ブラックマンデー()とは、1987年10月19日に起こった、史上最大規模の世界的株価大暴落。暗黒の月曜日(あんこくのげつようび)ともいう。ダウ30種平均の終値が前週末より508ドルも下がり、この時の下落率22.6%は、世界恐慌の引き金となった1929年の暗黒の木曜日(ブラック・サーズデー、下落率12.8%)を上回った。翌日アジアの各市場にこれが連鎖。日経平均株価は3,836.48円安(14.90%)の21,910.08円と過去最大の暴落を起こした。更にヨーロッパの各市場へもつながってゆき、世界同時株安となった。日経平均株価については翌日2037.32円高(9.30%)となっている。これは上昇幅で当時の歴代1位、上昇率で当時の歴代2位の記録である。1970年代の世界的なインフレーションと1980年代初めの高金利時代において株式は割安に放置され続けていた。1980年代、インフレ抑制に成功した世界ではディスインフレーションと金融緩和が進行していた。1970年代のインフレーションによって名目の利益水準は相当膨らんでいたため、世界中の割安な株式市場に流動性が流入し活況を呈した。しかし、行き過ぎた活況は金融引き締め観測により終わりを告げた。1985年1月、アメリカがユネスコを脱退。翌月、NY株価は過去最高の1300ドルを記録。同年12月、今度はイギリスがユネスコを脱退。翌月の1986年1月、NY株式市場は大暴落する。クリアストリームの状況からいって、銀行の資本がユネスコ脱退を合図に株価を操作していた可能性も考えられる。大暴落は1986年1月に起きていたのであるが、1987年10月19日の方にだけ名前がついている。1986年1月というのは、チャレンジャー号爆発事故があったり、同年4月にはチェルノブイリ原子力発電所事故があったりして、普通の投資家は市況を冷静に観察できなかった。なお、1987年10月はロサンゼルスで大きな地震が起きている。この1985年から1987年の間、日本では深刻な円高が続いており、特に1987年はJR発足の4月にかけて1ドル139円に達した。この時期にアメリカの資金が日本へ押し寄せたものとみられる。なお、1985年には日本航空123便墜落事故がおきている。アメリカの貿易収支の赤字幅が予想以上に膨らんでいたことや、1985年のプラザ合意以後のドル安を打開するためにドルの金利が引き上げられる観測が広がっていたこと、そしてブラックマンデーの2ヶ月前、FRB議長職がポール・ボルカーからアラン・グリーンスパンへ引き継がれていたことなどは株価下落の要因として挙げられる。下落幅の大きさは高度な情報技術によるとみられる。マイロン・ショールズとフィッシャー・ブラックによるブラック-ショールズ方程式のように高度な金融工学の登場とコンピュータの普及とが相まって、オプション市場と先物市場は爆発的な成長を見せた。コンピュータの普及とブラック-ショールズ方程式の登場は大規模な株式ポートフォリオに保険を提供するようになっていた。このポートフォリオ・インシュランスは先物を使ったヘッジ手段である。ポートフォリオの価値が市場を大きく上回っているときには先物売りは少ないが、市場が下落しだすと売りを増やし、損失と先物売りの利益がほぼ同じようになるようにする。従って、市場が下落し始めるとコンピュータが自動的に売り注文を出すようになり、売りが売りを呼ぶ展開となった。アイヴァン・ボウスキーの仲間であったは同業者が損失を被る中ひとりで荒稼ぎをやってのけた。その後、ボウスキーの裏切りに銃を持って殺しに出かけたところを妻の通報で補導されたが、マイケル・ミルケンなどが逮捕される中では無罪を勝ち取った。その後、と姻戚関係にあると連邦準備制度理事を輩出しているの資金でバッファロー・パートナーズという会社をつくり、メリルリンチとベア・スターンズを通して証券業務に励んだ。金融緩和を続けた日本では、日経平均株価は半年後の1988年4月には下落分を回復。すでに1986年頃に始まっていたバブル景気は更なる膨張を続け、1989年12月29日には史上最高値(38,915.89円)をつけることになる。
出典:wikipedia
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