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大和型戦艦

大和型戦艦(やまとがたせんかん)は、大日本帝国海軍(以下海軍)が建造した戦艦の一艦型。海軍が建造した最後の戦艦艦型。戦艦として、排水量、主砲口径、共に史上最大である。。大日本帝国(以下、日本)はワシントン海軍軍縮条約、ロンドン海軍軍縮条約の延長に応じず、列強各国が海軍力増強を自粛していた海軍休日は終わった。大和型戦艦は艦艇数で勝る米英を質で凌ぐため、第三次海軍軍備補充計画の際に建艦技術の粋を集めて建造された戦艦である。当時欧米諸国はワシントン海軍軍縮条約で規定された35,000t前後の戦艦を建造していたが、これらを凌駕する46cm砲を装備した結果、基準排水量は64,000tとなり、世界最大の戦艦として建造された。「量の不足を卓越せる質で補うより道なし」という発想で開発された戦艦である。1929年に平賀譲が提案した金剛代艦型戦艦の影響が強いとも言われる。1934年に起草された新戦艦要求案では「制空権下の艦隊決戦」で用いられることになっていた。日本海軍では戦艦に対し日本の旧国名に因んだ名が付けられており、「大和」は奈良県の旧国名(大和)から命名されたが、単に旧国名としてでは無く、「日本」の別称として意味もあったとする説がある。同様の主旨の命名として、建造当初世界最大の戦艦だった扶桑(扶桑は日本の美名)と山城(長く都の置かれた京都府の旧国名)がある。一番艦大和及び二番艦武蔵が大戦中に就役している。現在でこそ戦艦大和は日本国民に最も知られた軍艦と言っても過言ではないが、太平洋戦争中はその存在自体が最高軍事機密とされたこともあり(海軍関係者には、名前だけはいつの間にか広まっていた)、当時の国民には長門型戦艦の長門と陸奥が海軍の象徴として親しまれていた。その後、史上最大の威容を誇りつつも殆ど活躍の機会なく、悲劇的な最期を迎えた故か、数々の媒体(映画、漫画、アニメや、プラモデルなど)で幅広い年代によく知られるようになっていった。戦後の日本国内での注目度への定量表現を交えた言及は映画、出版物(180冊)、プラモデル、インターネット上での関連ホームページ約13000件、大和ミュージアムなどの数字、関連施設が挙げられている。1930年代、大日本帝国(以下日本)と欧米列強との対立は深まっていった。1934年(昭和9年)2月8日、連合艦隊司令長官末次信正中将は扶桑型戦艦1番艦「扶桑」を視察した際に『(欧米列強に対し)飛行機の遅れ』『五万トンの戦艦2隻でもつくった方が米国ではパナマ運河にも差しつかへて、競争にならなくてよいかもしれぬ』と発言する。同時期、1937年(昭和12年)にロンドン海軍軍縮条約の期限が切れ、それに向けてイギリス・アメリカ・フランス・イタリアなどの列強が新たな大型戦艦を建造することが予想された。ヨーロッパでは既に新型戦艦が登場しており、ドイツはポケット戦艦(ドイッチュラント級装甲艦)を、フランスはダンケルク級戦艦を投入している。アメリカでは、速力26ノット程度の高速戦艦建造の気運があり、軍令部も注目している。一方、日本海軍の戦艦は旧型の更新艦となるはずであった八八艦隊の加賀型戦艦や紀伊型戦艦などが造られなかったせいで、条約締結の直前にギリギリで完成させた長門型戦艦2隻(長門、陸奥)をのぞけば、軒並み艦齢が20年を越える旧式艦ばかりで、いくら近代化改装を行っても最新鋭のポスト条約型戦艦に対抗するには限界があった。そこで1934年(昭和9年)9月25日、軍令部は新型高速戦艦2隻について、排水量6万5000トン、速力34ノットを想定。この後、速力要求は30ノットに引き下げられた。続いて10月、列強新戦艦に対抗することを目的に軍令部より艦政本部に向けて「18インチ砲(46cm砲)8門以上、15.5cm三連装4基または20cm連装砲4基、速力30ノット、航続距離18ノット8000マイル」という大型戦艦建造要求が出される。1935年(昭和10年)11月2日には中村良三海軍大将・艦政本部長が新型戦艦の設計方針を具体的に指示した。これを受けて1936年(昭和11年)12月26日開会の第七〇回帝国議会に新型戦艦「A140-F5」2隻分(1隻9800万円)の予算が提出される。ただし予算規模から艦の大きさを諸外国から推定されないよう架空の駆逐艦3隻(1350万円)、架空乙型潜水艦1/2隻(609万円)が計上されており、これらを含めた予算1億1759万円が、実際のA140F5艦予算だった。だが大型水上艦用ディーゼル機関を潜水母艦「大鯨」に先行搭載したところ不具合が多発し、曲折の末に通常の蒸気タービン機関搭載が決定する(計画変更時期は諸説あり)。このため議会開催中にA140F5は主機械を蒸気タービン専用とした第二次基本計画「A140-F6」に切り替わり、1億793万3075円(実費は1億2898万3091円)で建造が承認された。これに加えて、改装中の金剛型戦艦「比叡」や空母「飛龍」の予算を一部利用している。列強は大和型戦艦建造については確信していたものの、その規模を40cm砲搭載、4万5000トンクラスと推定していた。1937年(昭和12年)3月29日には計画名「A140-F6」から「第一号艦」「第二号艦」と仮称された。第一号艦=「大和」は同年11月4日に呉海軍工廠で起工、1941年(昭和16年)12月16日に就役。第二号艦=「武蔵」は1938年(昭和13年)3月29日に三菱重工業長崎造船所で起工、1942年(昭和17年)8月5日に就役した。その後、第四次海軍軍備充実計画で新たに同型艦2隻を建造することになり、「第一一〇号艦」「第一一一号艦」と仮称された。第一一〇号艦=「信濃」は1940年(昭和15年)5月4日に横須賀海軍工廠で起工、建造途中で航空母艦に改装され、1944年(昭和19年)11月19日に就役したが、その10日後に撃沈された。第一一一号艦は1940年(昭和15年)11月7日に呉海軍工廠で起工したが、1942年(昭和17年)に建造中止、解体された。このように日本海軍には大和型を次期主力戦艦として整備する思惑があり、四隻、あるいは五隻前後を建造・整備した後、(資料により四隻、五隻と前後する)最終的には改良発展型である超大和型戦艦までを計画していた。日本側の大和型戦艦建造計画に対し、アメリカはノースカロライナ級戦艦2隻・サウスダコタ級戦艦4隻・アイオワ級戦艦4隻(1940年時点)の建造を開始しており、この動向および各艦の性能は日本側も把握していた。大和型戦艦の艦型の母体となったのはYourkevitch船型である。艦型試験を繰り返しこれを軍令部の要求した戦艦向きに仕立て上げる事で大和型の艦体が計画された。竜骨下端から最上甲板舷側までの深さは18.965mで、10層の甲板が重なっている。構造は、最上甲板、上甲板、中甲板、下甲板、最下甲板、第一船倉甲板、第二船倉甲板、船倉甲板、艦底(二重底)となっている。牧野茂(大和型設計者の一人)は「大和型戦艦は一見平甲板に見えるが、実質的には最上型重巡洋艦の形状といえなくもない。大和の中央切断面は最上と非常に似ている」と評した。45口径46cm3連装砲塔を艦橋の前に2基、後ろに1基の計3基9門を搭載している。大和型の対空兵装は、最終時においては証拠となる資料が発見されていない。終戦時、大和型に関する資料がほぼ全て焼却されたことによりこのような問題が起きた。大和に関しては、1945年(昭和20年)4月5日に停泊中の姿を米軍偵察機から上空撮影した写真が21世紀初頭に発見され、その解析結果によっては最終時の対空装備が確定する可能性がある。大和型は日本戦艦で唯一、建造時より航空機搭載が考慮された艦型である。露天で繋留すると、主砲発射の爆風で確実に破壊されるからである。航空兵装は船体後部に集中していた。まず、第三主砲塔から艦尾にかけての最上甲板の下に、上甲板と中甲板の二層にまたがる飛行機格納庫が設けられている。内部の詳細は不明だが、格納庫内で撮影した集合写真が残っている。大和型はこの格納庫に制限一杯に水上機を搭載した事はなく、。トラックに赴く際には格納庫に物資を満載して倉庫として使用された。また艦後部外舷側に小型艇の格納庫があり、防水扉で閉じられている。小型艇格納庫は第三主砲塔砲身位置の開口部から、後部艦橋付近まで艦内に延びていた。艦尾に張り出した部分に天井走行クレーンを設置し、小型艇を海面から吊り上げると艦内に引き込む。内火艇とカッターの総搭載定数は不明だが、「内火艇11隻、カッター5隻」という証言や、15m長官艇、内火艇、水雷艇2隻、12mランチ6隻搭載という再現図面がある。格納庫には両開き式の鉄扉があり、被弾に備えた。艦載機は格納庫を出たあと開口部(レセス)に移動し、大型ジブクレーンで吊り上げられて最上甲板に降ろされる。開口部にエレベーターがあったという説もあるが実際には設置されておらず、開口部左舷側に急角度の階段(ラッタル)があった。搭乗員の推定で、幅10m、横12mあった。岩佐(大和偵察員)は、この開口部への直撃弾が大和の中甲板で直接炸裂して、舵やスクリューを破壊するのではないかと懸念していた艦尾甲板には、艦載機発艦の為の呉二号五型カタパルトが艦尾両舷に1基ずつ、計2基設けられていて、揚収用の大型ジブクレーンも艦尾に1基搭載している。石川島播磨重工製クレーンは、使用加重6トン、最大使用半径20メートル、旋回角度300度、巻き上げ速度(6トン時)15メートル/分の性能を有しており、飛行機の揚収以外にも、物資の積み込み、通船の揚収に使用された。大和型戦艦の当初計画であるA140では、艦の後部に搭載機格納庫が描かれ、そこには主翼を後方に折りたたんだ6機の航空機が存在する。この航空機は、1930年(昭和5年)の『所要航空機種及性能標準』に「偵察兼攻撃機」として記載されている、水陸互換の艦上攻撃機を水上化した三座水偵(後の九四式水上偵察機)と考えられる。当時、後の零式水上観測機のような複座の専用観測機は試作発注もされていないことから、大和型戦艦の原案では、三座水偵6機搭載を予定していたことは、ほぼ確実である。実際に建造が開始された1937年(昭和12年)には、前年の『航空機種及性能標準』を反映して、搭載機は十試観測機(後の零式水上観測機)に変更されている。実際に搭載された零式水上観測機は、九五式水上偵察機と同程度の折りたたみ寸法を得られるため、このような問題は起こっていない。ただし零式水上偵察機については、三座であることなどから、機体の折りたたみサイズが大きく、大和型戦艦格納庫への搭載はあまり適していなかったとされている。なお、竣工後の大和に最初に搭載された機材は九五式水上偵察機である。これは第二一航空廠あてに「一号艦用に、至急九五式水上偵察機を2機、12月10日までに組み立てるように」という内容の電文と、その返信が残っているからである。この九五水偵はカタパルトの試験に使われたと考えられる。また、主力艦(戦艦)搭載の水上観測機と平行して、急降下爆撃も可能な十二試二座水上偵察機の開発が指示された。1937年(昭和12年)3月25日に行われた十二試二座水上偵察機と十二試三座水上偵察機の計画要求審議によれば、水上観測機と二座水上偵察機の機種統合を前提に十二試二座水上偵察機6機を大和型戦艦に搭載できないか、という問答が行われている。ここでは、大和型戦艦の格納庫は(機体の折りたたみサイズが小さい)九四式水上偵察機6機を想定しており、収納庫入口の大きさを大きくすると、爆風の圧力に対する強度の保持が困難なことから、5機までしか搭載できない、という結論が出ている。つまり、大和型戦艦の航空艤装は、九四式水上偵察機、及び零式水上観測機の搭載を基準に計画され、十二試二座水上偵察機搭載を予定して小改修を施したものである。なお、十二試二座水偵は要求性能を満たすことが出来なかった。水上爆撃機と偵察機の統合は、後の水上偵察機「瑞雲」において実現する。1944年(昭和19年)10月、航空本部は『空母及搭載艦関係現状報告資料』において大和型戦艦への瑞雲20機搭載を計画したことがあるが、捷号作戦の開始と、それに伴う武蔵の喪失などにより実行されなかった。搭載機は弾着観測用の零式水上観測機(零観)及び索敵用の零式水上偵察機(零式三座水偵)で、搭載可能機数は計6機(一説には格納庫に5機+露天繋止2機の計7機)とされている。これらは、主砲発砲時の爆風対策のため、全機が艦内に格納できた。6機もしくは7機とされるのは、搭載機材の違いが影響としていると考えられる。機材のサイズとしては、搭載機が零式観測機のみなら、格納庫内に6機、カタパルト上に2機の計8機が搭載できる。レイテ沖海戦後の「軍艦大和戦闘詳報」では、大和格納庫出入口を含めると"零観8機"、瑞雲または彗星なら6機搭載可能、零式水偵は格納できないと報告している。しかし、機材調達や用法の問題により大和、武蔵共に定数を載せたことはなかった。レイテ沖海戦では、大和は4機(大和所属2機、長門所属1機、保管機1)、武蔵は5機(武蔵所属2、長門1、保管機2)を搭載していた。大和に戦艦山城の飛行長が乗っており、10月25日未明に大和を発進したという証言もあるが、大和・武蔵が実際に搭載していたのは長門所属機である。沖縄特攻時には、大和は零式水上偵察機1機を残して、残機を降ろしたという。大和最後の水偵は4月7日早朝に艦を発進し、対潜哨戒の後に日本本土へ戻った。戦争後半には日本側の制空権喪失にともなって、米軍戦闘機に襲われるとひとたまりもない水上偵察機による弾着観測は極めて難しくなった。特に零式水上観測機は、用兵側から「航続距離不足は致命的」と厳しい評価がでている。レイテ沖海戦におけるサマール沖砲撃戦では、大和は零式水上観測機2機を発進させるも、10分たらずで米軍戦闘機に追い払われてしまった。大和戦闘詳報には、瑞雲6機もしくは彗星6機を搭載した上で、基地航空隊と連携して行動することの重要性が書かれているが、いずれも実現しないまま大和は沈没した。大和型戦艦は史上最大の戦艦だが、それでも建造前に中村良三(大将)艦攻本部長から「最小の重量をもって威力最大なる艦船たらしむるには船体、兵器、機関および艤装品の各細部にわたり、容積の縮小と重量の軽減をはかるを要す」と指示されている。技術者の努力と技術的洗練によって世界最大の主砲と防御力を持つわりには小さく作られた艦とされ、福井静夫などの技術者もそれを誇りとしていた。大和型戦艦の船体主要部は、距離2万-3万mから発射された自艦の46cm砲の砲弾に耐える防御力がある。だが艦全体を重装甲で固めると速力や復元力性能を低下させるため、現実的ではない。従って戦艦は、重装甲で守るバイタルパート(主要防御区画:主砲、火薬庫、発令所、機械室、缶室、発電機、舵取機室、等)と、間接防御で妥協する部分の二つの部分で構成されている。大和型戦艦はバイタルパートを最小化するという集中防御方式で設計されている。これはアメリカのサウスダコタ級やフランスのダンケルク級と同じ設計思想で、横から見たシルエットは前者に、内部構造は後者に似ている。これにより主要防御区画は水線長に対する53%に抑制され、防御の冗長化を回避している。従来日本戦艦は、長門型戦艦63.15%、扶桑型戦艦65.0%、加賀型戦艦55.0%である。主要防御区画の防御力は、砲戦距離2万 - 3万mで自身の46cm砲に耐えうるものとされた。なお防御にあてられた重量と艦の全重量との比較は、大和が34.4(新造)、長門が30.6(新造)であった。水密区画数は扶桑型戦艦の737区画、長門型戦艦の1,089区画に対し1,147区画と、排水量の増加の割に区画数は増えていないが、これは長門型においては大改装時にダメージコントロールの思想が取り入れられたのに対して、本型は設計時点から検討され、注排水システムも装備したためである(注排水システムについては後述)。また主要防御区画も最小限にまとめられ、そこだけで必要浮力が確保できた。主要防御区画以外がすべて破壊、浸水しても、なお艦舷が水面上を保つということである(リドルド状態も参照)。大和型戦艦の船体は、舷側上部は410mmのVH(ヴィッカース非滲炭)甲鉄、舷側下部は50 - 200mmのNVNC(新ヴィッカース非滲炭)甲鉄、甲板は200 - 230mmのMNC(モリブデン含有)甲鉄で覆われていた。また砲塔前楯及びバーベット部は650mmのVH甲鉄(ただし大和型砲塔用の装甲に関与した、佐佐川清元技術大佐は560mmと証言。設計図では、露出バーベット部は560mmVH、艦内部分は490mmVH)、天蓋は270mmである。これは全ての軍艦の中で、最も強固な直接防御である。VH甲鉄は長門型まで用いられてきたクルップ式浸炭(炭和)甲鉄 (KC) にかわって採用されたもので、炭素ではなく窒素を使って甲鉄の表面を硬化させている。浸炭甲鉄より撃力に対して優れているとされ、ヴィッカース式硬化甲鉄の頭文字をとってVHと呼ばれる。なお、VH甲鉄の意味はKCに対して生産性が向上していることにある。主要防御区画の水平装甲は次のような防御要領となっている。日本海軍は水中弾の効果を重視しており、これに対応するため、大和型戦艦では水面下に至るまで装甲板を伸ばした(既存戦艦も改装時に設置している)。なお、水中弾効果はアメリカ海軍も1935年頃に実験で効果を確認し、これにより戦艦サウスダコタ級以降の米戦艦も水線下に装甲を設置している。ただしノースカロライナ級以前の米戦艦に水中弾防御は無く、英独仏伊の新型戦艦も水中弾に対する防御を持たなかった。。なお1943年(昭和18年)12月25日に大和に潜水艦スケート ("USS Skate, SS-305") が発射した魚雷1本が右舷後部命中した際、衝撃で舷側装甲取付部分が緩み、大量の浸水が生じた。その量は、バルジ内区画、バイタルパート(主要防御区画)内部の右舷後部外側機械室、三番主砲上部火薬庫に合計3000トンである。直後の原因調査で舷側装甲板の継手構造に設計上の問題があると判明した。大和に関しては補強工事が行われたが、武蔵に関しては行われなかったとする研究者もいる戦後、米国調査団は大和型の分析を試みたが、この点に関しては「大和型のアキレス腱」と評している。米国のサウスダコタ級戦艦が大和型とほぼ同一構造であり、問題とされた。アイオワ級戦艦で改正されたものの、不十分とされ、未成となったモンタナ級戦艦ではノースカロライナ級戦艦類似の構造に戻す予定となっていた。ただしそのノースカロライナ級戦艦「ノースカロライナ」も1942年9月15日に伊号第一九潜水艦が発射した魚雷1本が命中し、弾薬庫まで浸水。修理に1ヵ月かかっている。しかし威力の大きい酸素魚雷を受けたにもかからずノースカロライナが被った浸水量はたったの970tであり、これと比べると大和型戦艦が浸水に対して意外に脆い一面を持っていたことが伺える。大和の水中防御について批判的な設計当事者としては、牧野茂が居る。牧野茂は、液層防御方式が不採用に至った経緯として次のように述べている。日本海軍でも1935年頃には水中防御の模型実験を再開し、本方式に優位性を見出した。同時期、米海軍は次々と各戦艦に適用していった。日本では藤本喜久雄は本方式を評価していたものの、平賀譲は大正時代に当時の日米戦艦の模型実験の結果から空層防御の日本戦艦に軍配を挙げ、以降その評価を修正しなかった。また、牧野の説明によれば液層防御方式のメリットを下記のように4点列挙している。牧野によれば、水中防御の考え方としての多層液層方式と空層方式の比較において、大和では1番目の破片対策は水中弾防御甲鉄で賄われるが、液層防御方式を採用していないため、2番目以下の効果は失われると評している。更に大和型の場合、艦底まで水中弾防御甲鉄を延長している区画は機関部の60m(全長の22.7%)に過ぎず、弾火薬庫区画は床面の甲鉄で浸水を防げるものとして、火薬庫床面から艦底までの水中弾防御甲鉄が省略されたことを失点として挙げている。なお、牧野は水中防御について、米海軍が優れていたという立場に立っているが、ノースカロライナの被雷例を挙げて、「主砲戦力が3分の2に激減し、設計者は非難の的になったと言う。(中略)わが国は熱心かつ謙虚に、その詳細について検討することが必要であったと痛感する」と他山の石とする姿勢を取っている。日本でも大和が1943年12月、トラック沖で潜水艦に雷撃を受けた際、呉工廠のNというベテラン船殻技師(大和計画当時技手として参画)が「しまった、申しわけない。しまった、うかつだった。」とくりかえしつぶやいているのを、となりの机で私は聞いていた」という。大和の副長と砲術長を務めたことのある黛治夫は大和が艤装中にあった時、艦前部の無防御部に重油の液層を設け、38mmの縦隔壁で補強を実施するように進言をしたことがある。だが、呉海軍工廠造船実験部長矢ヶ崎正経造船少将は、6ヶ月の工期延長が必要と見積り、実行不能と判断したと言う。また黛はドイツ巡洋戦艦「ザイドリッツ」の戦訓をふまえて、大和前部にスポンジ、もしくはバルサや桐、標的艦「摂津」で実用された防水区画に石油缶を詰める等、各種浮力材を充填する案を提案したが、却下されている。牧野茂は深く研究することなく拒否したことを後に反省し、重量犠牲を払っても検討すべきだったと述べている。しかし、大和型戦艦の防御力要求である「魚雷2本の命中を受けても戦闘力を維持し、3本命中でも沈没することなく基地に帰投できる」という防御力要求は、ほぼ満たされていた。レイテ沖海戦において、武蔵が戦線離脱を命令されるまでに受けた魚雷は5、6本であり、想定より多かった。大和も沖縄特攻時に、左舷前部、中部、後部への航空魚雷3本の命中を受け、左舷に8度傾いたが、右舷タンクに3,000トンの注水で復元している。この後、左舷に2本の命中魚雷を受け、傾斜15度になるものの、速力はまだ18ノットを維持していた。又、大和型戦艦は喫水線上より喫水線下の方が防水(水密)区画の数が少なくなっており、結果、水中防御能力は長門型戦艦と同等(長門型では、喫水線下の方が多くなっている)であったという説も存在する。1944年3月29日に武蔵が魚雷1発を艦前方に被雷した際、艦内にいた乗組員は主砲発射と間違えるか、気付かなかった。駆逐艦が投下する爆雷の方が魚雷命中の衝撃より響いたという証言もある。被雷の事実を知らされた乗組員は「不沈戦艦」への信頼を一層強めたという。レイテ沖海戦では、武蔵艦底の水中探査儀員が第二艦橋に報告に来た際、多数の被雷を主砲発射と間違えて「今日はよく主砲を撃っているな。戦果はどうだ」と語りかけ、副長付信号兵を唖然とさせている。長門型戦艦(改装後)の予備浮力は29,292トンで、排水量の67.6%だったのに対し、大和型戦艦の予備浮力は57,450トンで、基準排水量64,000トンの90%にも及ぶものだった。松本喜太郎は著書の中で予備浮力の大きさから、大和型の沈みにくさを説明している。これによれば、魚雷1本毎に1200トンの予備浮力を喪失したとして、全浮力を喪失するには大和では48本、長門では24本、扶桑では18本を要すると計算された。大和型には被弾時に於ける浸水や対応として急速注排水区画と通常注排水区画を多く設けた。それぞれの注水区画は前部・中部・後部の注排水管制室で管理され、艦中央部下甲板の注排水指揮所が掌握している。注排水指揮盤を見ながら油圧でコントロールされたバルブを遠隔操作することにより、迅速に注水が実施できた。潜水艦の浮力タンクの注排水システムを大型化したものが採用され、取水孔は艦底に6箇所設置された。排水には蓄圧された圧縮空気が使用された。想定では、潜水艦・水雷戦隊の大型魚雷1本命中に対し5分以内に傾斜復旧、2本目の魚雷命中でも30分以内に復旧というものである。注排水区画の注水可能量は3,832トンで、横傾斜復元能力は18.3度であった。燃料の重油の移動によっても艦の傾斜をコントロールすることができ、双方あわせて片舷への20度近い傾斜を30分以内に復元する能力を持っていた。非常手段として機械室や缶室への注水も可能で傾斜25度まで復元可能だった。しかし同時期の米戦艦が艦全長の約60パーセントが注排水可能な範囲だったのに対し大和型戦艦の注排水可能な範囲は艦全長のたった22.7パーセントに過ぎずダメージコントロールという分野においては同時期に建造された米戦艦に大幅に劣っていた。もっともこれは大和型戦艦に限らず旧日本海軍の軍艦全般に言える弱点であった。一方で艦内被弾や、爆弾投下に於ける被弾の復旧や消火に関しては、泡状の消火剤の噴射や、各種消火水に、防火防壁に加え、強制注排水により、弾薬庫の引火を抑えるシステムを設けていた。主砲弾薬庫の底部は3重底になっているので、油圧で遠隔制御される注水弁が設置されていた。副砲弾薬庫は喫水上に配置しているので、ポンプによる天井からの散水システムが設置されていた。大和型最大の特徴と言える46cm砲は、海軍の要求や海外の情報から様々な案が検討された。ワシントン海軍軍縮条約で日本戦艦の保有数が対米英比6割に抑えられたため、日本海軍は46cm砲搭載戦艦を建造し、質的対抗を図った。この46cm砲はそれまで最大の戦艦主砲だった41cm砲を凌駕する、世界最大の主砲であった。しかし、機密保持のため「九四式四〇センチ(サンチ)砲」と呼称した。アメリカ側も、戦中は日本には46cm砲を作る技術はなく最大でも長門型と同等の40cm砲であろうと推測しており、詳しい口径を知るのは戦後の事であった。大和型戦艦が搭載した46cm45口径砲の最大射程は42,026mで、米国の同世代戦艦ノースカロライナ級、サウスダコタ級の搭載する40.6cm45口径砲 Mk.6の射程距離33,740m、40.6cm50口径砲 Mk.7を搭載したアイオワ級の射程距離38,720m、英国のキング・ジョージ5世級が搭載した35.6cm45口径砲の射程距離37,100mなどを上回っていた。ただし、後述するアウトレンジ射撃の項目に書かれている通り、実質的な射程距離では大差なかった。46cm砲弾は初速780m/秒 (2,808km/h) で発射され、距離20,000m(仰角12.43度、落角16.31度)では522m/秒、30,000m(仰角23.12度、落角31.21度)では475m/秒(時速1,710km/h。音速の1.4倍)で着弾した。主砲を最大仰角45度で発砲した場合、弾丸の高度は距離25km付近で11,900mに達した。砲塔の旋回速度は毎秒2度(3度説もある)、砲の俯仰速度は毎秒10度(8度説もある)とされている。なお、凌波性向上のために、艦首に強いシアーを付けたため、1番砲塔は前方射撃(正面より左右へ各30度)では、仰角5度以下での発砲が行えなかった。砲身は200発の発射で交換することになっていたが、これは砲身そのものではなく、傷ついた内筒のみである。46cm砲に対応した防御を備えた戦艦は他国に存在しないため、通常の戦闘距離で発射された砲弾が命中したなら、いかなる敵戦艦の防御をも貫通し得た。なお、日本海軍は46cm砲命中時の廃艦所要弾数について、大型巡洋艦で4ないし5発、戦艦で9 - 16発と考えていた。世界最強の艦載砲といわれる46cm砲だが、サマール沖海戦後の戦闘詳報によれば、「主砲の発射弾数は170余発に過ぎず(中略)平素1門あたり4ないし5発の教練射撃でも、故障が絶無なることは希なるを常とする」という状態であった。同詳報はサマール沖海戦について「今回は海戦期間中、一度の小故障も起こさずに使用できた」と記載していることから、信頼性に問題があると認識されていた。信濃の三番砲塔を調査した米軍は「日本独自のもので、英米戦艦より簡略な構造で機能する。作業の安全性と迅速性は作業員の訓練に依存し、全体的に安全に関する過剰な要素が設計に含まれ、非常に重い」「保守管理に大量の潤滑油が必要」と評価している。しかし、戦艦クラスの大口径砲では諸外国でも同様に故障が発生している。たとえば、米アイオワ級戦艦においては、主砲弾の爆発事故が起きており多数の死傷者を出している。また、レイテ沖海戦における10月25日未明のスリガオ海峡海戦では、西村艦隊を迎撃した米第7艦隊の戦艦6隻に様々な故障が生じ、ウェストバージニアと カリフォルニアでは数基の砲塔が射撃不能になっている。イギリスにおいてもビスマルク追撃戦において、各戦艦が頻繁な主砲の故障に悩まされている。46cm主砲の装填速度は29.5 - 30.5秒とされている(下記)。つまり最大仰角45度で発砲した場合は、装填角度の3度から45度に砲身を上げるのに4.2秒、下ろすのにも4.2秒かかるため、次弾発射までに単純合計で37.9 - 38.9秒を要する。これが通説における発射速度40秒/発である。想定戦闘距離である30,000mであれば、砲身の俯仰にかかる時間が減るため、34 - 35秒程度(通説による発射速度1.8発/分である)、20,000mであれば32 - 33秒/発程度で発射可能と考えられる。しかし、遠距離射撃においては着弾観測における修正必要度が高いため、この速度で砲撃を行うわけではない。黛治夫によれば、30,000mで射撃すると、弾着するまで50秒かかる。初弾弾着を観測したのち修正を行い、第一射撃から約1分で第二射撃を行う。同様に砲弾の飛翔と観測・修正を繰り返し、3分後に第三射撃を行う。たとえ30 - 40秒/発で装填が完了していても、弾着の修正を行わないまま撃っては意味がないからである。黛は、大和型が第一命中弾を出すまでに必要な時間は5分と計算した。大和型戦艦の装填速度29.5 - 30.5秒/発は、ビスマルク級戦艦の26秒/発(仰角4度。ただし、装填角度は2.5度)や米新型戦艦のマニュアルにある30秒/発と大差ない。とはいえ、米戦艦ノースカロライナは訓練により、マニュアルの半分である15秒/発を実戦で記録している(ナウル島への艦砲射撃のケース。だが人身事故の発生もあり、瞬発信管装着の際には特に「安全上の見地から、発射時間を遵守」の旨の指示が砲術長より出されてもいる。また機構的には長門型戦艦も16秒/発で装填することは可能)。こうしたことからも、発射速度は訓練度や戦況で左右される可能性のあるものであり、目安でしかない。現実に、実戦において各国戦艦はカタログ上最速速度ではなく、1分/発程度で砲撃を行っていることが多い。つまり、通説で語られる「米国のアイオワ級戦艦の射撃速度が30秒/発とされているので、40秒/発の大和型戦艦よりも手数で有利」のように、単純に論じられるものではないが、大戦中にそれだけ使用できなかった事も事実である。下記に主砲のスペックを列記する。Firing cycle at +3° elevationTotal : 29.5-30.5sec大和型戦艦を含む当時の日本戦艦・巡洋艦は、対艦用として九一式徹甲弾およびその改良型である一式徹甲弾を、対空用(および対地・対軽装甲艦船用)として零式通常弾および三式通常弾を搭載していた。46cm砲の場合、砲弾全長は九一式が約2m、三式弾が1.6m。砲弾重量は九一式および零式弾が1,460kg、三式弾が1,360kgであった。1門の搭載定数は当初100発、1砲塔300発が考えられたが、実際の設計では1門あたり120発+訓練用砲弾6発に変更された。九一式徹甲弾は水中弾道を考慮して開発された物だが、実戦での水中弾発生確率は通常弾と大差なかった。また弾体強度の不足から、砲弾径の9割以上の厚みがある表面硬化装甲に対し、撃角25度以上で命中した場合に破砕されてしまうという問題があり、大和型戦艦では被帽の取り付け方法を是正している。一式徹甲弾では、上記の被帽取り付け方法の改善に加え、弾頭部への染料充填を行ったとされている。能村によれば、大和は無色、武蔵は水色、長門は桃色であった。このほかに弾体強度を強化したという説もあるが、定かではない。また染料の充填は、一式徹甲弾以前の砲弾でも広く行われていた。零式通常弾は榴弾、三式通常弾は榴散弾である。信管はいずれも調停秒時を0秒(瞬発)から55秒まで可変で設定可能な零式時限信管を使用した。炸裂時の危害半径は零式弾の方が大きく、どちらがより有効かについては当時の資料でも意見が分かれている。零式・三式通常弾とも、制式採用は1944年(昭和19年)であったが、1942年(昭和17年)中期以降から、限定的に実戦使用されていた。大和の主砲弾は、日本各地に数は少ないが保存されており、実物をみることも出来る。しかし靖国神社に展示されているものは模造品であり、清水芳人(大和副砲長)が名古屋市護国神社に奉納したものは、実物とされる。日本光學製の、艦載用としては世界最大の15.5m測距儀を、艦橋頂上、各主砲塔と合計4基搭載し、これにより得られた敵艦の情報を九八式射撃盤(一種の機械式アナログコンピュータ。戦艦比叡に先行搭載し、性能を確認したもの)に入力して照準をつけていた。艦橋・砲塔双方の15.5m測距儀で測定し、その平均値を求めることもあった。装備位置の関係から、戦闘時の測距は概ね艦橋装備のもので行われた。双方の速度、距離、方角、地球の自転速度、風速、気温、湿度、装填される火薬量などの数値が機械的な計算機に入力され、最終的な砲身の方向と角度が決定された。主砲塔の測距儀は、防焔のための隔壁で保護され、指揮室を兼ねた。予備として後部艦橋に10m測距儀も1基設置されていた。艦橋トップの測距儀が破壊されても、主砲塔か後部艦橋の測距儀で射撃を続けられた。なお、搭載した九八式射撃盤は射程距離40,000m、敵艦速力40ノット、自艦速力35ノットまで対応していた。ただし、地球の自転に対応する関係から、作戦海面を北緯55度、南緯20度以内(サハリンの北端からニューカレドニア島まで)として調整されていた。射撃盤は衝撃対策を施してあったが衝撃には弱く、レイテ沖海戦で武蔵の前檣楼トップの主砲指揮所の射撃盤は魚雷命中の衝撃により旋回不能になっており、レイテ沖で武蔵と運命を共にした艦長猪口敏平少将の遺書にも耐衝撃性を上げるよう改善する必要があると記されている。武蔵においては故障した後は、各砲塔及び後部測距儀で測距作業をし射撃を行った。しかし大和においては、沖縄戦では沈没間際まで稼動状態は良好であったことが報告されている。主砲配置に対して、20種類に及ぶ案が検討された。大別するとの4種類である。前方集中は装甲を集中配置できるため、重量的に有利と考えられた。しかし、実際に検討して見ると分散配置と大差なかった。現実に集中配置を採用したネルソン級戦艦では、前方に重量物が集中したことにより、極端に操縦性が悪化し、艦隊所属のタンカーであるネルソル、ロドルの名前で揶揄されるほどであった。また、ネルソン級では発砲の爆風により、後方射撃時に艦橋など上部構造物にダメージが及んだとの報告があり、主砲射界の問題点もあるため、集中配置は採用されなかった。とはいえ、集中配置を採用したダンケルク級戦艦、リシュリュー級戦艦や利根型重巡洋艦では操艦性や爆風の問題は指摘されておらず、現実に採用された場合、どうなったのかは不明である。なお、連装砲塔は重量バランスに優れていたが、1門ごとの必要重量が3連装砲に劣っていたために採用されず、最終的に3連装3基9門となった。平賀譲は4連装砲塔と連装砲塔など、異種砲塔の組み合わせにこだわっていたという。大和型の主砲は、散布界対策(3門同時に撃つと中央砲の弾が両側の弾から衝撃波を受けて弾道がぶれる)のため、九八式発砲遅延装置により左右2門発砲した後、一瞬おいて1門が撃つ機構となっている。この機構を最初に採用したのは20センチ連装砲を搭載する青葉型重巡洋艦であり、単装砲搭載の前級の古鷹型よりも散布界が大きくなった事から、砲弾の相互干渉の問題が発見された。ちなみに大和型の設計強度上の斉射の最大門数は各砲塔2門の6門である。これは砲の後退で吸収できなかった発射の衝撃を受け取める内支筒の強度によるもので、設計完了した昭和12年には日本海軍は全主砲の半分ずつを交互に撃つ「交互一斉打ち方」(教範では一斉打方)を基本としていたため、これで良かったとされた。ただし同年、海軍の「艦砲射撃教範」は改定され新たに全門の発射を意味する「一斉打方」(以前は「斉発打方」)が定義されることになり、実際には前述の九八式発砲遅延装置により衝撃が時間で分散され、1基3門の斉発が可能となった。口径という言葉には砲身の内径と砲身の長さ(口径長)の二つの意味があるが、ここではその両方について触れる。1918年、日本海軍は八八艦隊第十三号艦型に46cm砲8門を搭載すべく、秘匿名五年式三十六糎砲(19インチ砲/48cm砲)を製造し、試射に成功した。この砲は瀬戸内海倉橋島、亀ヶ崎大砲試射場に残され、戦後米軍が撮影している。このように大和型戦艦以前に46cm砲を搭載する計画は存在した。1934年2月、海軍省は省内に「軍備制限委員会」を設置し、日本及び米英の砲製造能力を比較検討した。委員会は、どの程度の口径、砲身長を新戦艦に採用すれば良いかを検討し、米英についても条約開けに18インチクラスの砲を搭載した戦艦を建造してくる可能性を考慮していた。制限委員会では藤本喜久雄造船少将が20インチ(内径50.8センチ。日本海軍はメートル法できりのいい数字にするので51センチ)砲3連装砲塔4基、速力30ノット、ディーゼル機関という大戦艦を提案した。また、軍令部の一部にも20インチ砲採用を働きかける動きはあり、反対に量産性を考慮して16インチクラスにとどめる動きもあった。問題は、砲身材料製造上必要な鋼塊(インゴット)の製造技術に難があったことである。当時日本で製造可能なインゴットの大きさは160トンであったが、「軍備制限委員会」が作成した比較表によれば、20インチ50口径砲だと240トンの鋼塊が必要となる。原によれば当時の世界記録でさえ、1931年に米国社が記録した200トンであり、艦政本部第一部としては20インチ砲の製造を極めて困難と判断したと言う。結果、総合的に勘案して46cm砲搭載に決まったが、パナマ運河の存在も影響を与えている(後述)。この間、過重装備の水雷艇が転覆した友鶴事件が発生して藤本造船少将が失脚し、平賀譲が軍艦設計に関与するようになる。搭載砲を45口径砲(砲身の長さが内径の45倍)とするか50口径砲(同50倍)とするかでも計画時に議論がされている。一般的には、砲身を長くするほど砲弾の初速は大きくなり射程や貫通力が増すが重量増となる。原勝洋によれば、用兵側は50口径を希望したが、50口径の砲身製造のために問題となったのはやはりインゴットの製造技術であった。45口径では1門165トンの重量に対して50口径では200トンを超すと見積もられた。また、この重量増加は排水量の増加にも繋がることから45口径で充分と判断されたと言う。なお、当時の日米新戦艦の主砲貫徹力について別資料からも参考に示す。戦艦の主砲発砲時のブラスト圧は、甲板上の人間や搭載航空機などに甚大な被害を与えるため、対策が実施された。大和型戦艦の46cm主砲は特に凄まじく、長門型戦艦の毎平方cmあたり3.5kg(砲口から15m離。2門斉射)に対し、毎平方cmあたり7.0kgである。航空機破壊が0.5-0.8kg、人間が意識朦朧となるレベルが1.16だった。実験では航空機が破壊されるほどで、試算の結果、主砲発射の衝撃波は人体に致命傷を与える圧力と判明した。大和型が艦載艇と艦載機を艦内に収容出来るように格納庫を配置したのはこの為である。計画時より爆風対策で艦載艇と航空機の格納庫を設けた例は、大和型だけである。実際に武蔵の公試時に、モルモットを入れた籠を複数配置して主砲発射を行ったところ、爆風で半数以上の籠は跡形も無く吹き飛ばされており、残った籠の中のモルモットも爆圧により形を留めぬほどになっているなど、無事であったものは殆どなかった。従って、主砲発射時には甲板上で体を露出している者(主に増設の機銃及び高角砲の要員)に対して主砲射撃指揮所から操作するブザーを鳴らすことで退避警告をしていた。1回目で甲板乗員は艦内に退避、2回目の長音の鳴り終わりと同時に発砲するという手段を執っていた。ただし、艦橋最上部防空指揮所の監視兵は退避しなかった。「武蔵」の射撃訓練に立ち会った左近允尚敏(海軍大尉、航海士)は、艦橋トップにいて主砲爆風を体感し、帽子を吹き飛ばされるところだったと回想している。また公試運転で主砲爆風実験に立会った兵員は「檻に入れた犬・猿が全部死んだ。ただ主砲が右舷を向いて発砲した時に左舷甲板にいれば平気だった」と述べている。トラック泊地での演習では、爆風に晒される兵は最初に耳に綿をつめ、その上に耳栓をして、さらに飛行帽子をすっぽりかぶって両耳を覆い、鉄兜をかぶって防御した。米国は太平洋と大西洋に挟まれているが、軍艦建造の造船所は大西洋側に集中しており、建造された新造艦は通常はパナマ運河を通って太平洋側に出る。パナマ運河を通航するには艦幅を110フィート(約33m)以内に納めなければならなかった。日本海軍は米国がその制約下で46cm砲搭載艦を建造した場合、9門搭載艦なら最大排水量50,000トン、10門搭載艦なら60,000トンでそれぞれ速力は23ノット、40.6cm砲搭載艦なら50,000トンで33ノットになると試算し、砲力と速力の総合で大和型が優位に立てると判断した。大和型に対応する十分な攻防走能力を与えた場合、運河は通行出来なくなると日本側は想定した。有力な艦船が運河を通行できない場合米海軍は、大西洋からの回航に南米回りの航路を使わざるを得ず、時間的な負荷がかかる。これは日本側に有利に働くと考えられたなお、アイオワ級戦艦計画時にも基準排水量45,494トン、全長243.8m、全幅32.9m、45.7cm47口径砲9門、速力27.5ノットの試案が存在し、これが実現した場合は日本側の予測を上回る結果になったはずである。もっとも全幅を32.9mに抑えているため、弾薬庫の必要幅の関係から、特に水中防御については大和型にかなり劣るものと考えられる(要目によれば垂直/水平装甲も制限のない大和型が優位)。なお実際にはバルジ装着で運河通航を断念したテネシー級戦艦や、運河拡幅を前提に計画されたモンタナ級戦艦(未成)が存在し、米国は当時のパナマ運河通航制限を絶対的なものと考えていた訳ではない。日本外務省も、アメリカが45,000トン級パナマ運河通行不能戦艦を建造する可能性について言及している。松本喜太郎(大和型設計者)は、大和設計着手当時、米国が太平洋と大西洋に別個の有力な艦隊を持つとは想像していなかったと述べている。大和型戦艦の機密保持は非常に徹底していた(各艦の建造場所固有の機密対策については各艦の記事も参照)。福井静夫は機密の性質を2種に区分している。例えば前級の長門型戦艦は1種目の意味で機密保護が行われた。1種目の意味での機密扱いはどこの軍隊でも見られる類であるが、大和型の場合は艦全体が2種目の意味で機密扱いとなり、民間は言うまでもなく、海軍部内関係者に対しても、できるだけ推察しにくいように下記の一連の工夫がなされた。実際には呉や長崎の一般住民の中にも新戦艦が建造中であることは公然の秘密だった。呉の平原町からはドックから引き出されたばかりの大和(1号艦)が目撃されている。だが当時の国民一般は軍に対して協力的であり、見ても他に語ることを躊躇することが多かった。帰省する軍人も同様であったという。それでも噂は徐々に広まり福井も新戦艦について質問されることがあったが、そうした戦前の社会の姿勢が機密保持に有益だった旨を述べ、当時の国民を賞賛している。兵器を製作するには予算が必要である。機密保持のための偽装はこの段階で既に行われていた。マル3計画では2隻(大和、武蔵)を計画したが、1隻あたりの予算額を大きくすると諸外国に規模が察知されてしまう恐れがあることから64,000t級戦艦2隻分の建造費とせず、金剛型の代艦として35,000t級戦艦2隻(ワシントン海軍軍縮条約の新規建造戦艦の排水量上限が35,000tだった)を建造するということで国会に予算要求した。その際それらしい偽のスペックを付記し、それも軍極秘に指定した。実際に建造するのは35,000戦艦ではなくそのままでは予算が不足する。そのため陽炎型駆逐艦3隻と伊一五型潜水艦1隻を架空計上している。つまり大和型戦艦1隻の建造費は35,000t級戦艦1隻+駆逐艦1.5隻+潜水艦0.5隻分ということになる。この他にも同時に計上された他の艦の建造費が一部流用されているとされる。さらにマル3計画計画関係の書類からも戦艦またはBという略字の入ったものは軍機扱いとされ、1ランク下の機密度である軍極秘の書類からはBに関する事項は一切省かれた。なおマル4計画では3・4番艦である信濃と111号艦の建造を計画したが、同様の偽装により40,000t級戦艦2隻の要求とし、駆逐艦2隻と潜水艦1隻を架空計上している。つまりこのときは大和型戦艦1隻の建造費は40,000t級戦艦1隻+駆逐艦1隻+潜水艦0.5隻分となっていた。海軍士官の中でも防諜が徹底していた一例として1939年1月軍令部に異動し、マル5計画の航空関係の策定作業に関わった三代一就は、「艦艇の建造計画については担当外でもあり、また知らされてもいなかった」と述べている。しかも、要求した航空兵力の増強はほぼ全て取り入れられたため、大和型に予算を削られたという意識すら抱いていなかった。建造に当たり施設周囲の民家では、ドックを一望できる向きの窓は塞ぐように指示が出され、鉄道においても、施設周辺地域に列車が近づくと、当時一般的だった「要塞地帯」での取り扱い同様に、窓を閉めるように指示が出されていた。日本海軍は建造に当たって多くの施設を新設、改造したが、その際に呉工廠では建造ドックに覆い屋根が設けられ、長崎では三菱長崎造船所の船台の対岸に倉庫群を建設して眺望の遮蔽が図られている。新設された横須賀第6ドックの場合、機密保持の容易性も建設に当たって条件の一つとされ、横須賀市街側から同ドック内の様子を伺うことは不可能である。建造に携わる工員は徹底的な身元調査の上、機密を漏らさないことを約束した。根幹に関わる技師は宣誓書に署名捺印した。艦の設計図は持ち帰らないことを徹底させ、保管は二重の金庫にしまうほどであった。武蔵建造中に製図庫で図面が一枚紛失する事件があった際には、図面取り扱いに関係した人間に対して特高による取り調べが1か月以上に渡り行われ、何名かは拷問などで職場復帰不可能になってしまった。判明した犯人の少年製図工は懲役2年執行猶予3年の刑を受けて家族と共に中国へ強制移住させられ、行方不明になったと言われている。その後の吉村昭の取材によれば、長崎に戻ったのち家庭を持ったが、終戦後に急性肺炎で死亡した。主砲が46cm砲であることを隠匿するために制式名称を「九四式四十糎(サンチ)砲」と呼称したほか、46cm砲の砲身製造設備は呉海軍工廠にしかないため、三菱重工長崎造船所で建造され、そこで艤装を受けた2番艦武蔵や、横須賀海軍工廠で建造されていた3番艦信濃への主砲兵装輸送のために砲運搬用の給兵艦樫野が建造された。信濃の場合は主砲据付前に空母への改装が決定し実際には主砲の運送は行われなかった。大和乗組員さえ正確な口径は知らされなかったばかりか、大和を視察に訪れた連合艦隊司令長官の山本五十六でさえも説明を断られているなど、正式な手続きがなければ海軍のトップでさえ詳細を知ることはできなかった。『戦艦大和建造秘録』にはレイテ沖海戦の時期ですら、大和型戦艦を指揮下に収めていた栗田健男提督は「主砲口径が46cmであることを知らなかった」と米軍の調査団に陳述している事が書かれている。天一号作戦時の第二艦隊砲術参謀・宮本鷹雄も米軍調書NAV第50号において同様の証言をしている。艦隊の指揮に関わる高級士官は直接砲の操作に当たる訳ではないが、これらは指揮下の戦艦の攻撃能力を正確に知らされていなかった事例である。ただし大まかな情報となると別で、捕虜となった将兵の中には「45センチ砲」といった推測を米側に供述している者が居る。捕虜尋問所トレイシーで得られた情報は、全長900フィート(約274m)、三連装45 - 48cm主砲三基、20cm連装砲台四基、40mm速射高射砲多数、排水量約5万トン、速力25 - 35ノット(巡航速度28ノット)である。また戦艦の主砲に関わった者ならば46cm砲であることを推測することは容易であり、「長門」の41cm砲伝令員だった近江(連合艦隊司令長官付従兵長)は「大和」の砲塔内部を見学して46cm砲の巨大さに圧倒されている。また千早正隆のように、機密を知る艤装員や艦長が転勤して他の部隊に行くという事例も多かった。艦名については、艤装員付として軽巡洋艦鹿島より転属した三等機関兵曹の履歴表に「大和」と捺印されていた。また無線通信では「大和、武蔵」の艦名が公然と呼称されており、昭和天皇が「武蔵」に乗艦した際にも『御召艦武蔵』と日本海軍全体に通知されている。水雷戦隊はおろか駆逐艦の戦闘詳報にも「大和、武蔵」の艦名が記載されている。淵田美津雄(真珠湾攻撃時赤城飛行隊長)は海軍大学校在籍中の1936年、「丸四計画」を知って大西瀧治郎航空本部教育部長と共に反対論を唱えている。同校の学生が「大和、武蔵という新型戦艦が配属された」という噂を聞き、教官に確かめたというエピソードもある。海軍兵学校を卒業後、航空搭乗員の訓練を受けていた 豊田穣は、練習機に搭乗中、教官が機上から「大和」を紹介してくれたと述べている。また横須賀海軍砲術学校で教育された第一期特年兵が戦艦「武蔵」に配属になる際、「武蔵乗組みを命ず」と面前で紹介され、特年兵同期生達がどよめいたというエピソードが残っている。砲術学校志望者が、第一から第三希望まで全て「大和」で統一した例もある。この横須賀海軍砲術学校では、1943年に源田実が来て高等科生らに航空講義をした際、「万里の長城」「ピラミッド」「大和、武蔵」は世界の笑い物だと発言し、教頭だった黛治夫が源田に詰め寄る一幕もあった。源田は大和型をスクラップにして空母にすることを主張したが、大和型から大型空母に改造された信濃は、諸事情により完成から20日で沈んだ。呉では、公用使として上陸した兵(坪井)がポケットに手をいれて本屋にいたところ、巡邏隊に連行されてしまった。日本海軍においてズボンのポケットに手をいれることは厳禁だった。詰所で「大和所属」と名乗ったところ、巡邏隊は「一号艦か」と突然態度を変え、簡単な注意だけで解放された。1944年12月の東南海地震では、大地震に遭遇して帰艦時刻に遅れそうになった数名が海軍無線局で「大和」乗組員であることを名乗り、艦に連絡を取っている。同月、有賀幸作大佐が大和艦長に任命された時、浜名海兵団にいた長男に対し本来「ウ五五六」(大和の秘匿番号)とすべきところ「大和艦長 有賀幸作」と艦名を書いた手紙を送っている。ただし、大和艦名が書かれたのは最初の一通だけだった。下級将校も艦名を知っていたと思われ、大和配属が決定した少尉が新妻に「大和配属になった」と打ち明けている。またトラック泊地では内火艇が迎えに来る際、内火艇の水兵が大声で「武蔵乗組みの者はいないか!」と怒鳴っていたという。ここでは「大和農園」や「武蔵農園」があり、下士官兵がカボチャやキュウリといった野菜を作っていた。社会一般では、1942年(昭和17年)12月8日には艦形・艦名・要目等は一切明らかにされなかったものの「新鋭艦」が既に数隻存在するという海軍関係者の発言が報道された。これは当時の雑誌・書籍類からも確認できるが、実際に紙面を飾ったのは利根型重巡洋艦「筑摩」である。また、大戦末期になると大部分が噂話程度のものであったが「長門や陸奥より大きな軍艦」が存在するという情報が少なからず広まっていたようである。大和沈没時には、呉でも「大和沈没」の噂が流れた。対する米軍は大和型戦艦の名称を把握しており、大和沈没時、捕虜に制作させた『米軍の猛攻を受けた「大和」は航空機1機の援護もなく沈没し、姉妹艦「武蔵」もフィリピン海戦で沈没した』という内容の宣伝ビラを投下している。これほどまでに徹底して大和型戦艦の機密を守ろうとした理由は、大和型戦艦の主砲が18インチ砲であると露見した場合、米国はただちに18インチ砲戦艦を建造し、「質」の面でも日本海軍と同等になると推測されたからである。牧野茂は、日米戦艦の甲鉄防御を比較した際、「設計で見逃されたところも少なくないと思われる。基本計画が軍機扱いの密室的環境で実施されたところに原因の一端がないとはいえない。機密扱いは、それによって得る利益よりも、そのために失われるところの方が大きいことを銘記すべきである」と批判している。この節では主に、平間洋一「大和を巡る米海軍の情報活動」(『戦艦大和』講談社選書メチエ)を参考に記述する。大和に対しての対日情報活動を米側から調査した成果は主任教授で博士のクラークと日米関係史を専攻するクラーク夫人が行った研究が元になっている。日本海軍が1937年に条約を脱退してから後、艦艇建造に関する機密は極めて厳重に保持された。米国では1936年の時点において、日本の新型戦艦建造について16インチ砲搭載43,000 - 46,000トン級超弩級戦艦3隻を建造しているという風聞が流れ始めていた。米海軍情報部(ONI)なども対日情報の収集に尽力したが、そうした報告は常に米海軍では過小評価された。情報収集は1941年に専門誌に載った予想では45,000トンかそれ以上の排水量を持ち、16インチ (40.6cm) 砲ないし18インチ (45.7cm) 砲9門を搭載した、速力30ノット程度の「日進型戦艦」が最大5隻建造されていると記述されていた。第二次ロンドン条約では、戦艦の基準排水量制限が拡大されて、最大45,000トンとなった。日本外務省は、アメリカが51,000トンまで容認するとの観測を伝えている。この制限も第二次大戦の開戦により条約が無意味となった結果、無視され、未成のモンタナ級戦艦では60,000トンを越える設計となった。米国は空母についても、速力や搭載数を過少に見積もり、その代わり保有数を実際より多い9ないし10隻(建造中1ないし2隻)と判断していたり、実在しない18,000トン級の「快速大型巡洋艦」3隻(12インチ砲8 - 9門、速力40ノット)の建造情報を掴んだり、同じく実在しない「秩父型大型巡洋艦」を秘かに建造している事に対抗する必要があるという判断から、アラスカ級大型巡洋艦を建造しているなど、機密保持はかなりの効果を発揮していた。当然ながら、日本は戦艦建造に関する公式発表を曖昧なものとした。1937

出典:wikipedia

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