淀橋浄水場(よどばしじょうすいじょう、英称:Yodobashi Purification Plant)は、現在の東京都新宿区西新宿にあった東京都水道局の浄水場である。廃止当時の正式部署名は「東京都水道局東村山浄水管理事務所淀橋浄水場」であった。1898年(明治31年)12月1日通水。原水は玉川上水から引き入れた。1965年(昭和40年)3月31日をもって廃止。その機能は東村山市の東村山浄水場に移された。跡地の再開発計画として新宿副都心計画がスタートし、1960年代後半から京王プラザホテルを皮切りに住友ビル、三井ビル、東京都庁舎など、次々と超高層ビルの建築が進んだ。現在は新宿中央公園の一角に淀橋給水所が残る。淀橋は青梅街道が神田川をまたぐ橋で、浄水場が設置された当時には、東京府豊多摩郡淀橋町(現在の西新宿、北新宿一帯)の地名になっていた。この地は昭和時代には東京市へ編入され、東京府東京市が35区の時には区名にもなった。現在はヨドバシカメラや東京都中央卸売市場淀橋市場、私立幼稚園、小学校(かつては区立小学校7校があったが、現在は淀橋第四小学校だけ)などにその名前を残すのみである。明治維新以前の江戸の水道は玉川上水と神田上水を水源とした7つの分水組合によるものであったが、東京府が設置されて組合が解散した後もこれら2系統による給水が続いた。しかし維新初期の度重なる官制変更によりその所管官庁は二転三転し、玉川上水路に通船を許可したり(1870年(明治3年) - 1872年(明治5年))、水道料金(上水賦金)が徴収されないという時期(1874年(明治7年)まで)があるなど暫く混乱が続いた。このような混乱により東京では上水の水質悪化が問題になり始めた。導水路に生活汚水や塵芥、動物の死体や糞尿が流入したり、降雨時には混濁が激しかった。特に玉川上水は、自殺の名所であり、水死体も流れていた。また配水管である木樋は継目から容易に汚染物質が混入し、高圧送水されていなかったことから腐食した木樋が水に溶解する等、衛生上の問題になっていた。玉川神田両上水や上水井戸の水質改善は政府の案となり、帝都の衛生上の問題だけでなく、近代国家の体面にかかわる問題でもあると考えられた。水道の抜本的な近代化が必要であるとして、1872年から来日していた内務省土木寮雇オランダ国工士ファン・ドールンに調査を命じた。1874年(明治7年)に『東京水道改良意見書』、翌年には『東京水道改良設計書』を提出させた。旧水道の実態調査で汚染の実態を目の当たりにした東京警視廳係官・奥村陟は水道改良を訴え、また上司の東京警視廳少警視・桧垣直枝も西洋の水道政策採用を東京警視廳大警視・川路利良に上申、この上申は内務卿(内務大臣)・伊藤博文にも提出された。これを審査した内務省土木寮・石井省一郎も奥村と同様水道の鉄管化の必要性を説き、さらに、1876年(明治9年)に政府は東京府に水道改正委員を設置させ、上水清潔事業を開始した。委員会は翌1877年(明治10年)に上水の改良方法や建設費用等の調査報告書『府下水道改設之概略』を提出した。1878年(明治11年)、東京警視廳及び東京府は神田玉川両上水水源取締仮規則及び飲料水注意法を制定し、上水井戸の管理を厳しく定めた。1879年(明治12年)に(旧制)東京大学理学部准助教・久原躬弦らが行った上水井戸や堀井の調査で「希薄の尿液」と飲料水に不適であることを厳しく指摘、このため玉川上水では浚渫や土手の構築を行い、神田上水では一部を暗渠化して対応した。1880年(明治13年)、東京府は『東京府水道改正設計書』を立案した。1886年(明治19年)、東京で1858年にコレラが大流行し、同年8月7日付の東京日日新聞(現在の毎日新聞)は「清潔法の骨髄は、飲料水の改良と下水の改良にある」と報じて上水改良と下水道網の整備を訴えた。東京におけるコレラ大流行は近代水道の必要性を一般国民に広く認識させ、政府は水道改良事業計画の策定を加速させる契機となった。1888年(明治21年)には内務省に市区改正委員会が設置されて水道改良の実施を決議し、調査検討の結果、1890年(明治23年)7月1日に『東京水道改良設計書』が内閣総理大臣の認可を得た。同年9月には東京市会本会議で全会一致で水道改良費 650 万円及び道路河濠橋梁公園改正費 350 万円の合計 1,000 万円の市区改良費が 5 カ年計画で認められた。当時の一般財政は年 50万円 ほどであり、東京市民にとっては負担増を意味し、水道改良中止を求める反対運動まで起きたが、暫くして下火となった。1891年(明治24年)11月1日には府庁内に水道改良事務所が設置された。当初は、内務省衛生局雇間技師バルトンの第2次報告書にある、玉川上水路により多摩川の水を千駄ヶ谷村の浄水工場(浄水所)に導き、沈殿・ろ過した後、麻布及び小石川の給水工場(給水所)へ送水し、浄水工場に併設された給水工場を含めて3箇所の給水工場からポンプ圧送あるいは自然流下で市内に配水する案を軸に検討されていたが、後の『東京水道改良計画書』では内務省技師補・東京市水道技師中島鋭治工学博士が再検討を行い、浄水工場は千駄ヶ谷村から淀橋町に変更、給水工場は麻布・小石川から芝・本郷に変更、また淀橋以西の和田堀まで新水路を築造するという意見が盛り込まれ、同年12月1日の市区改正委員会に於いて議決され、設計変更された。1892年(明治25年)6月から翌年4月にかけて東京市は淀橋浄水工場予定地の地権者との厳しい交渉の末、用地買収を完了。買収完了前の1892年(明治25年)9月21日には先行して淀橋浄水工場仮事務所建築の盛土工事を着工、同年12月には新水路工事が着工され、1893年(明治26年)10月22日、上野駅及び新橋駅から仕立てた特別列車による約 3000名 の来賓を迎え、淀橋浄水場で改良水道起工式が盛大に挙行された。浄水工場築造中は不祥事が相次いだ。1894年(明治27年)5月29日、東京市会は日本鋳鉄会社による鉄管の納期遅延問題で、同社と締結した鉄管購買契約を契約不履行を理由に解除、処分した上で新たに同社と契約する事を議決した。しかし1895年(明治28年)10月30日には再度の鉄管納期遅延や検査不合格の鉄管を合格品と偽装して不正納入した事件が発覚した。東京市は直ちに同社社長を刑事告訴、11月5日に東京市会は同社外5名に対して旧刑事訴訟法第4条による附帯私訴を可決した。さらには契約保証金全額没収を議決、12月9日に鉄管納入不正事件により東京府知事・三浦安の不信任を議決した。この事件は政界を巻き込む不祥事に発展し、東京市参事会員の辞表提出や12月10日の内務大臣・野村靖による東京市会解散命令、翌1896年(明治29年)3月12日に東京市会は再度東京府知事に対して不信任を議決、再び野村による市会解散命令、3月14日には東京府知事・三浦安の辞職等、東京市政は第二次伊藤内閣を巻き込む形で大混乱に陥った。東京市会は当該鉄管事件を契機として特別市政撤廃を目指し、1898年(明治31年)10月1日に一般市制が施行され、東京府東京市麹町区有楽町の東京府庁内に東京市役所が開庁、10月6日に新たな東京市長・松田秀雄が就任した。前述の反対運動や不祥事など紆余曲折を経つつも、1898年(明治31年)12月1日に竣工、明治維新以来31年目にして近代水道が東京に誕生した。淀橋浄水工場は直ちに神田・日本橋方面に通水を開始、翌1899年(明治32年)1月からは各戸の給水工事に取り掛かって2月からろ過処理された浄水を給水開始。その後も給水区域を着々と拡大し、1901年(明治34年)には東京市内の旧上水を廃止した。この給水開始当時の水道は現在の一般家庭各戸に給水されるスタイルではなく、街路に設置された共用水栓を利用するものであったが、上水井戸の時代とは変わって雨天時の混濁がなく、多大な労力を要する事も無く、共用水栓まで出向いて蛇口をひねればいつでも清潔な水を大量に得る事が出来た。東京市民には非常に歓迎され、特に主婦にとっては炊事・洗濯・掃除といった家事の負担を著しく軽減した。また鉄管で密閉・圧送された浄水は清潔なだけではなく、消防用水としても効果的で、大火を防止する有効な手段とになった。本格的な給水開始以降は東京における伝染病や火災の発生数は激減し、近代水道の効果を示した。その後、東京市では水道需要が急激に伸びた為、1911年(明治44年)3月まで淀橋浄水場の施設能力を二期にわたって増強した。淀橋浄水場は東京市外の豊多摩郡淀橋町に造られたが、あくまで東京市の水道であるため、地元の淀橋町では浄水場の水は使えなかった。町内の井戸の水質は悪く、町では東京市に陳情し水道水の供給を受けられるよう働きかけた。当初は小学校にだけ供給が認められたが、1924年(大正13年)に淀橋町の独自負担で給水組合を設立し、東京市水道に工事を委託し水道配水管を引く工事が行なわれ、分水を受けた淀橋町の水道による給水が開始された。1927年(昭和2年)には給水区域を淀橋町全域に拡大したが、1931年(昭和6年)に市内の他の 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の町村給水組合・水道会社とともに東京市水道に統合され、翌年、淀橋町も東京市に編入し、周辺3村と合わせて東京市淀橋区となった。1923年(大正12年)9月1日に関東平野を襲った関東大震災によって、東京市内で住居を失った市民が、広い山の手郊外に土地を求めるようになり西新宿一帯はその代表的な住宅地となった。しかし、新宿駅東口方面と異なり西口方面は東京地方専売局淀橋工場と淀橋浄水場以外には人家と学校があるに過ぎない、閑散とした地域であった。この為、今後の新宿の繁栄のために広大な面積を占める浄水場の移転が大正末期頃から地元民によって要望され始めた。1932年(昭和7年)3月、東京市会に東京市第二水道拡張計画案が提出され、淀橋浄水場の機能を東村山市に移転させ(現在の東村山浄水場)、淀橋浄水場の売却処分収入を市債の償還費に充当するというものであった。都市計画東京地方委員会によって浄水場移転を前提とした街路計画を策定し、同年9月に都市計画を決定した。その後、戦局の悪化もあって移転計画の実施は戦後に持ち越された。戦時中は空爆による被害を受け、特に、1945年(昭和20年)5月25日の東京空襲では原水施設や車庫等が炎上する損害を受けたが、猛毒の塩素を大量に扱う滅菌機室等の重要施設には被害はなかったため、施設の完全停止は免れた。戦後は最新の設備を導入する等、浄水能力の拡充を図ったが、1960年(昭和35年)、移転先であった東村山浄水場が竣工・通水すると、淀橋浄水場は廃止に向けて職員の転出が始まった。当時の職員は約150名で、技能研修を実施したうえで、段階的に転出した。同時に施設能力の段階的縮小も図られ、1965年(昭和40年)に入る頃までには大部分の施設が停止された。同年1月には干あがったろ過池で、係長級以上の職員らを中心に感謝祭が行われた。そして、同年3月31日、淀橋浄水場は廃止された。この日は扇田彦一・水道局長も駆けつけ、志村匤造・場長以下、職員らが見守る中、紅白のリボンが結ばれた高地線ポンプ所中野線ポンプ操作盤起動レバーが「停止」位置に操作され、パイロットランプは「緑」現示、ポンプは停止。淀橋浄水場と西部支所の看板が下ろされ、挨拶で扇田は「70年の歴史を持つ淀橋浄水場は本日を以て閉庁したが、この施設は決して老朽した為に廃止するのではなく、今でも浄水場としての機能は立派に備えている。新宿副都心建設という大目的に協力しての東村山浄水場への移転に伴う廃庁であり、特に職員の皆さんが平常の業務と併せて移転業務を支障なく果たされたことを感謝する」と廃止を惜しんだ。4月10日には「淀橋浄水場廃庁に伴う集い」が執り行われた。この貯水場の広大な跡地は再開発が行われ、東京都庁、新宿NSビルを始めとした高層建築街となっている。淀橋浄水場は玉川上水から水をひいていた。現在、東村山浄水場へは鉄管で送水されている。
出典:wikipedia
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