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長野工藤氏

長野工藤氏(ながのくどうし)は、伊勢国に勢力を持った有力国人である。単に長野氏とも呼称されるが、元来は工藤氏を称していたため、他の長野氏と区別するために、「長野工藤氏」と呼称されている。藤原南家乙麿(乙麻呂)流の一族で、曾我兄弟に殺された工藤祐経の三男・祐長が、伊勢平氏残党の討伐のため、伊勢国長野の地頭職となって安濃・奄芸二郡を給わり、その子・祐政が長野に来住して長野氏を名乗ったのが、長野氏の起源である。鎌倉時代から伊勢国中部の有力国人として君臨したが、南北朝時代に入ると、南朝方国司の北畠氏が伊勢に進出する。このため、長野氏は北朝方に与して伊勢の覇権を争った。ちなみに、この時代に書かれた『梅松論』にも「長野工藤三郎左衛門尉」という名乗りの人物が登場している。南北朝時代が終焉した後も北畠氏との抗争は続き、1467年からの応仁の乱でも長野氏は西軍(山名宗全側)、北畠氏は東軍(細川勝元側)に与してそれぞれが争った。戦国時代に入っても抗争が続いたが、やがて北畠氏に英主と言われる北畠晴具が現れ勢力を拡大し、また、近江六角氏の北伊勢に対する圧力も強まると、長野氏の第15代当主・長野藤定は次第に力を失っていった。1558年、藤定は晴具の嫡男・北畠具教の攻勢の前に遂に屈服し、具教の次男・具藤(長野御所)を養嗣子として迎えた上で、長野氏第16代の家督を継がせた。これにより両家は講和し、長野氏は北畠氏の傘下となった。晴具の没後まもなく、尾張の織田信長が伊勢に侵攻してくる。晴具の後を継いだ具教と、長野氏の当主である長野具藤は織田軍に抵抗したが、信長の攻勢の前に敗れ、北畠氏は信長の次男・茶筅丸を、長野氏は信長の弟・信包を養嗣子として迎えた上で家督を譲ることを余儀なくされ、北畠・長野両家は今度は織田氏によって傘下に置かれたのである。そして1576年11月、信長の命令で北畠具教が暗殺された後、具藤も田丸城で北畠一族もろとも殺される(三瀬の変)。信包も後に織田姓に復し、国人領主としての長野氏は滅亡した。その後も長野氏の一族や家臣団は信包に仕え続けたため、旧長野氏一派による伊勢中部の支配体制自体は継続したが、1594年に信包が豊臣秀吉に改易されたため、それに伴い長野氏の一族や家臣団は離散した。なお一族の分部光嘉は改易されることなく、その後も伊勢上野城主として秀吉に仕えた。分部氏はのちに水口藩主家となるが、養子を度々迎え江戸時代中頃には血縁的に断絶した。そして昭和期に入り家自体も断絶した。

出典:wikipedia

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