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米川正夫

米川 正夫(よねかわ まさお、1891年11月25日 - 1965年12月29日)は、日本のロシア文学者、翻訳家。岡山県高梁町の質屋の家庭に四男として生まれ育つ。高梁中学校時代にツルゲーネフ『片恋』(訳:二葉亭四迷)を愛読、ロシア語の道を志して、1909年、東京外国語学校(通称・外語/現・東京外国語大学)ロシヤ語本科に入学。翌年、級友の中村白葉などと共に雑誌『露西亜文学』を創刊、この雑誌で翻訳を始める。1912年、外語を首席で卒業。卒業後、鉄道省の採用試験に失敗、しばらくフリーランスの翻訳や来日ロシア人の通訳で生計を立てた。1912年8月、三菱に入社、長崎支店に勤務。同年11月から旭川第七師団のロシア語教師として北海道に赴任。ドストエーフスキイ「白痴」翻訳に着手、1914年、処女出版として新潮文庫(第1次)から刊行開始(1917年に第1次新潮文庫の刊行が途絶し「白痴」も第4巻で途絶する)。1916年に第七師団を辞任、同年大晦日に上京。
1917年、大蔵省に入省、10月朝鮮からシベリア経由で渡露、ペトログラードに駐在。ここで十月革命に遭遇する。1918年、ロシアの国内戦の拡大に伴う生活危機により帰国。同年6月に大蔵省を退職し、横浜のロシア領事館に通訳として勤務。同年10月にロシア領事館を退職し、翌月からシベリア購買組合の神戸支店に勤務。神戸で2年間を過ごす。1920年12月、陸軍大学校(陸大)にロシア語教官として勤務、東京に戻る。1927年、十月革命十周年を迎えたソ連から招待を受け、同年10月、ソ連としては初めての訪問を果たす。1929年~31年、盟友・白葉と企画した『トルストイ全集』を岩波書店から刊行。1934年から明治大学でも講師を務めた(1939年まで)。1935年『罪と罰』を翻訳(三笠書房刊)し、ドストエーフスキイの後期5大長編(他4編は『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』)をすべて訳了。
1941年、ショーロホフ『静かなドン』の翻訳発表の可否について内務省検閲課に相談したことが問題視され、4月「依願退官」の形で陸軍大学校教授を事実上解雇される。その約1ヵ月後、かつて自宅に下宿させていた青年ミハエル・コーガンが麻雀賭博罪で逮捕されたため、その巻き添えにより米川もまた同罪で逮捕された上、ソ連のスパイ容疑者として警視庁原宿署の取調べを受けるも11日間で釈放された。同年、河出書房から個人訳『ドストエーフスキイ全集』(第1次)を刊行し始めるも、紙不足や情報局の統制のため、1943年、第4巻をもって刊行中止となる。1943年、善隣外事専門学校にロシア語講師として勤務。翌年夏、胃潰瘍の診断を受け、自宅療養しながら仕事を続けた。1945年3月、空襲を逃れて東京西荻窪の自宅から北軽井沢の別荘に疎開。敗戦後、同年暮から東京に戻る。
1946年4月、10年ぶりに再建された早稲田大学文学部露文科(早大)に岡沢秀虎教授の懇望で迎えられ、講師に就任(同月、善隣外事専門学校を辞職)。1948年、吐血する事態となり手術、胃の3分の2を切除する。1951年、早大文学部教授に就任。1953年、国際ペンクラブ大会に出席、ヨーロッパ歴訪を果たし、ソ連にも再訪。戦後の翻訳としては、1946年12月~52年、個人全訳で創元社『トルストイ全集』(全23巻)を刊行。51年~53年、41年から心血を注いできた河出書房版・個人全訳『ドストエーフスキイ全集』全18巻(第3次)刊行。ようやく完結にこぎつけ、1953年、同全集の翻訳で読売文学賞受賞。1961年・1962年にもソ連を訪問、62年、早稲田大学を定年退官。1964年、食道癌と診断され、1965年12月に死去。享年74。
米川は『ドストエーフスキイ全集』完結後も全集の追補とするべく、未訳資料の翻訳を進めており、最後の入院中も原書を離さず、「罪と罰」創作ノートの翻訳が遺稿となった。1966年1月の葬儀を葬儀委員長として取り仕切ったのは、終生の友・中村白葉であった。翻訳家生活最初期から終生関わり続けたドストエーフスキイをはじめ、トルストイなど、19世紀から20世紀にわたる膨大なロシア・ソビエト文学を翻訳、翻訳界において同時代に活躍した白葉や原久一郎(原を含め3人とも外語出身者)と並び称され、日本におけるロシア文学受容史に欠かせない人物の一人である。異母長姉・貞は暉寿(てるじゅ)の芸名を名乗る盲目の筝曲家で、中学時代から姉に琴の手ほどきを受け(別項の通り兄弟には筝曲家が多い)、筝曲演奏を趣味とした。三味線(三絃)、尺八も嗜み、1938年から同郷の内田百と共に素人の琴三絃の会「桑原会」(そうげんかい)を主宰した。この会には顧問として妹・文子と宮城道雄がおり、会員として葛原しげる、田辺尚雄、渥美清太郎、藤田俊一、大倉喜七郎、徳川義親、町田嘉章などがいた(1950年目白・徳川義親邸内小講堂での演奏会が最後)。能・謡曲も玄人はだしで、これら古典芸能に幅広く精通、他に麻雀も終生の趣味であり、翻訳で一時代を築く一方、余暇には幅広い趣味を楽しんだ人物でもあった。先述通り、米川の翻訳処女出版は1914年、ドストエーフスキイ『白痴』であり、その後『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『未成年』と翻訳を進め、1935年『罪と罰』を翻訳して、ドストエーフスキイ後期5大長編をすべて訳了する。
1941年、陸大退官後の米川は次の仕事として『ドストエーフスキイ全集』翻訳を企画、岩波書店に企画をもちこみ、出版契約がまとまる。だが戦時体制が強化される中、全集出版のための用紙が確保できず、計画は中止せざるをえなくなった。しかしほぼ時を経ずして、計画の頓挫を聞きつけた河出書房が版元に名乗りをあげ(社長・河出孝雄自らが出版させてほしいと米川に申し入れたという)、新たに河出書房と契約を締結する。こうして全30巻(別巻1)の予定で、同年12月、全集刊行が開始される。しかし1943年、戦意昂揚の出版物刊行が最優先される状況下で全集刊行の続行は困難となり、13冊を刊行した時点で出版計画は中止が決定される。ただ米川は、出版計画が中止になった後も個人的に『作家の日記』翻訳を続けており、再起しての全集完成に向けた米川の情熱を窺い知れる。異母長姉米川暉寿(てるじゅ)と次兄の米川親敏(のち米川琴翁と改名)は共に箏曲家。親敏の娘の米川敏子も箏曲家で人間国宝。敏子の娘の米川裕枝も箏曲家で、二代目米川敏子となった。親敏の息子の恭男(のち二代目米川親敏となる)も箏曲家。末妹の米川文子も箏曲家で人間国宝。三兄である清の娘の米川操(のち二代目米川文子となる)も箏曲家で人間国宝である。1915年、従妹の蔦子夫人と結婚。のち5人の息子をもうけるが、1923年に次男、1930年に長男が病気で夭逝、1940年には夫人も病死している。夫人の死の翌年の41年、後半生の伴侶となった15歳下の隆(多佳子)夫人を後妻に迎えている(隆夫人も前夫が病没しており、再婚同士であった)。妻の米川多佳子(1906-87)は、東京女子高等師範学校卒。戦後、永福町の米川宅に若い知識人が集まり、「米川サロン」の風情があったという成人した三男の米川哲夫(1925年-)は東京外国語学校露語科を経て東京大学史学科卒、ロシア文学者・ロシア近代史家で東京大学名誉教授。四男の米川和夫(1929年-1982年)は善隣外事専門学校露語科を経て早大露文卒、ロシア文学者・ポーランド文学者で明治大学教授。五男の米川良夫(1931年-2006年)は早大仏文卒、イタリア文学者で國學院大學教授を務めた。山本夏彦はその著作「米川正夫論」で、本来、血沸き肉踊る大河ドラマであるはずのロシアの大作を、無味乾燥で晦渋な文章にしたのは岩波お抱えの米川正夫以下の翻訳者が「文法的に正しくありたいあまり、日本語のリズムを失ったからだ」と批判している。

出典:wikipedia

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