F-1(エフワン/エフいち)は、日本の航空自衛隊で使用された第3世代ジェット戦闘機に相当する支援戦闘機(戦闘攻撃機)である。量産1号機の初飛行は1977年(昭和52年)で、同年より部隊配備を開始した。後継機であるF-2の配備が進み、2006年(平成18)3月9日に全機が退役した。三菱重工業が製造したT-2高等練習機を基に、第二次世界大戦終結後に日本が初めて独自開発した超音速飛行が可能な戦闘機である。日本という四方を海に囲まれた島国の防衛のため、開発当初から対艦ミサイルとの組み合わせによる対艦攻撃を想定し、国産の空対艦ミサイル「ASM-1」の搭載能力を有していた。原型試作機である「FS-T2改(T-2特別仕様機)」が1975年6月3日、量産型1号機が1977年6月16日にそれぞれ初飛行を行った。航空自衛隊では支援戦闘機としているが、その性能や運用目的から攻撃機、もしくは戦闘爆撃(攻撃)機と分類される場合もある。総計77機が製造され、三沢基地の第3航空団第3飛行隊と第8飛行隊、築城基地の第8航空団第6飛行隊に編成されている支援戦闘機部隊に配備がなされた。F-1の有する空対艦ミサイルによる対艦攻撃という運用方法は特筆すべきものがある一方で、機動性の低さから空中戦(要撃任務)での不安も抱えていた。2006年(平成18年)に築城基地の第6飛行隊に配備されていたF-1がF-2の配備により退役し、航空自衛隊で配備・運用されていた全機が正式に退役した。日本では、マッハ2クラスの戦闘機であるF-104 スターファイターの第一線配備に伴い、余剰となった米国製のF-86 セイバーを戦闘爆撃機として配備し、支援戦闘機(隊)とした。だが、当時としては旧式となっていたF-86は亜音速機のうえに航続距離が短く、兵装搭載量も不足して対地・対艦攻撃能力が低かった。また1947年初飛行の機体では老朽化が迫り用途廃止になる機体が出てくることから、すぐにも代替機が求められた。そこで次期支援戦闘機の研究を防衛庁(現防衛省)技術研究本部で開始し、後継機を超音速高等練習機とその派生型である攻撃機型で充てる計画を立てた。同時期にイギリスとフランスの共同で超音速練習機/攻撃機、後のジャギュアが開発されたことで、高い費用対効果を上げようという試みが国内開発へのはずみにもなったものの、前回のF-X候補のひとつで、F-104に敗れたノースロップ N-156F(後のF-5、T-38)が、航空自衛隊の超音速練習機採用に合わせて再び売り込みを掛けてきていた。防衛庁内には米国製のT-38 タロン練習機およびその派生型F-5 タイガー戦闘機を導入すべきだと強力に主張する勢力があり、また、制服組からも純粋な技術的・経済的問題から国内開発を疑問視する声があがっていた。新規開発する費用を含めた経済性だけで見ればT-38/F-5が優勢であったが「国内の航空産業と若い技術者の育成、飛躍を目的とする」とした意見が通り、国内開発が決定された。これにより、超音速高等練習機T-2は支援戦闘機への転用を前提として開発され、T-2開発完了直後から、「次期支援戦闘機 (FS-X) 開発計画を開始し、T-2からFS-Xを改造開発することとなった。当時「支援戦闘機」としたのは自衛隊の性格上あくまで侵略に備える地上部隊を支援するという意味あいからであった。このため、FS-Xは「FS-T2改」と呼ばれ、まず2機のT-2を改造して原型機を試作することとなった。この改造に使われたT-2は「T-2特別仕様機」と呼ばれた。T-2からFS-T2改への改造点として、以下が挙げられる。1972年(昭和47年)2月7日の国防会議で策定した第四次防衛力整備計画によって、次期支援戦闘機FS-T2改を68機調達することとなり、開発が決定した。翌年には1974年(昭和49年)度予算にて2機分の試作が認められたため、三菱重工業は生産ラインにあったT-2の6号機 (#59-5106) と7号機 (#59-5107) を特別仕様機として改造を開始した。この年からFS-T2改の主兵器となるXASM-1の開発も開始された。1975年(昭和50年)6月3日に火器管制装置等の電子機器の実験機である#107が初飛行、6月7日に性能試験、飛行特性試験、フラッター試験機の#106が飛行した。機体システムに支出された予算は4億2,000万円、電子装置には7億6,300万円であり、機体改造は最小限にとどめて、開発は電子機器類を中心に行なわれた。機体自体に大きな変更を加えられておらず、基本データはXT-2の時に取得済みだったので、#106の試験は早々と終了し、2機による電子機器の試験が行われた。翌7月から航空実験団と防衛庁技術研究本部 (TRDI) による技術試験が行われ、翌1976年(昭和51年)3月に終了した。さらに8か月にわたって実用試験が行われた後、11月12日に部隊使用が認可され、FS-T2改にはF-1の制式名称が与えられた。試験に使用された2機のT-2特別仕様機は、量産化改造されずに航空実験団に残され、新兵器開発に利用された。1975年(昭和50年)に18機分の取得予算が計上され、量産1号機 (#70-8201) は1977年(昭和52年)2月25日にロールアウト、6月16日に初飛行し、9月16日に納入された。その後、10年に渡って量産され、1987年(昭和62年)3月9日に最終77号機が納入され、生産が終了した。防衛庁は最初に126機導入を予定したが、最終的には77機の調達となり3個飛行隊が三沢基地と築城基地に配属された。戦闘機の配備数としては決して多くはないが、T-2とほぼ同一の機体であることから、96機生産されたT-2と合わせれば173機の生産となり、大量生産による価格低減は達成されている。開発費用の超過は当初予定の数パーセントに抑えられており、F-1の平均コストは1機当たり26億円程度である。F-1の発表の際、イギリスの航空雑誌は、かつて零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を開発した三菱が、再び戦闘機を開発したと言うことで、「ゼロから1へ」と紹介していた。機体は、後部座席を取り外して電子機器を搭載した点以外T-2からの大きな変化は無く、特性はT-2のものをほぼそのまま受け継いでいる。主翼は非常に小さく、また、厚みも薄い超音速飛行に重点を置いた形状。水平尾翼は下方向に15度の角がついている全遊動式で、前縁はエンジン排気やミサイル火炎からの耐熱のためチタニウム合金が用いられている。機体後部下にはT-2同様ベントラルフィンが付く。車輪はコストダウンのため、F-104J/DJと同じものを使用している。ただし、コックピット風防は低空侵攻任務が多くなることからバードストライク(鳥の衝突)対策として運用途中から一体強化型に変更されている。T-2もブルーインパルス専用機などは同種のワンピースタイプを装備していた。塗装は、上空から発見されにくくするために機体上面と側面は緑の濃淡と茶の迷彩、下面は地上から発見されにくい空と交じり合う明るい灰色という配色である。なおT-2との識別点は機体塗装の他、後席の有無、垂直尾翼上端の変化(F-1ではJ/APR-3レーダー警戒装置を収めるフェアリングが付く)等である。T-2/F-1の横操縦には、MU-2以来の三菱重工製航空機に用いられている全スポイラー方式が用いられており、補助翼を廃してスポイラーを用いることで、低速から高速、大迎え角まで良好な舵の利きを確保している。その反面、高速時の旋回に難があり、翼端流の発生により旋回をすると速度が低下してしまう。また、T-2の主翼は優れた超音速性能を狙って小さく、断面も非常に薄いものとなっており、翼の面積拡大を行わない方針であるため、F-1では主翼内に燃料タンクを設置していないので、ドロップ式の増槽220ガロン(833リッター)のものを胴体下に1個、左右両翼下に各1個の最大3個の機外搭載によって対応した。また、F-1 (T-2) は、英仏共同開発のジャギュア攻撃機との形状の類似が指摘され、またエンジンも元を正せばジャギュアと同じアドーアである。もっとも外形こそは類似しているが、主翼はジャギュアの削り出し一体構造に対して、より軽量かつ剛性の高い厚板テーパー外板の多桁構造を用いるなど、内部構造は大きく異なる。T-2に追加して搭載された電子機器を以下に挙げる。すべてが国産で開発された火器管制装置 (FCS) は、J/AWG-12とJ/ASQ-1を中心に構成され、INSや電波高度計などから入力情報を受けて演算処理を行い、攻撃を含む操縦に必要な情報をHUDに表示する。これらによって、地上からの航法支援が無くとも敵レーダー領域をかいくぐっての攻撃が可能であった。J/AWG-12火器管制レーダーは、T-2用のJ/AWG-11を発展させて開発されたが、使用周波数はKuバンド、またアンテナもスロットアンテナをアンテナ素子としたプレーナアレイ式という主要諸元は踏襲された。またデジタルコンピュータであるJ/ASQ-1 管制計算装置も追加された。1985年からは自動操縦装置が順次全機に搭載された。1980年代に実用とされた世界中の戦闘機の中でも特に珍しい点は、F-1が自己防御用の電子機器を一切備えていなかったことである。世界的に戦闘機に自己防御電子機器が必要不可欠となったのは1980年代前半であり、F-1の開発と生産が始まった1970年代には当時の最新電子装置であったレーダー警戒警報装置の搭載によって十分に高性能機となっていたが、その後、対空兵器の技術進歩に対応して多くの戦闘機が最低でもチャフやフレアを備え、多くが電子妨害装置を外装できるようになっても、F-1は一部機体が外装式電波妨害装置、外装式チャフ・フレアディスペンサが搭載可能であったものの多くは2006年の退役まで終始無防備なままであった。エンジンはT-2開発当初からロールス・ロイス/チュルボメカ製「アドーア (Adour)」ターボファンエンジンが最有力候補とされていた。これはアドーアの燃費が優れていたためであるが、米ジェネラル・エレクトリック社はGE1/J1A1と呼ばれるエンジンを提案して対抗した。しかしGE社のエンジンは開発途上でありその後に計画は中止されたために検討対象とならず、結局1968年2月15日にロールスロイス/チュルボメカ アドーア RT.172 Mk102の日本国内ライセンス生産品がXT-2用エンジンとして採用され、この航空自衛隊発のターボファンエンジンがT-2用となり、そのままF-1にも引き継がれた。一方で最大の問題点とされるのは、このエンジンの非力さである。元のT-2に比べると、電子機器の搭載をはじめ各種改造によって自重は6,197kgから6,550kgへ、全備重量は11,464kgから13,700kgに増加した。また、武装や機外搭載物の無いクリーン状態ではT-2と重量差は少ないが、兵装を満載したF-1はT-2に比べて極端に重量が増す。しかし予算の制約から、エンジンの換装や推力増強などを含む改修は初期生産型の登場後も一切行われず、爆装時のF-1の運動性能はかなり劣り、離陸時においてもアフターバーナーの使用が不可欠になったままだった。ただし、アドーア・シリーズ自体はF-1開発当時から優れたエンジンのひとつとして数えられており、F-1やジャギュア以外にもイギリスのホーク練習機にも採用され、2,500基以上が生産されている。初期型のRT172 Mk102(T-2/F-1のTF40-IHI-801Aと同型)はアフターバーナー時推力7,303ポンド(約32.5kN)だが、直後に登場した改良型・普及型のMk 106ではA/B推力で8,430ポンド(約37.5kN)を発揮する。現代の最新版となるRT.172 Mk951ではA/B非搭載ながら最大推力は6,500ポンド(約28.9kN)に達しており、A/B付きタイプである開発中のMk821ではリヒート推力9,500ポンド(約42.1kN)を目指している。水平尾翼や機体尾部への熱ダメージを軽減し、離陸時の推力の低さを補うため、エンジンは斜め下方に向けて取り付けられていた。エンジン整備のための搭載卸下時には整備員に熟練技術が求められ、余分な時間も掛かった。駐機エプロンのアスファルトはアフターバーナーを吹かした高温のエンジン排気で溶けるため、耐熱舗装に改修された。メンテナンス用機材やボルト類の種類と数が他機に比べて多く必要であったため、整備性も劣悪だった。当機は北海道に上陸が想定されるソビエト連邦軍を撃滅するために青森県の三沢基地に配備されたが、ソ連の新型機MiG-23は航続距離が長く、三沢基地を攻撃圏内に収めていた。これはF-1の開発中、航続距離の短いMiG-21が念頭にあったためである。よって有事の際は遠方の基地に配備することになるが、その場合は兵装を犠牲にして増槽を取り付けなければならず、増槽を付けると重くなり運動能力がさらに低下することになった。電子機器室にした元の後席部分にキャノピーを残す案は、コスト高に繋がると採用が見送られたため、T-2に比べて後方の視界が悪くなった。また、就役当時は世界屈指の性能を持つ火器管制レーダーもアップデートが行われないことから次第に陳腐化が進み、昭和50年代後半のFSX論議の際には「性能が悪いから後継機を開発するという支援戦闘機が、(FSXを国産化するため、F-1を延命して開発の時間を稼ぐことに対して)能力の向上なく整備点検方法の見直しだけで機体の延命をはかるのはどういうことか」と国会での追及も受けた。同時開発の国産空対艦ミサイルであるASM-1とF-1の組み合わせは「航空機による対艦ミサイル攻撃」という戦術において、米国とフランスともほぼ同時期でのものであり、世界の最先端であると言えた。高翼面荷重の設計は搭載量と運動性の面で不利をもたらしたが、反面突風に対する安定性と空気抵抗の減少により、低空侵攻能力においては有利となった。第4次防衛力整備計画(4次防 昭和47年-51年)原案では4個飛行隊126機を予定していたが、決定案では68機に削減され、残りは次期の防衛力整備計画に先送りされた。しかし実際にはオイルショックによる財政難により、4次防中の調達は26機にとどまった。また、1976年(昭和51年)10月に閣議了承された「防衛計画の大綱」(防衛大綱)において戦闘機の配備は「要撃戦闘飛行隊10個・所要機数約250機、支援戦闘機隊3個・所要機数約100機(1個飛行隊25機の3個飛行隊+予備機)」とされたが、最終的には、昭和54年に承認された中期業務見積もり(53中業 昭和55年-59年)の中で、1個飛行隊18機の3個飛行隊+予備機の77機配備とされた(53中業での調達は13機、他に昭和52年-54年で38機の調達)当初は1990年(平成2年)度より最初の飛行隊の更新が必要とされ、56年度中期業務見積もり(昭和58年-62年)では次期支援戦闘機 (FS-X) の調達が計画されたが、強度再検討による疲労耐用時間の延長と、当初予定より年間飛行時間が少なかったことより、更新は1997年(平成9年)度からとされ、FS-X国産開発のための時間が得られることになった。しかし、FS-X(現F-2A/B)は開発の遅れによって1997年からの配備が不可能になったため、用途廃止の発生する1997年より、小松基地第306飛行隊(要撃戦闘機飛行隊)のF-4EJ改を支援戦闘機に転用し、新・第8飛行隊を編成した(また、その分の要撃戦闘機飛行隊の定数を補完するため、F-15J/DJの追加調達が行われた)第3飛行隊を更新するF-2は、2000年(平成12年)10月2日に設置された「臨時F-2飛行隊」に配備が始まり、2001年(平成13年)2月27日に臨時飛行隊が第3飛行隊となり、F-2へ転換された。築城基地第8航空団第6飛行隊では2003年(平成15年)11月、60-8274号機のF-1に最後のIRAN(製造企業による定期修理)が行われ、最後まで残った7機は2006年(平成18年)3月9日に退役、F-2へ転換された。この退役機のうちの1機は基地展示用に保存される。その後、量産1号機 (#70-8201) は入間基地に保管されていて、航空祭の時に他機と並んで地上展示されている。1998年(平成10年)8月25日夜、第3航空団のF-1支援戦闘機が岩手県沖を3機編隊で訓練中、編隊長のA二等空尉(当時29歳)とB二等空尉(当時29歳)の2機が墜落した。A二尉は飛行時間2000時間超、B二尉も1500時間超の中堅パイロットであり、B二尉は築城基地の第8航空団所属で訓練に参加していた。僚機は三沢基地に帰還後「火の玉が見えた」と報告した。その後遺体が回収され、A・B両名とも1階級特別昇任し、8月29日に葬儀が行われた。同年9月2日より訓練が再開され9月13日の三沢基地航空祭も実施されたが、10月上旬にF-4EJ戦闘機が墜落する事故が発生したため、三沢市長が抗議する事態となった。さらに翌年1月には米軍のF-16が墜落事故を起こしている。
出典:wikipedia
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