回天(かいてん)は、太平洋戦争で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり、日本軍初の特攻兵器である。「回天」という名称は、特攻部長大森仙太郎少将が幕末期の軍艦「回天丸」から取って命名した。開発に携わった黒木博司中尉は「天を回らし戦局を逆転させる」という意味で「回天」という言葉を使っていた。秘密保持のため付けられた〇六(マルロク)、的(てき)との別称もある。1944年7月に2機の試作機が完成し、11月8日に初めて実戦に投入された。終戦までに420基が生産された。兵器としての採用は1945年5月28日のことだった。回天は超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を転用し、特攻兵器としたものである。九三式三型魚雷は直径61cm、重量2.8t、炸薬量780kg、時速48ノットで疾走する無航跡魚雷で、主に駆逐艦に搭載された。回天はこの酸素魚雷を改造した全長14.7m、直径1m、排水量8tの兵器で、魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を1.5tとした場合、最高速度は時速55km/hで23キロメートルの航続力があった。ハッチは内部から開閉可能であったが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった。操作方法は搭乗員の技量によるところが多かった。手順としては、突入直前に潜望鏡を使用して敵艦の位置・速力・進行方向を確認、これを元に射角などを計算して敵艦と回天の針路の未来位置が一点に確実に重なる、すなわち命中するように射角を設定。同時に発射から命中までに要する時間を予測。そして潜望鏡を下ろし、ストップウオッチで時間を計測しながら推測航法で突入する。命中時間を幾分経過しても命中しなかった場合は、再度潜望鏡を上げて索敵と計算を行い、突入を最初からもう一度やり直すという戦法がとられ、訓練もそのように行われた。しかし、作戦海域となる太平洋の環礁は水路が複雑であり、夜間において潜望鏡とジャイロスコープを用いての推測航法で目標に到達することは十分な訓練を経ても容易ではなかった。当時の搭乗員は「操縦するのには6本の手と6つの目がいる」と話していたという。回天が実戦に投入された当初は、港に停泊している艦船への攻撃、すなわち泊地攻撃が行われた。最初の攻撃で給油艦ミシシネワが撃沈されたのをはじめ、発進20基のうち撃沈2隻(ミシシネワ、歩兵揚陸艇LCI-600)、撃破(損傷)3隻の戦果が挙げられている。アメリカ軍はこの攻撃を特殊潜航艇「甲標的」による襲撃と誤認し、艦上の兵士はいつ攻撃に見舞われるかという不安にかられ、泊地にいても連日火薬箱の上に坐っているような戦々恐々たる感じであったという。しかし、米軍がこまめに防潜網を展開するようになり、泊地攻撃が難しくなってからは、回天による攻撃は水上航行中の船を目標とする作戦に変更された。この結果、搭乗員には動いている標的を狙うこととなり、潜望鏡測定による困難な計算と操艇が要求された。回天の母体である九三式三型魚雷は長時間水中におくことに適しておらず、仮に母艦が目標を捉え、回天を発進させたとしても水圧で回天内部の燃焼室と気筒が故障しており、エンジンが点火されず点火用の空気(酸素によるエンジン爆発防止の為に点火は空気で行われた)だけでスクリューが回り出す「冷走」状態に陥ることがあった。この場合、回天の速力や射程距離は大幅に低下し、また搭乗員による修理はほぼ不可能であったため、出撃を果たしながら戦果を得ることなく終わる回天が多く出る原因となった。また最初期は潜水艦に艦内からの交通筒がなかったため、発進の前に一旦浮上して回天搭乗員を移乗させねばならなかった。当然のことながら敵前での浮上は非常に危険が伴う。回天と母潜水艦は伝声管を通じて連絡が可能だったが、一度交通筒に注水すると、浮上しない限り回天搭乗員は母潜水艦に戻れなかった。また、エンジンから発生する一酸化炭素や、高オクタン価のガソリンの四エチル鉛などで内部の空気が汚染され、搭乗員がガス中毒を起こす危険があることが分かっていたが、これらに対して根本的な対策はとられなかった 。潜水艦は潜れば潜るほど爆雷に対して強くなるが、回天の耐圧深度は最大でも80メートルであったため、回天の母艦となる伊号潜水艦はそれ以上は深く潜行する場合は回天を破損する覚悟が必要であり、敵に発見された場合も水中機動に重大な制約を受けた。そのためアメリカ側の対潜戦術、兵器の発達とあいまって出撃した潜水艦16隻(のべ32回)のうち8隻が撃沈されている。戦争最末期に本土決戦が想定された際は、回天も水上艦を母艦とすることが計画され、海上挺進部隊の球磨型軽巡洋艦3番艦「北上」をはじめとして松型駆逐艦(竹等)や一等輸送艦が改造された。人間魚雷の構想は、ガダルカナル島での敗北後に日本海軍内で上がっていた。竹間忠三大尉は「(戦勢の立て直しは)必中必殺の肉弾攻撃」として、人間魚雷の構想を軍令部の井浦祥二郎中佐に対して送り、井浦も人間魚雷の実現性を打診したが、艦政本部は消極的で軍令部首脳は認めなかった。1943年12月、伊百六十五型潜水艦水雷長・入沢三輝大尉と航海長・近江誠中尉が、戦局打開の手段としてまとめた「人間魚雷の独自研究の成果」を軍令部と連合艦隊に献策したが、全く受け入れられなかった。陸軍の工作機械設計者だった沢崎正恵は、人間魚雷を設計して持参したが、紹介状がなかったため軍務局長には面会ができず、嘆願書を受理してもらった。1944年2月、軍務局長から、それは海軍の管轄との返信があった。1943年末、甲標的搭乗員の黒木博司大尉と仁科関夫中尉は回天の原型に基づいて検討を行い、これを山田薫に対して進言するも、省部との交渉が不十分だと判断して自ら中央に血書で請願を行った。これを受けたのは海軍省軍務局第一課の吉松田守と軍令部作戦課潜水艦部員藤森康男だった。1943年12月28日に藤森から永野修身軍令部総長へこの人間魚雷が上申されるが、「それはいかんな」と明言されて却下された。しかし、この後の上申は軍務局第一課長の山本善雄大佐を動かし、黒木はこの時、全面血書の請願書を提出した。しかし、戦局の悪化は著しく、マーシャル失陥やトラック空襲などで日本軍の治安は悪化する一方だったことから、1944年2月26日、中央は海軍工廠魚雷実験部に対して、黒木・仁科両者が考案した人間魚雷の試作を命じた。最初は乗員の海中放出が条件にあった。1944年4月4日軍令部第2部長黒島亀人の作成した「作戦上急速実現を要望する兵力」の中で大威力魚雷として人間魚雷が提案された。この後、人間魚雷に「○6(マルロク)」の仮名称が付き、艦政本部で担当主務部が定められて特殊緊急実験が開始された。1944年7月25日、試作機の試験が大入島発射場で行われたが、脱出装置が未完成のために装備されなかった。また、この試験を終えて兵器としての問題点が指摘された。指摘の主なものは「魚雷改造の艇のため後進ができない」「旋回半径が大きすぎる」「最大80mしかない潜航深度が母艦の大型潜水艦の深度を制限し、水中機動の妨げになる」などが挙げられたが、これらの問題点は改善されることなく、1944年8月1日に米内光政海軍大臣の決裁によってそのまま正式に兵器として採用された。試験で挙げられた3つの問題点は、終戦まで解決されなかった。1944年8月15日、大森から「この兵器(回天)を使用するべきか否かを判断する時期に達した」という発言があった。そして同月、大森によって明治維新の船名から「回天」と命名される。そして1944年9月1日、山口県大津島に板倉光馬少佐、黒木博司、仁科関夫が中心となって基地が開隊され、同月5日より全国から志願して集まった搭乗員達による本格的な訓練が開始された。これが組織的な回天特攻の始まりである。一方、回天の生産は、8月末までに100基の1型を生産する計画が立てられたものの、実生産数は9月半ばまでに20基、以後は日産3基が呉市の工廠の限界だった。これは、アメリカ軍が実施した海上輸送の破壊による資材不足や損傷艦の増大、この頃より本格化したB-29による本土空襲、工員の不足や食料事情の悪化が生産を妨げたためである。回天のベースになった九三式三型魚雷は燃焼剤として酸素を使用するため、整備に非常な手間がかかり、1回の発射に地上で3日の調整が必要だった。十分な訓練期間がない以上、回天の整備隊は3日で2回のペースで調整するよう督促された。訓練初日の9月6日、提唱者の黒木と同乗した樋口が殉職する事故が起きる。黒木の操縦する回天は荒波によって海底に沈挫、同乗の樋口大尉と共に艇内で窒息死するまで事故報告書と遺書、辞世などを残した。この出来事は「黒木に続け」として搭乗員たちの士気を高め、搭乗員は昼の猛訓練と夜の研究会で操縦技術の習得に努め(不適正と認められた者は即座に後回しにされた)、技術を習得した優秀な者から順次出撃していった。1944年9月下旬までに回天の整備が進み、「玄作戦」が立案される。それと関連し、9月27日に藤森は中澤佑軍令部第一部長に報告を行う。回天については「回天命中確度75%(と考えられる)。冷走の原因除去に努力している。」と述べた。1944年10月からは、回天を搭載させるために改造した第15潜水隊の3隻の潜水艦によって周防灘で最後の総合訓練を実施し、10月下旬には連合艦隊司令長官から回天による特別攻撃命令が発せられた。第6艦隊司令部で「玄作戦」と命名され、攻撃隊(残された主力潜水艦のほぼ総戦力による特別編成隊)は「菊水隊」と命名された。このうち、ウルシー泊地攻撃隊は給油艦「ミシシネワ」 ("USS Mississinewa, AO-59")を撃沈して初戦果をあげた。最初の玄作戦における軍令部報告の中で回天について、「安全潜航深度増大が必要。熱走後一旦停止すると冷走になるので熱走が続くようにしたい」といった指摘があった。1944年11月8日、「玄作戦」のために大津島基地を出撃した菊水隊(母艦潜水艦として伊36潜、伊37潜、伊47潜に各4基ずつ搭載)の12基が回天特攻の初陣である。菊水隊の回天搭載潜水艦3隻のうち、伊36潜と伊47潜の2艦はアメリカ軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島のウルシー泊地を、伊37潜はパラオのコッソル水道に停泊中の敵艦隊を目指して出撃した。回天の最初の作戦であるウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」が1944年11月20日決行された。20日、伊47潜から4基全て、伊36潜からは4基中の1基の計5基の回天が、環礁内に停泊中の200隻余りの艦艇を目指して発進した。しかし、伊47潜の帰着直後の報告により作成された「菊水隊戦闘詳報」によると、「3時28分から42分、伊47潜は回天4基発進。発進地点はマガヤン島の154度12海浬」とホドライ島の遥か南より発進させている。そのため、プグリュー島の南側で2基の回天が珊瑚礁に座礁して自爆することとなった。伊36潜は、4時15分発進予定地点のマーシュ島105度9分5浬に到着し、3基は故障で潜水艦から離れず、今西艇だけが4時54分に発進した。その後、これらの回天のうち、1基は湾外でムガイ水道前面で駆逐艦ケースより衝角攻撃を受けて沈没、残る2基が泊地進入に成功し、1基が5時47分にミシシネワへ命中(混載していたガソリンに引火して爆発・炎上、1時間後に沈没、戦死50名)。その後、最後の1基は軽巡洋艦モービル ("USS Mobile, CL-63") に向けて突入。潜望鏡によって2 - 4ノットの速力で直進してくる回天を発見したモービルが、5インチ砲と40ミリ機銃で射撃を開始。機銃弾が命中、5インチ砲弾の至近弾を受けたため突入コースに入りながら海底に突入し、のちに護衛駆逐艦ロールの爆雷攻撃によって6時53分に完全に破壊された(隊員と女学生が差入れた座布団が海面に上がった)。伊37潜はパラオ・コッソル水道に向かったがパラオ本島北方で発見された。これはアメリカ軍の設網艦ウインターベリーが、8時58分に浮上事故を起こした伊37潜(ポーポイズ運動を行った)を発見し、通報したものである。この報告を受けて、米護衛駆逐艦「コンクリン(Conklin)」・「マッコイ・レイノルズ(McCoy Reynolds)」が9時55分に現場付近へ到着し、両艦はソナーで探索を開始。午後も捜索を続けたのち、15時4分にコンクリンが探知し、レイノルズが15時39分にヘッジホッグで13発を発射したが効果なく失探、16時15分にコンクリンが再度探知して攻撃したところ、「小さい爆発音(命中音と思われる)らしきもの1」を探知。続くヘッジホッグ2回と艦尾からの爆雷攻撃の1回には反応がなかった。レイノルズが再度爆雷攻撃を行い(コンクリンがソナーで探査し、後続のレイノルズが爆雷で攻撃する)接近したところ、17時1分に海面にまで達する連続した水中爆発を認めた。以後は反応無く、撃沈と判定された。伊37潜の乗員と隊員は全員戦死と認定された。なお、のちにコンクリンは金剛隊を搭載した伊48潜も撃沈している。この菊水隊の泊地攻撃で、アメリカ軍の泊地の警戒が厳重になった。生還した伊三六と伊四七の報告を元に研究会が開かれ、潜水艦3隻の喪失と米軍の対抗策を予想して泊地攻撃への懸念が表明されたが、上層部は聞き入れず金剛隊が編成された。当山全信海軍少佐(伊四八艦長)の抗議に、艦隊司令部は「精神力で勝て」と命令している。黒木、仁科の進言どおりに水上航走艦を狙う作戦へと変更されたのは、金剛隊による泊地攻撃の後であった。1944年11月8日に菊水隊として、ウルシー、パラオ方面に初出撃して以降1945年8月まで金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、轟隊、多聞隊、神州隊の28隊(潜水艦32隻、回天148基、途中帰投含む)の出撃が行われている。同一の隊が複数回の出撃を行ったり、○○隊などは呼称であるためこのような数字になる。最初の菊水隊のみが1回限りの出撃である。目的地は、ニューギニアからマリアナ諸島、沖縄諸島にかけてである。以後は、次第にアメリカ軍の停泊地の警備が厳重となったため、洋上攻撃へ作戦変更を余儀なくされた。菊水隊以降は金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、 轟隊、多聞隊と終戦の1週間前まで、計148基の回天が出撃した。すでに制海権も制空権も完全に敵の手中にあり、母艦となる大型潜水艦は次々と撃沈されていった。1945年3月以降は敵本土上陸に備えて、陸上基地よりの出撃や施設設営とともに、スロープを設けられた旧式の巡洋艦(北上)や、松型駆逐艦、一等輸送艦からの発射訓練も行われたが、戦地へ輸送中に撃沈されたり、出撃前に終戦となった。終戦を迎えたあと、必死を要求される特攻兵器のイメージから「強制的に搭乗員にさせられた」「ハッチは中からは開けられない」「戦果は皆無」などの作戦に対する否定的な面、または事実と異なる説が強調された。特にハッチに関しては中から手動で開けられ、外からは工具を使用するものの開閉は可能だった。また、搭乗員は操縦の特異性から転用ができないため、全てが回天戦のために選抜されて訓練を受けた優秀な若い志願兵だった。ただし、戦時の日本において事実上、志願を拒否することは著しく困難で、戦果に関しては49基出撃の結果に対し撃沈4隻と乏しく、回天を輸送し発進させる潜水艦の損耗率も高かった。広島と長崎に落とされた原子爆弾(核部分)をテニアン島まで運び、帰路にあった重巡洋艦インディアナポリスを撃沈したのは、この回天特別編成隊の多門隊・伊58潜によるものだった。ただし、会敵時は暗く回天戦は困難であり、橋本以行艦長の判断で回天は予備に置かれ、通常の雷撃で行われた。多門隊の回天は後に沖縄海域で故障艇1 を除き全て出撃した。回天の総合戦果は、判明している戦果は給油艦ミシシネワ、護衛駆逐艦アンダーヒルなど撃沈3、大破1、小破4。アメリカ側の秘密文書公開と戦後の「全国回天会」の調査により、以下が判明している(母艦の雷撃による戦果も含まれる)。なお、一回目の出撃である1944年11月20日に戦艦ペンシルベニア ("USS Pennsylvania, BB-38") を撃沈しているとの報告が日米双方に存在したが、実際にペンシルベニアが受けた被害は1945年(昭和20年)8月12日の夜間雷撃によるものだった。ペンシルベニアは戦後のビキニ原爆実験における二度の核爆発に耐えたのち、1948年2月10日に沈没した。本来の目標であった米正規空母・戦艦に対する戦果はなかった。この期待はずれの結果に対し、アメリカ軍が意図的に戦果を隠蔽しているのではと疑問視している旧軍の回天関係者(隊員や潜水艦長、参謀)がいた。吉田俊雄(海軍中佐、参謀)は、終戦時ダグラス・マッカーサー司令部のリチャード・サザーランド参謀長が「回天搭載の潜水艦が行動中かどうか」について質問され、行動中と聞くと動揺したというエピソードを紹介し、米軍による情報隠蔽の根拠としている。また全ての文書が公開対象となっておらず、民間輸送船に関してはアメリカ軍での記録がないため、上記戦果はあくまで現在確認されているものということになり、これから新しい戦果及び戦闘状況が判明される可能性もある。当時の日本軍側は回天発射後の母艦からの潜望鏡による火柱、爆煙の目視、爆発音の聴取など間接的な形でしか戦果を観察できず、そこに「発進から30分以内での爆発音は、突入時刻と一致するため敵突撃の可能性は濃厚」や「燃料の切れる1時間前後での爆発音は自爆の可能性が高い」など推定を多く重ねざるを得ず、さらに大戦果を挙げたい、大戦果を挙げたと信じたい戦場心理が作用していたため、戦果報告は現実とかけ離れたものにならざるを得なかった。例えば伊58潜の橋本以行艦長は、回天作戦に従事した時には潜水艦長勤務が3年に及ぶベテランであったが、インディアナポリス撃沈時には目標艦が酸素魚雷3本を被雷しながらしばらく沈まなかったことを考慮し、アイダホ型戦艦撃沈と報告している。さらに8月12日の回天戦では発進後44分後に爆発と黒煙を確認、1万5000トン級水上機母艦を撃沈したと報告している。また通常の酸素魚雷2発分の炸薬量を持つ回天の命中を受けながら小破に留まった艦がある原因としては、目標艦に激突後、一定時間経過後に搭乗員が自爆装置を起動させ爆発させたからだと推定されている。その場合、激突の衝撃で回天と敵艦船との距離は既に離れているため敵艦への被害は小さくなってしまう。搭乗員は突撃の際には安全装置を外し、敵艦への突入角度が足りなくても突入と同時に信管が作動するよう自爆装置に腕をかけるなどしていたが、個々人の覚悟と工夫だけでは限界があった。第二次世界大戦後、日米の文書を調査した防衛研究所によると命中率は2%だった。海軍兵学校、海軍機関学校出身者は加賀谷武大尉(兵71)、帖佐裕大尉(兵71)、久住宏中尉(兵72)、河合不死男中尉(兵72)、村上克巴中尉(機53)、福田斉中尉(機53)、都所静世中尉(機53)、豊住和寿中尉(機53)、川崎順二中尉(機53)が、潜水学校11期卒業と同時に志願して回天隊に参加。以上は黒木、仁科が最初に何らかの形で接触をはかった者と思われる。上別府宜紀大尉(兵70)、樋口孝大尉(兵70)は特四内火艇の後、志願参加。近江誠大尉(兵70)、三谷與司夫大尉(兵71)、橋口寛中尉(兵72)も回天と同様の特攻兵器の意見書を提出後、志願参加。それ以外は指名による(本人の配属希望を考慮し選考)。予備士官、予科練出身者は募集による志願。ただし、作戦は奇襲で、軍機密事項の段階であったため、敵への情報流出を防ぐ必要から、兵器に関する具体的な事柄には一切触れられなかった。募集要綱には「右特殊兵器は挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもの」、「選抜せられたる者はおおむね三月及至六月間別に定められたる部隊において教育訓練を受けたる上直に第一線に進出する予定なり」とある。それ以上の説明は口頭でなされた。土浦海軍航空隊の予科練習生の場合、応募者2千余名の中から、身体健康で意志強固な者、攻撃精神旺盛で責任感の強い者、家庭的に後顧の憂いのない者を基準に100名が選抜された。なお、最初期に着任した搭乗員は以下の34名である。黒木博司(機51・殉職)、樋口孝(兵70・殉職)、上別府宣紀(兵70・菊水隊)、仁科関夫(兵71・菊水隊)、加賀谷武(兵71・金剛隊)、帖佐裕(兵71・第三回天隊◎)、久住宏(兵72・金剛隊)、河合不死男(兵72・第一回天隊)、石川誠三(兵72・金剛隊)、川久保輝夫(兵72・金剛隊)、吉本健太郎(兵72・金剛隊)、福島誠二(兵72・多々良隊)、土井秀夫(兵72・多々良隊)、柿崎実(兵72・天武隊)、小灘利春(兵72・第二回天隊◎)、福田斉(機53・菊水隊)、村上克巴(機53・菊水隊)、都所静世(機53・金剛隊)、豊住和寿(機53・金剛隊)、川崎順二(機53・千早隊)、宇都宮秀一(東大・菊水隊)、今西太一(慶大・菊水隊)、近藤和彦(名古屋高工・菊水隊)、佐藤章(九大・菊水隊)、渡辺幸三(慶大・菊水隊)、原敦郎(早大・金剛隊)、工藤義彦(大分高商・金剛隊)、前田肇(福岡第二師範・天武隊)、池淵信夫(大阪日大・轟隊)、小林好久(長岡工業専門・殉職)、藤田克己(予・多聞隊◎)、永見博之(予・第五回天隊◎)、上杉正俊(予・転属)、松岡俊吉(予・転属)。(注・予=予備士官で出身校不明、◎=生還)昭和63年2月の回天名簿によると、最終的には兵学校・機関学校122名、予備士官244名、兵科下士官10名、予科練1050名の、計1426名(うち転出51名)が着任した。著名人には、 小灘利春(「全国回天会」会長)、河崎春美(全国回天会事務局長)、帖佐裕(軍歌「同期の桜」作詞者)、山地誠(旧姓近江)(晩年出家し回天戦没者追悼の旅をする)、横田寛(『ああ回天特攻隊』著者)、園田一郎(元三菱商事副社長)、上山春平(哲学者、京都大学名誉教授)、武田五郎(元大洋ホエールズ球団社長)終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は、海軍兵学校、海軍機関学校、予科練、予備学生など、1,375人であったが、実際に出撃戦死した者は87名(うち発進戦死49名)、訓練中に殉職した者は15名、終戦により自決した者は2名。回天による戦没者は、特攻隊員の他にも整備員などの関係者もあり、それらを含めると145人になった。訓練中の死者は特攻兵器の中で最も多い。搭乗員は志願によって選抜され、戦死者の平均年齢は21.1歳だった。坂本雅俊(回天特攻要員)は「覚悟はしていたが見た時はぎょっとした」という。竹林博(回天特攻要員)は「戦争の再現は望まないし美化もしないし命も粗末に考えないが、日本のためどんなものでも行くという思いで殉じた若者がいたことを正しく歴史に刻みこんでほしい」と戦後語っている。
出典:wikipedia
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