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猪俣邦憲

猪俣 邦憲(いのまた くにのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。出自は富永氏で、初名は富永助盛(とみなが すけもり)と名乗った。天正8年(1580年)頃までは富永姓を名乗り、天正11年(1583年)頃から猪俣氏に養嗣子として入って猪俣範直(- のりなお)を名乗る。北条氏政の弟・氏邦に仕える。氏邦に従って小田原から武蔵国に移ったと考えられ、以後、上野国侵攻の先鋒として活躍、後に氏邦から箕輪城代、次いで沼田城代に任じられた。のちに氏邦から偏諱を受け邦憲と改名している。天正17年(1589年)、真田昌幸の家臣・鈴木重則が守る上野名胡桃城攻略の際、重則の家臣・中山九郎兵衛を内応させ、偽の書状によって重則を城外へと誘き出し、その間に九郎兵衛に城を乗っ取らせる謀略によって奪取したが、これが天下人である豊臣秀吉の発令した惣無事令違反として小田原征伐の理由となってしまう。邦憲は小田原城落城後、豊臣氏の厳しい探索によって捕捉され磔に処されたとも、弟・富永勘解由左衛門助重と共に前田氏に仕えたともいう。通説では北条氏邦に仕えていた家臣といわれているが、猪俣氏は代々が後北条氏に仕えた富永氏の一族であるため、北条氏の直臣であったともいわれる。『北条記』、『関八州古戦録』、『改正三河後風土記』等では邦憲の出自を猪俣党としている。『北条記』では邦憲を、氏邦の配下にあって「知恵分別なき田舎武者」としており、名胡桃城奪取については邦憲が独断で行った事としている。名胡桃城の奪取が小田原征伐の口実を与え、結果的に後北条氏の滅亡を招いたことから、多くの史書において邦憲は「手柄だけを目的とする傲慢で思慮が足りない田舎武士」と虚仮下ろされている。しかし、邦憲が名胡桃城を奪取したとされ、それが外交上問題化した天正17年11月以降も、邦憲は北条家内において責任を追及されることなく引き続き沼田城代を務め、天正18年(1590年)正月には北条氏政や、その弟の氏照から上野の守備が万全であることについて慰労されているなど、後北条氏から最前線の指揮を任され、信頼されていた事が伺える。近年では同時期に氏邦が秀吉に誼を通じていた宇都宮に侵攻していることなどから、邦憲の単独行動ではなく「反秀吉派」の氏政か氏邦の指令があったともいわれている。名胡桃城奪取については、当時の資料が少なく、その多くが『関八州古戦録』など江戸時代に記された軍記物に依拠しており、秀吉側の詰問に対し後北条氏側では事実無根と釈明しているなど、真相については不明な点が多い。また邦憲の実際の行動についても多くが分かっておらず、後北条氏滅亡の遠因を邦憲の独断行動のみに求めるのは的確とは言えない。また、当初秀吉は沼田一帯の殆どを北条領とするなど、臣従すれば北条氏をそのまま存続させる意図とも受け取れる宥和路線を取っていたが、大幅な譲歩を以てしてもいつまでたっても臣従しようとしない北条氏に対して業を煮やしていたため、北条氏の家中が「豊臣氏への臣従」で纏まらない以上、遅かれ早かれ小田原征伐が起こったことは間違いないという見方もある。

出典:wikipedia

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