ヨハネス・ブラームスのピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品83(ドイツ語表記:)は、初期の作品であるピアノ協奏曲第1番より、22年のブランクの後に書かれたピアノ協奏曲。交響曲第2番やヴァイオリン協奏曲と並ぶ、ブラームスの成熟期・全盛期の代表作であり、最も有名な作品のひとつでもある。ブラームスの作曲の師匠エドゥアルト・マルクスゼンに献呈された。初めてのイタリア旅行にインスピレーションを得て1878年に作曲が開始され、ウィーン近郊のプレスバウムに滞在中の1881年に完成された。この間にヴァイオリン協奏曲の作曲に集中していたため、2回目のイタリア旅行から帰国後一気に書き上げた。イタリアで受けた印象を基に書かれているためブラームスにしては明るい基調で貫かれている。楽曲構成上はピアノ・ソロが単独で自由に奏するカデンツァ的な部分は無いとも言え、ソリストの超絶技巧の見せびらかしとしての協奏曲という従来の協奏曲観からは意図的に距離をとった作品であるが、それにもかかわらず、この作品が現実に要求する桁外れの難技巧は、多くのピアノ奏者や教師をして「最も難しいピアノ曲の一つ」と呼ばせてもいる(ちなみに記録によればブラームスはこの曲を自らの独奏で初演しており、ブラームス自身のピアノ演奏の技術の高さがうかがえる)。ピアノ協奏曲第2番の一般初演は、1881年11月9日、ブラームス本人の独奏、アレクサンダー・エルケルの指揮によりブダペストで行われた。不評だったピアノ協奏曲第1番と異なり、この作品は即座に、各地で大成功を収めた。ブラームスはその後、ドイツ、オーストリア、オランダでこの作品の演奏会を繰り返し開き、そのうちの幾つかはハンス・フォン・ビューローによって指揮された。通常、協奏曲は3楽章から構成されるが、この作品は交響曲のように次の4楽章から構成されている:ラフマニノフの第3番と並ぶピアノ協奏曲の難曲として有名である。情熱的な第2楽章の存在が異例である。なお、スケルツォ入りの協奏曲としては、アンリ・リトルフの5曲の「交響的協奏曲」、フランツ・リストのピアノ協奏曲第1番という先例がある。スケルツォ楽章を備えた4楽章からなり、その性格から「ピアノ独奏を伴う交響曲」とも呼ばれるほどで、当時に書かれた協奏曲としては最も長い部類に入るものであった。また第3楽章では、(ヴァイオリン協奏曲第2楽章のオーボエのように) 主題提示をピアノではなくチェロ独奏が行うことなども、通常のピアノ協奏曲とは異なる点である。独奏ピアノ、フルート2(ピッコロ持ち替え1)、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2(第2楽章まで)、ティンパニ1対(第2楽章まで)、弦五部。約50分(各18分、9分、14分、9分)。ブラームスがその完成稿のコピーを送った友人、外科医兼ヴァイオリン奏者のテオドール・ビルロートはこの作品を、その規模の大きさにも関わらず「ピアノ小品集」と表現した(ビルロートはこれ以前にブラームスから弦楽四重奏曲第1番、第2番を献呈されている)。実は、ブラームス本人もこのような逆説的な表現をわざと使っていたようである。ピアノの弟子であり、相談相手でもあったエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクへ宛てた手紙の中で、ブラームスは長大で劇的な第2楽章を「小さなスケルツォ」と呼んだ。同様に、陽気な「交響曲第2番」(1877年)の時には、出版社に「堪えがたいほどに悲痛な作品である」と伝え、更には「楽譜は葬式の黒枠を入れて印刷して欲しい」と申し出たという。
出典:wikipedia
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