王塚古墳(おうつかこふん)は、兵庫県神戸市西区王塚台にある古墳。形状は前方後円墳。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「玉津陵墓参考地」(被葬候補者:第31代用明天皇皇子当麻皇子妃舎人姫王)として陵墓参考地に治定されている。兵庫県南部、明石川右岸の印南野台地の東縁部に築造された古墳である。現在は宮内庁の治定墓として同庁の管理下にあり、2000年度(平成12年度)には宮内庁書陵部により墳丘裾部で発掘調査が実施されている。墳形は前方後円形で、前方部を南方に向ける。墳丘の段築は現在では認められないが、元は3段築成と推定される。推定墳丘長は約74メートルを測り、明石地域では五色塚古墳(神戸市垂水区)に次ぐ規模になる。墳丘表面では、葺石(主に明石川から採石)や円筒埴輪・形象埴輪(家形・盾形・蓋形・壺形埴輪)が検出されている。主体部の埋葬施設は不明。墳丘周囲には墳丘と相似形の周濠が巡らされているが、元来の濠の形状は詳らかでない。また、周辺には陪塚として3基が存在したと伝えられ、うち2基が現存し王塚古墳同様に宮内庁の管理下にある。この王塚古墳は、出土埴輪から5世紀前半(古墳時代中期)の築造と推定される。明石川流域では白水瓢塚古墳(神戸市西区伊川谷町潤和)に続く首長墓に位置づけられる。なお王塚古墳の周辺では、弥生時代の播磨吉田遺跡や古墳時代-中世期の出合遺跡などの遺跡の分布も知られている。古墳の規模は次の通り。値は宮内庁の測量図に基づく(括弧内は推定復原値)。2000年度(平成12年度)の調査によって墳丘裾部の全周が削り取られていることが判明しており、括弧内はそれを加味し復原した場合の値になる。本古墳の被葬者は明らかでない。宮内庁では被葬者を特に定めない陵墓参考地に治定しているが、被葬候補者として用明天皇(第31代)皇子の当麻皇子の妃の舎人姫王(とねりのひめおおきみ、舎人皇女<とねりのひめみこ>)が想定されている。この舎人姫王は飛鳥時代の皇族で、『日本書紀』推古天皇紀によれば、推古天皇11年(603年)に夫の当麻皇子が征新羅将軍として出征する際に付き従ったが、同年7月にその途上の播磨の赤石(= 明石)で薨じ、赤石の「檜笠岡の上」に葬られたという。本古墳が宮内庁により陵墓参考地に治定されたのは、その墓に擬されたことによる。ただし、前述のように本古墳が実際には舎人姫王のはるか以前(5世紀前半)の築造になることは明らかで、本古墳の被葬者としては不適当であり、また正確な「檜笠岡の上」の所在も未だ詳らかでない。王塚古墳の周囲では陪塚(陪冢)3基の築造が伝えられ、うち次の2基が現存する。所在地交通アクセス周辺
出典:wikipedia
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