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島尾敏雄

島尾 敏雄(しまお としお、1917年(大正6年)4月18日 - 1986年(昭和61年)11月12日)は、日本の作家である。第十八震洋特攻隊隊長として、奄美群島加計呂麻島に赴任。1945年8月13日に特攻戦が発動され、出撃命令を受けたが発進の号令を受けぬまま即時待機のうちに終戦を迎える。作品は超現実主義的な「夢の中での日常」などの系列、戦争中の体験を描いた「出発は遂に訪れず」などの系列、さらに家庭生活を描いた「死の棘」などの系列に大別される。また生涯書き続けられ、小説作品との決定的な差異は無いとされる日記や紀行文など記録性の高いテキスト群や南島論なども高い比重を占める。妻は同じく作家の島尾ミホ。長男は写真家の島尾伸三で、漫画家のしまおまほは孫にあたる。心因性の精神症状に悩む妻との生活を描いた『死の棘』は小栗康平によって映画化され、第43回カンヌ国際映画祭にて最高賞パルム・ドールに次ぐ、 審査員グランプリを受賞した。「ヤポネシア」なる概念を考案したことでも知られる。1917年4月18日、神奈川県横浜市戸部町に輸出絹織物商を営む父島尾四郎、母・トシとの間に長男として生まれた。両親、妹二人、弟三人の6人兄弟であった。1922年、横浜尋常小学校附属幼稚園に在園時、関東地震により横浜の自宅が全壊したが、福島県相馬の実家に帰省中のため難を逃れた。この頃の大震災からの疎外体験については、後の戦争体験との類似においてエッセイ等でたびたび言及される。1924年、関東大震災の影響で11月下旬に兵庫県武庫郡西灘村に一家で移住し、西灘第二尋常小学校(現・神戸市立稗田小学校)に転校する。謄写版や片仮名のゴム活字を用いて小冊子を編集・印刷することに没頭した。1929年、神戸尋常小学校(現・神戸市立こうべ小学校)に転校し、そこで当時国語教師をしていた小説家の若杉慧に綴方の指導を受ける。同じく神戸小学校で若杉に綴方、書方の指導を受けた陳舜臣が印象に残る生徒であった一方、島尾は目立たない生徒であったという。1930年に兵庫県立第一神戸商業学校に入学。同校在学中の1933年、金森正典と同人誌『峠』を創刊する。他に何種類もの同人誌に詩や文章を寄稿していた。本来であれば商業学校卒業者は進学せずに社会に出るのが一般的だったが、卒業の頃になって父親の事業が軌道に乗り上級の学校へ進学することが許された。しかし兵庫県立神戸高等商業学校の受験に失敗して進学先の決まらぬまま第一神戸商業学校を卒業し、浪人生活に入った。、翌年も高等商業学校を受験しなければならなかったが、地元の兵庫県立神戸高等商業学校を避け、実家から遠方の小樽高商、長崎高商、鹿児島高商など地方の高等商業学校への進学を考えていたと述べている。1936年4月、長崎高等商業学校に入学した。中桐雅夫編集の『LUNA』同人となり、以降同誌に幾つもの詩を発表した。1938年、長崎高商2年の頃、矢山哲治らと同人誌『十四世紀』を創刊するが、島尾が載せた小説と他同人二名の小説及び詩の内容が風俗壊乱と反戦思想の嫌疑をかけられ発行と同時に内務省より発売禁止の処分を受けた。この頃ロシア語を学習する傍らドストエフスキー、プーシキン、チェーホフ、ゴーゴリ、ガルシンなどロシア文学や商業学校時代から引続き大菩薩峠を耽読した。1939年3月に長崎高等商業学校を卒業するが、神戸商業大学の受験に失敗したため引き続き4月から同校海外貿易科に籍を置く。この夏、毎日新聞社主催のフィリピン派遣学生旅行団の一員としてルソン島、台湾を旅行した。その体験が後に『呂宋紀行』として結実する。また同年、雑誌「科学知識」の懸賞小説に「お紀枝」が当選し(選者杉山平助、高見順)、賞金十円を得た。10月からは福岡の同人雑誌『こをろ』に加わる。長崎高商時代を舞台とした小説は「断崖館」と「春の日のかげり」、および習作期の「南山手町」がある。『こをろ』は福岡市で刊行された文藝同人誌で、1939年から1943年末にかけて、14号まで発行された。同人には島尾敏雄のほか矢山哲治、真鍋呉夫、阿川弘之、那珂太郎、小島直記、一丸章らがおり、同人は長崎高商と福岡高校の二つの系統からなっていた。島尾の言によれば、福岡高校出身者はゲオルゲ、カロッサ、リルケ等ドイツのそうした系統や当時の風潮の「日本浪曼派」的な傾きが強く、商業(福岡商業)、高商出身者はそれに馴染まないものが多かったという。そうした性質の異なる二派の青年たちからなる『こをろ』は度々分裂の危機に見舞われた。『こをろ』の中心人物で、25の若さで自殺とも事故ともつかぬ列車事故により夭折した矢山哲治の死に際しては、同人の多くが既に出征していたこともあって島尾が最も近くに居り、衝撃を受けた。『こをろ』の矢山追悼号へは「矢山哲治の死」を掲載し、葬式では島尾が弔辞を読んだ。矢山哲治との関係についてその当初の印象を「このやうにドイツ風な又日本浪漫派風な雰囲気に誕生していた矢山とさういふ所に無縁であった私」としていたが、矢山の死後の1943年後半を述懐して、島尾は日本浪曼派の代表的批評家である保田與重郎について「旺ニ彼ノ書ク物ヲ読ンデソレニ傾イタ」「ムサボルヤウニ読ンデ甚ダシク心ヒカレタ」と書いている。『こをろ』へは「呂宋紀行」「暖かい冬の夜に」「浜辺路」「断片一章」などを発表している。1940年、九州帝国大学法文学部経済科に入学。翌41年に九州帝大法文学部文科を受験しなおして再入学し、東洋史を専攻する。そのため『水滸伝』のほか『浮生六記』などの小説や『李太白詩選』、また研究資料として元史にも親しんだ。在学中、同じ研究室の一級下に庄野潤三がおり親交を結ぶ。佐藤春夫、木山捷平らを共通して好んだ。庄野にはこの頃を描いた日記体の小説「前途」がある。1943年、8月に卒業論文『元代回鶻人の研究一節』を書き上げ九州帝国大学を半年繰り上げで卒業し海軍予備学生を志願した。また、私家版「幼年期」を70冊限定で発行。この頃、庄野を介して詩人の伊東静雄との通交がはじまる。その関係は戦後のある時期まで続き、伊東の圏内で林富士馬、庄野潤三、三島由紀夫らと同人誌『光耀』を創刊することとなった。1943年の9月末、九州帝国大学を半年繰り上げで卒業したのち、陸軍での内務班生活を嫌って海軍予備学生を志願する。はじめ飛行科を志願し、予備学生試験の当日の判定では航空適性であったが一般兵科に採用され、旅順の教育部へ入った。基礎教育期間を終了したあとの術科学校の希望書に暗号、一般通信に加え、惰弱と思われるのが嫌で第三希望に魚雷艇部門を記入したところ採用され、第一期魚雷艇学生として1944年2月から横須賀市田浦の海軍水雷学校で訓練を受けた。当時魚雷艇部門は創設されたばかりであり、また術科の専門部門では一番の危険配置とされていた。1944年4月から長崎県川棚町の臨時訓練所で水雷学校特修学生として過ごすうち、特攻の志願が認められた。猶予期間として一日の休暇が与えられ、就寝前に志願の可否を紙に書いて提出するかたちで募られたという。1944年10月には第十八震洋特攻隊指揮官として、180名ほどの部隊を率いて加計呂麻島呑之浦へ赴いた。その地で更に訓練を重ね、出撃命令を待つ日が長く続いた。1945年8月13日の夕方に特攻戦が発動され出撃命令を受けたが、敵艦隊が姿を見せず、発進の号令を受け取らぬまま14日の朝を迎えた。震洋での特攻戦は夜襲を原則としていたため日中の出撃はありえず機会は翌晩まで延期されることとなった。その日の正午に大島防備隊司令部から全指揮官参集の命令を受け、翌15日に即時待機状態のまま敗戦を知る。復員後は実家のある神戸で文学活動を開始する。伊東静雄を度々尋ね、はじめ庄野潤三、林富士馬、三島由紀夫らと『光耀』、のちに同じく伊東静雄の下に集まっていた富士正晴らと『VIKING』を創刊する。『VIKING』へ掲載した中篇「単独旅行者」が野間宏の目に触れ、1948年5月、『近代文学』系の雑誌『芸術』へ転載されることとなり文壇に認められる。また、デビュー第2作「夢の中での日常」が花田清輝、佐々木基一らの『綜合文化』(真善美社)へ掲載された。翌月に雑誌『近代文学』へ同人として参加する。また1950年5月、新日本文学会の雑誌『新日本文学』へ掲載した「ちっぽけなアヴァンチュール」が井上光晴の「書かれざる一章」とともに批判を受けた。その後東京へ行き、吉本隆明、奥野健男、詩人の清岡卓行らと雑誌『現代評論』を始めるが、自らの浮気問題を機に妻が心の病に冒される。その後、妻の病気のため妻の実家がある奄美に帰島して鹿児島県立大島実業高等学校講師をしながら執筆活動を続ける。奄美大島移住後、カトリック信徒であった夫人の親戚に勧められ、1956年に奄美の聖心(みこころ)教会で、カトリックの洗礼を受ける(洗礼名ペトロ)。その後、鹿児島教区教区司祭の田辺徹神父(元指宿教会主任司祭・現在教区司祭を引退し、指宿市に在住)、大野和夫神父(元・南九州小神学院院長、現鹿児島教区奄美地区長)、美島春雄神父(元・鹿児島教区本部付司祭、故人)、小平卓保神父、郡山健次郎神父(後述)や、コンベンツァル聖フランシスコ修道会のルーシン・ヤング神父(元赤羽教会主任司祭、故人)、ルカ・ディジヤク神父(元・古田町教会司祭、故人)、ゼローム・ルカゼフスキー神父(元・古田町教会主任司祭、名瀬市名誉市民、故人)ら、カトリック聖職者と親交を結ぶこととなる。特に、ルカ・ディジャク神父は「トシオは、私のベスト・フレンド。」とまで述べている。また、長崎純心聖母会の修道女とは、娘のマヤが鹿児島純心高等学校に入学した関係で交流を持つようになり、後年鹿児島純心女子短期大学で教鞭をとるきっかけとなった。(同会の郡山康子修道女はミホ夫人の遠縁にあたり、郡山健次郎司教の実姉である)奄美分館長を辞した翌年の1976年に名瀬市(現奄美市)から指宿市西方に住所を移し、鹿児島純心女子短期大学で教鞭をとっていた。純心女子短期大学退職後、1977年に神奈川県茅ヶ崎市に移住。1983年に娘のマヤが、鹿児島純心女子短期大学の図書館司書に就職したのを期に、鹿児島県姶良郡加治木町に移住。1985年12月鹿児島市宇宿町に自宅を購入。亡くなる3日前宇宿町の自宅で、書籍の整理中に脳内出血を発症し、出血性脳梗塞のため鹿児島市立病院に搬送されるが意識が戻らぬまま、1986年11月12日死去。葬儀は鹿児島市の谷山教会で行われ、生前に交流のあった鹿児島教区教区司祭の小平卓保神父(元鹿児島純心女子短期大学教授・元紫原教会主任司祭、故人)、郡山健次郎神父(元志布志教会主任司祭、現鹿児島教区司教)の司式で執り行われた。新宿の酒場で、酔ってからんできた中上健次に「自分は作家などと思っていない、ただ苦しまぎれに書いているだけだ」「お前、あれぐらいの作品で、自分を作家だと思っているのか」と批判し、しまいには「なまいき言うな、ぶちのめしてやるから、ちょっと表へ出ろ」と言って追い払った。奄美大島は戦後の一時期アメリカ軍の支配下にあった影響で行政組織の再建が十分ではなく、島には本格的な図書館が無かった(アメリカ軍と琉球政府が管轄していた琉米文化会館を改組した奄美日米文化会館が図書館の機能を担っていたが、日本返還後の引継の不十分さから機能停止に陥っていた)。そこで島尾は奄美に図書館に誘致する計画を立てた。鹿児島県はこれに応じて、1958年に奄美日米文化会館を母体として鹿児島県立図書館奄美分館が設置され、島尾が初代分館長となる。島尾は図書館については素人であったが、熊本商科大学に出向いて司書講習を受けて資格を習得している。開館時に上司にあたる鹿児島県立図書館長の久保田彦穂(椋鳩十)は、島尾に対して「地方文化保存のための保存図書館」「調査研究のための参考図書館」「量・質共に備えた貸出図書館」という、3つの課題を与えた。島尾はこの久保田からの課題に応えるべく精力的に活動した。在任中の島尾は執筆活動と図書館長としての業務を厳格に峻別していたが、郷土資料の蒐集・刊行活動や当時としては先駆的な日曜日開館や住民の読書活動支援などに全力にあたり、離島の教育委員会や公民館を通じた図書の貸借や港の待合室や船内での読書室の設置活動、これらを支援するために時には自ら船に乗って離島への移動図書館業務の充実に尽すなど、日本の離島を抱えた地域における図書館活動のあり方に影響を与えている。また、図書館活動を通じた人的交流が島尾の執筆活動にも大きな影響を与えた。島尾敏雄の南島論については、沖縄返還に係る諸問題の顕在に先立つ1954年の「「沖縄」の意味するもの」以来、『新日本文学』へ連載していた『名瀬だより』をはじめとして南島、琉球弧と呼ばれる地域に関する数々のエッセイが発表されていた。それらは1960年に最初の南島に関するエッセイ集『離島の幸福・離島の不幸 名瀬だより』(未來社)の刊行を皮切りに1966年、『島にて』(冬樹社)、1969年『琉球弧の視点から』(講談社)と幾度となくエッセイ・雑文集としてまとめられている。「ヤポネシア」という造語については、1961年に「ヤポネシアの根っこ」という文章において初出が確認されている。大和を中心として出来事をみる「正統」とされた歴史観では、「日本」としてくくれる地域の本来持つ多様性、豊穣な側面が切り捨てられてしまうとして、日本列島を単に「島々の連なり」として捉える視点を新たに提案するものだった。しかし、当時の沖縄返還をめぐる議論の高まりや、この言葉が「天皇制を前提としない古代」を想定するのに格好の概念であったこともあり、60年代から70年代にかけて、谷川健一や吉本隆明らによって考古・民俗学的なキータームとして使用され広まることとなった。「日本」概念の硬直性を融解させるこの試みは、本来の意図を離れ、また「ヤポネシアの根っこ」が柳田國男『海上の道』の解説のかたちとして書かれていたことなども相まって、それらが柳田南方学的な国家拡張的な側面をも有するとして、後年、村井紀らをはじめとするオリエンタリズム、ポストコロニアル批評の一部の論者から否定的な評価を受けることもある。

出典:wikipedia

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