千鳥型水雷艇(ちどりかたすいらいてい)は、大日本帝国海軍が第一次世界大戦後の1931年(昭和6年)より建造した水雷艇のクラスである。ロンドン軍縮条約の影響により、ミニ駆逐艦ともいえるほど重武装の設計の艦艇であったため、本型のうち3番艦「友鶴」が、演習中転覆するという友鶴事件を引き起こした。水雷艇とは、主武装が砲ではなく、水雷装備(初期は外装水雷、後に魚雷)で敵艦を攻撃する艦艇のことである。しかし、この水雷艇を「駆逐」する事を第一義とし、砲も装備した大型水雷艇である駆逐艦が考案されると、各国は水雷艇の建造を行わなくなった。日本海軍でも1924年(大正13年)より艦艇類別標準から水雷艇の類別がなくなり、建造も行われなくなった。日本海軍は、ワシントン海軍軍縮条約により主力艦数を制限されたため、補助艦である巡洋艦・駆逐艦・潜水艦などを充実させることで補おうとした。ところが、その後のロンドン軍縮条約により補助艦まで制限を受ける事になった。そのため海軍では、既存艦の戦闘力を引き上げることに腐心する一方、条約の項目「600トン以下は条約の対象外」からこの対象外の艦艇を建造する事となる。これと同じ考えは、日本よりさらに制限が厳しいフランスやイタリアも持ち、これらの国でも水雷艇を復活させている。フランスやイタリアの水雷艇が初期の水雷艇の発展系ともいえるものに対し、日本海軍のそれは、600トンというサイズに2から3世代前の「神風型駆逐艦(2代目)」に匹敵する装備を施すという「ミニ駆逐艦」ともいえるものとなった。しかし、この排水量での武装搭載量はあまりに過大であり、当時の新鋭艦「吹雪型駆逐艦」の武装搭載比率が約14パーセントなのに対し、千鳥型は24パーセントという強武装となっている。当時の日本艦の武装は(外国艦と比べて)明らかに多すぎるものであったが、千鳥型はそれが極端に進んだ艦といえる。本型の基本設計は同時期に設計された特型駆逐艦に採り、船体形状は艦首甲板の乾舷部のみ高い短船首楼型船体を採用しているが船首楼の長さは約25.5mもあり船体の1/3を占めていた。ダブル・カーブ型の複雑な形状を持つクリッパー型艦首から強く反り返った(シア)艦首甲板上に「三式 12.7cm(50口径)速射砲」を防盾の付いた単装砲架で1基を配置。火器・雷撃装備の発射指揮装置は艦橋に集中配置されたため、本型の艦橋構造は「特型駆逐艦」に準じた塔型艦橋となった。艦橋構造は3層構造で1層目に艇長室、2層目に電信室や無線室、3層目が羅針艦橋で操舵輪室の前方と側面をガラス窓と整風板で囲い、後方には砲戦・魚雷戦指揮装置が配置され、後部に見張り所が簡素な三脚型の前部マストと接続されていた。羅針艦橋の屋根をキャンバス地で覆った上に30cm探照灯台と2m測距儀を載せた構造であった。この構造はトップヘビーが指摘され、「友鶴事件」以降は2層構造に減じている。2基のボイラーを直列に配置したために集合式の1本煙突が立ち、その周囲は艦載艇置き場となっており、2本1組のボート・ダビッドを片舷2組の計2組により運用された。1番煙突後方の中央部甲板上に53.3cm連装魚雷発射管を直列に2基配置していた。後部魚雷発射管の後方に簡素な後部三脚型マストが立ち、後部甲板上に後向きに2番連装主砲1基の順である。本型の主砲に採用されたのは同時期の主力駆逐艦にも採用されている「三式 12.7cm(50口径)速射砲」で、その性能は重量23.0kgの砲弾を仰角45度で18,300mまで、更に最大仰角75度で最大射高12,200mまで届かせられ、限定的に対空射撃も可能であった。 砲身の俯仰能力は仰角75度・俯角5度で、旋回角度は左右150度の旋回角度を持っていた。装填形式は固定角装填で、発射速度は人力装填のため毎分5~10発であった。これを砲塔型で搭載した。これは駆逐艦「初春型」に搭載されたものと同形式で、艦首砲は単装型でありながら17トンもあり、後部の連装砲も31トンもあった。揚弾機の弾筒の重量も相まって従来の二等駆逐艦を上回る約74トンにも達し、甲板を補強せざるを得なくなった。対空攻撃用に13mm機関銃を単装で1丁装備した。他に対艦攻撃用に「六年式 53.3cm連装魚雷発射管」中心線上に直列で2基搭載した。搭載魚雷は8本で内4本は魚雷発射管に装填し、残り4本は予備魚雷として煙突側面部の格納匣に2本ずつ搭載された。砲塔形式の12.7cm速射砲3門は重量過剰であったために全廃され、軽量化のため「十一年式 12cm(45口径)速射砲」に換装された。その性能は重量23.0kgの砲弾を仰角40度で15,100mまで、更に最大仰角40度で最大射高8,000mまで届かせられた。 砲身の俯仰能力は仰角55度・俯角5度で、旋回角度は360度の旋回角度を持っていた。装填形式は固定角装填で、発射速度は尾栓がスライド式に改められたが人力装填のため毎分5発であった。これを防盾の付いた単装砲架で艦首に1基、船体中央部に1基、後部甲板上に1基の計3基を搭載した。この改装により砲兵装は74トンから52トンにまで軽量化できた。対空機銃は13mm機関銃を単装で1丁であったが、昭和19年に強化のために「初雁」は毘式 25mm機銃が採用され、これを艦橋前側と後部マストの後方に連装砲架で1基ずつ計2基と3番主砲を撤去して浮いた重量で単装砲架で6基を各所に配置した。また、魚雷兵装は53.3cm連装魚雷発射管は1基のみとなり予備魚雷は廃止された。これにより魚雷兵装の重量は70トンから約30トンへと軽量化された。本型の機関構成はロ号艦本式水管缶(空気予熱器付き)2と艦本式ギヤード・タービン2基を組み合わせて2軸推進で最大出力11,000馬力で最大速力30ノットを発揮できる設計であった。機関配置はボイラー2基の煙路を艦内で1本に纏めたために集合式の1本煙突となっていた。機関配置は第1ボイラー室・第2ボイラー室・タービン室の順である。タービン室は縦隔壁により左右に隔てられており、各室に高圧タービンと低圧タービンが搭載されていた。千鳥型は日本海軍で初めて高温高圧蒸気を機関に使用した。高温高圧蒸気の使用は機関の効率を高め、同一出力の場合は機関をより小さくできる。また1馬力当たりの燃料消費量が少なくなり、燃料搭載量の減少、または航続距離伸延にもなる。千鳥型の場合は蒸気過熱器を装備し、飽和蒸気を過熱することで圧力30kg/cm、温度350度の蒸気を使用した。後に「島風」で使用された圧力40kg/cm、温度400度の高温高圧蒸気に通じる第一歩であった。本型を条約で定められた排水量に収めるために積極的に新機軸が盛り込まれた。船体の建造に於いては電気溶接の大幅な採用や、リベットの小径化による軽量化などが行われた。しかし、経験の浅い電気溶接の採用やリベットの小径化は船体強度の低下を招き、友鶴事件を引き起こす一因となった。また、駆逐艦並の強武装や外装に伴う重量増加を補うために船体は幅広となり吃水は浅いタライのような形状となって重心が高くなってしまった。1番艇「千鳥」は1933年(昭和8年)11月に竣工したが、公試排水量が計画より15%もオーバーし復元性能が不足していた。そのためバラスト40トンを艦底部に搭載したがそれでも転舵の際に大傾斜を生じ、舷側に1番砲塔から2番主砲塔にかけて大規模なバルジを装着することで復元性能を改善して竣工したが、その改造はさらなる重心点の上昇を招いた。このような艦艇の限界を超えるような過大な兵装は、艦の復原性が不足する事となるとの指摘があったが、艦政本部の責任者藤本喜久雄少将(当時)は用兵側の要求を満たすためこのような艦を建造し続けた。その結果、1934年(昭和9年)3月に3番艦「友鶴」が荒天のため転覆、総員113名中死者行方不明者あわせて100名を出すという大事故が起こった。調査の結果、千鳥型を含む藤本が設計していた艦は、復原性の不足が指摘され、すでに完成していた3隻を含めた完成艦は改善工事が行われ、4番艦「初雁」は建造中だったため性能改善を施して竣工している。本型の主な工事内容は以下の通り。これらの工事により復元性能は改善されたが兵装は大幅に減少し排水量は公試状態で772トンにまで増加、速力は28ノットまで低下した。1935年(昭和10年)に第四艦隊事件が起き本型も1936年(昭和11年)8月から11月にかけて改善工事が行われた。詳細は明らかでないが他艦ほど大きな問題にはならなかったようである。ただ速力は更に低下し27ノットほどだったと言われる。1936年(昭和11年)12月に第21水雷隊を同型艇4隻で編成し中国方面へ進出、上陸支援や封鎖作戦などに従事した。太平洋戦争開戦後は緒戦は南方の攻略作戦を支援、その後は船団護衛などに従事した。大戦終盤まで活躍したが昭和19年12月から翌年3月にかけて3隻が戦没。「初雁」1隻のみが香港で残存した。大戦中の機銃増備の状況。対潜兵装は「真鶴」「友鶴」の場合、八一式爆雷投射機8基、九三式水中聴音機1基、九四式探信儀1基(水流覆付)を装備した。
出典:wikipedia
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