に収まっている。日本では3月に『DiscO-ZONE』のリリースを控えていたため、発売元よりこの解散の事実が伏せられていた。2005年3月、エイベックス・ディストリビューションより日本盤のアルバム『DiscO-ZONE』をリリース。7月15日には来日してミュージックステーションに出演。8月22日付のオリコン総合アルバムチャートで発売24週目にして1位を獲得。海外アーティストのデビューアルバムの1位は、1972年のポール・サイモン、2003年のt.A.T.u.、2004年のUtadaに続いて史上4組目。2005年12月1日、第47回日本レコード大賞特別賞を受賞。2005年9月23日、ルーマニアの音楽イベント「チェルブル・デ・アウル国際音楽祭」にて最後のコンサートを敢行、『Despre Tine』『』『』『』『』を歌った。この模様はTVR internationalという放送局でインターネット放送で生中継され世界中のファンが彼等の最後の勇姿を見届けた。日本でも23日、秋分の日の早朝だったため多くのファンがファンサイトの特設チャットに集結、回線の混雑に耐えながらその模様を見守った。さらに翌日には再放送もされたが、アクセス過多のため回線がパンクしてしまう事態が発生した。2005年10月、解散コンサート後にも関わらず3人で来日、7日の「ミュージックステーション」、24日の「SMAP×SMAP」に出演している。この年の12月にまたもや来日し、「ミュージックステーション」や「とくばん」などに出演。しかしRaduは、娘と迎える初めてのクリスマスの為か来日はしなかった。2007年3月12日、O-Zoneが近々再結成するのではないか、という内容の記事がルーマニア語サイト「Revista Vip」に掲載された。2月にキシナウのクラブにてArsenieとDanが面会していたため、これが噂の出所では、との声もある。『』(以下DDT)がヨーロッパ中で大ヒットした裏には、ある女性歌手との壮絶なバトルがあった。2003年秋、イタリアのダンスミュージック専門会社ウニヴェルソ・レーベルの社長はある日、移動中の車内でルーマニア出身の運転手がカセットに入れて車に乗せていたDDTを初めて聴き、この曲は大ヒットすると確信した。ウニヴェルソ・レーベルにはというルーマニア系の女性歌手が所属していた。彼女は元ミス・ブカレストでルーマニア語も片言ながら話せたために社長はDDTを彼女に歌わせることにした。のDDTは発売と同時にイタリアで大ヒットを記録したが、オリジナルを歌うO-Zoneはこれを訴える法的手段がなかった上ちょうど英語版DDT(MA-YA-HEE Songとは全くの別物)をひっさげてヨーロッパ進出をしようとしながら上手くいっていなかったこともあり当然不満をあらわにした。ちょうどその頃、イタリアのタイムレコードがこのヒットにあやかって二匹目ドジョウを狙うべく、DDTを歌う歌手を捜していた。そんな中タイム社の社員がカンヌの音楽商談会『国際音楽著作権見本市 (MIDEM)』の展示場でルーマニアの同業者と出会い、のバージョンが悪質コピーだったことを知った。そして同時にオリジナルの方はどことも契約を結んでいないと知り、さっそくO-Zoneと契約、DDTをヨーロッパに売り出すキャンペーンを始めていたに原曲を持って真っ向から勝負を挑んだ。イタリアでは時すでに遅しと言ったところで、O-Zoneはに勝てなかったが、隣のフランスでは壮絶なバトルを繰り広げた。インディーズ・レーベルのハリーミュージックが両方のバージョンを発売、社長のピエール・フォルガは「はイタリアでNo.1になりました。イタリア市場の動向は、フランスでのダンス系のヒットに影響を与えることがよくあります。しかしO-Zoneのあのキッチュなビデオ・クリップを見たとき、私はすぐさま夢中になってしまいました」と語った。そして、O-Zone間で抜きつ抜かれつの壮絶なバトルが展開された。ある放送局はO-Zone、別のある放送局はを流し続けた。しかしO-Zoneにはフランスの青少年に絶大な支持を受けて、流行の発信源となっているDJセバスティアン・コエが味方に付き、彼が毎朝ラジオでO-ZoneのDDTを流し続けたことが功を奏し、O-Zoneは見事No.1ヒットを獲得して勝利したのだ。フランスでNo.1ヒットを獲得したO-ZoneのDDTは勢いに乗ってヨーロッパ全土を席巻、ロシアでも大ヒット、日本でもその後ヒットしているのは周知の通りである。その後Danは「のコピーがなかったら、ヨーロッパで名を挙げることはたぶん、きっとできなかったと思う」と語っている。O-Zoneは英語のバージョン(先述の『MA-YA-HEE Song』とは全くの別物)を用意していて、ルーマニア語のオリジナルが外国語圏で売れるなど想像だにしていなかったのだ。2004年夏、「マイアヒー、マイアフー」という独特のフレーズから始まる「」が、ルーマニア語(モルドバ語)の不思議な響きの魅力(「」でいうところの「(僕を連れて行かない)」「(菩提樹)」と「(君の)」のようなルーマニア語独特の韻の踏み方もその一つ)もあって、ヨーロッパ中で大ヒット。ドイツ、スペイン、フランス、イタリアなど15ヶ国のチャートで1位を記録する。曲の内容は、自分を捨てた恋人に電話するとても切ない物となっている。本来は直訳すると「菩提樹の下の恋」であるが、日本ではレコード会社により付けられた邦題は、全く意味上のつながりを持たない「恋のマイアヒ」「恋の呪文はマイアヒ・マイアフ」となってしまった上、3曲目に収録されていたこの曲がアルバムコンセプトを無視して1曲目に移されてしまった。本来はイントロにDJ風に自分たちの紹介が入る「Fiesta de la Noche(夜の祭)」が祭りの幕が開くがごとく先頭に収録されている。日本においても、2004年ごろから名古屋のラジオ局ZIP-FMがヘヴィー・ローテーションするなどにより、知名度が上がりはじめた。なお、ZIP-FMのチャートでは2004年10月10日に初の1位を獲得して以後、2ヶ月近くにわたって1位を独占した上、1年近くたった2005年夏でもチャートインしていた。更には「SMAP×SMAP」の「ホストマンブルース」のコーナーで取り上げられることで知名度は飛躍的に拡大し、ついには社会現象とまで呼ばれるようになった。2005年7月には「ミュージックステーション」に緊急生出演もしたが、Raduはちょうど妻の出産と重なってしまったため、DanとArsenieのみで出演した。だが、実際には来日より二週間ほど前にメンバーのオフィシャルサイトで誕生の知らせが既に公表されていたため、出演依頼を断ったのではという声もある。なお、日本版『DiscO-ZONE』の曲名のカタカナ表記にはかなり間違いが多い。例えば、3曲目の「」は「デ・セ・プラン・チタレーレ」と表記されているが、ルーマニア語での実際の発音をカタカナで表記すると「デ・チェ・プルン(グ)・キタレーレ」に近くなる。そして、歌詞カードに記されている1曲目の「」の歌詞は、実はUS盤DiscO-ZONEのボーナストラックである"Ma Ya Hee"(Dragostea Din TeiのEnglish.ver)の歌詞なのである。このEnglish.verの内容はルーマニア語で歌われているオリジナルの歌詞とはまったく異なるものである上、O-Zone解散の直接的原因と言われる曲のものであるため大きな問題となっている。エイベックスは、あくまでも「」に意味がないように思わせたり(実際は「僕を、僕を連れて行ってはくれない」という意味がしっかり存在している)、「恋のマイアヒ」を英語に訳すと"Words of love"になるようにしたいらしい。このことや、日本ではO-Zoneの本来の姿がほとんどマスメディアによって語られていないことから、日本で純粋にO-Zoneを愛しているファン達からは、こうしたavexの売り出し方に批判的な意見が多数噴出している。それもあって、これらのファン達はルーマニアの公式サイトなどから情報を集めて、立派なファンサイトを作り上げるまでに至った。なお、2007年6月1日放送の「探偵!ナイトスクープ」では、再び彼らの(マイアヒとは別の)空耳ソングが取り上げられていた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。