登山(とざん)とは、山に登ること。古くは宗教的な意味を込めて山に登ったり、戦争など何らかの必要性から山を越えることはあったが、現代ではこの他にそれ自体が目的となったスポーツ、娯楽として、広範に親しまれている。また、職業として登山を行う者も生まれている。西欧語のalpinismは「近代登山」と訳されるが、これは山に登ること自体に喜びを見出し、登山が精神や肉体に与えるものを重視し人生のうるおいとすることを目的にする。それ自体が目的となっている点でスポーツの一種であり、現代的な意味での登山の対象は、簡単に登ることができる近隣の丘陵からヒマラヤ山脈まで様々である。山を登るということは先史時代から行われていたようである。イタリアとオーストリアの国境にて約5,300年前の男性のミイラであるアイスマンがエッツ渓谷(海抜3,210m)で発見された。また、多くの宗教で山は崇拝や信仰の対象とされ、神そのものであるとされる場合もあったことから、様々な聖典や伝説で登山が記録されている。モーセはシナイ山で神の啓示を受けたとされる。ハンニバルは前218年に第二次ポエニ戦争の時、6万人の兵と37頭の象とともにピレネーやアルプスの山脈を越えたとされている。125年にローマ帝国のハドリアヌス帝は朝日を見るためにエトナ火山に登った。1336年4月26日にイタリアの詩人、ペトラルカが弟ジェラルドを連れてフランスのアビニョン近郊ヴァントゥ山の登山に挑み、その頂上まで登った。その後ペトラルカは、このときの旅程を友人に手紙に書き留めて送っている。このことから、ペトラルカは「登山の父」と呼ばれ、この日を登山の生まれた日としている。これは、文化史家のヤーコプ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』の中で紹介されている。旅の途中での必然的な山越えではなく、山に登ること自体を目的として試みられた近代最初の出来事である。ルネサンスの始まりとともに趣味やスポーツとしての登山が行われるようになった。また、測量目的の登山も行われるようになり、フランス王シャルル8世が1492年にの登頂を命じたのは、この範疇に入る。レオナルド・ダ・ヴィンチはヴァル・セシア郊外の雪山に登り、様々な実験や観察を行った。16世紀にはスイスのチューリッヒを中心に登山を賞賛する動きがあり、コンラッド・ゲスナーとジョシアス・シムラー()が度々登山を行っていたことが記録されている。。2人はロープとピッケルを使ったが、一般には広まらなかった。17世紀のヨーロッパには登山の記録がまったく残されていない。18世紀後半、アルプス最高峰のモンブラン登頂が達成され、近代的登山の幕開けとなった。1760年のこと、自然科学者オラス=ベネディクト・ド・ソシュールがシャモニーを訪れ、モンブラン初登頂を成し遂げた者に賞金を出すと宣言し、それに応える形で1786年にM・G・パカール()およびJ・バルマ( )が登頂に成功し、翌年にはソシュール自身も登頂に成功した。19世紀半ばのアルプス山脈は急峻であったが故にスポーツの対象となり、金と暇のあるイギリス紳士が多数やって来た。アルプスの主峰39座のうち、31座の初登は英国人によって達成され、それとともに登山技術も急激に進歩した。例えばそれまでマッターホルン(4,477m)は「登ることは不可能」と見なされていたが1865年7月14日にはエドワード・ウィンパーが登頂に成功した。その間、1857年には世界で最初の登山団体、英国山岳会が設立された。1854年のヴェッターホルン初登頂から1865年マッターホルン初登頂までをアルプス黄金時代と呼ぶ。マッターホルン登頂によりアルプスの4000m級が登りつくされ未登峰がなくなると、岩壁や側稜などからの登山といったより困難なルートからの登頂や、あえて冬季の登山などが行われるようになっていった。ここから1882年のダン・デュ・ジュアン初登頂までをアルプス銀の時代と呼ぶ。銀の時代が終わっても登山は低迷せず、ドイツやオーストリアのクライマーによりさらにエスカレートした。ヨーロッパのアルプス以外にも目が向けられるようになり、コーカサス山脈、アンデス山脈などの山々、またアラスカの山などにも挑戦が行われるようになった。ジョージ・マロリーが「そこにそれがあるから-Because it is there.-」と答えたのはあまりに有名であるが、記者の「なぜ"未踏峰(エベレスト)"に登るのか」という質問への答えであることはあまり知られていない。北極、南極に次ぐ第3の極地エベレストは、征服すべき対象であるとも説明している。日本においては、717年に泰澄和尚が開山した白山、701年に越中国(富山県)国司の息子有頼が開山した立山など、宗教にまつわり山を開いたとする開山縁起が残っている。都良香の富士山記に、富士山頂の様子の記述がある。鎌倉時代(1185年頃 - 1333年)・室町時代(1336年 - 1573年)以降、山に関する記録が減っていくが、何らかの理由で記録を残さなかったのか、実際に人が山に入らなくなったのかは不明である。日本において、宗教目的以外で記録される著名な登山といえば、安土桃山時代、1584年(天正12年)12月の佐々成政による「さらさら越え」(北アルプス越え)である。しかも、これは比較的容易な無積雪期ではなく、冬季の積雪期に敢行されたという点でも注目されている。ルートは、立山温泉-ザラ(佐良)峠-平の渡し(黒部川)-針ノ木峠-籠川(かごかわ)の経路が有力視されているが、確証はない。立山の一の越-御山谷ルート、別山-内蔵助谷ルートをとったという説もある。ザラ峠とは安房峠(古安房峠)のことを指す、佐々成政は安房峠を越える鎌倉街道を通って越中富山-遠江浜松を往復したのだ、という説もある。同様の軍事的な意味合いの登山としては、武田信玄の配下の武将山県昌景が、1559年(永禄2年)に飛騨を攻めるのに上高地から安房峠(古安房峠)を超えて入った事例が知られている。1640年(寛永17年)に加賀藩によって設置され1870年(明治3年)まで続いた黒部奥山廻り役は、藩林保護のための検分登山を行い、北アルプスの主峰のほとんどを登って回った。文化・文政期(1804年 - 1829年)、1819年の明覚法師と永昌行者による乗鞍岳、1828年の播隆上人による槍ヶ岳など、開山が相次ぐ。また、立山講や御岳講などの講中登山が盛んになる。寛政期(1789年 - 1800年)に寺社詣でが解禁され、『東海道中膝栗毛』(1802年 - 1822年)が人気を博すなど、民衆の間に旅行人気が広まったことが背景として考えられ、参加する者の多くにとっては、宗教的な意味合いよりも、物見遊山としてのものだったと考えられる。江戸時代、文人画家池大雅、医者川村錦城、医学者橘南谿、画家谷文晁などが、山そのものを味わうために山に登ったことが知られている。江戸幕末、北アルプス麓にある入四ヵ村で年に薪五千間、板子八万梃を伐採しに二ノ俣あたりまで入っていた。江戸幕末以降、複数の欧米人が富士山に登った。1860年(万延元年)7月、オールコックが富士山村山口登山道から登り登頂している。1867年(慶応3年)10月にはパークス夫人が、1868年(明治元年)7月にサトウが登っている。明治時代(1868年 - 1912年)、1874年にガウランド、アトキンソン、サトウの三人の外国人パーティが、ピッケルとナーゲルを用いた登山を日本で初めて六甲山で行った。ガウランドは1881年に槍ヶ岳と前穂高岳に登山して「日本アルプス」を命名した人物で、サトウは富士山に最初期に登った外国人としても知られる。日本アルプスには、上記3名のほか、ウォルター・ウェストン、バジル・ホール・チェンバレン、フランシス、ミルン など複数の欧米人が登った。15版まで重版されるベストセラーとなった志賀重昂の『日本風景論』が1894年(明治27年)10月に出版されるまでの時期を、明治時代日本アルプス登山史の第一期とする見方がある。その見方では、それ以降参謀本部陸地測量部による1913年(大正2年)の地図刊行までをその第二期とする。第二期には、冠松次郎、木暮理太郎、小島烏水、近藤茂吉、三枝守博、武田久吉、田部重治、鳥山悌成、中村清太郎 らが北アルプスに登った。陸地測量部は館潔彦、柴崎芳太郎などの測量官を派遣し、一等三角測量を完成し、地図を刊行した。第二期を、小島烏水は日本登山史上の探検時代と呼んでいる 。明治期の日本アルプスの登山では、長野県の内野常次郎、上條嘉門次(梓川渓谷)、小林喜作(中房渓谷)、遠山品右衛門(高瀬川渓谷)、横沢類蔵、富山県の宇治長次郎、佐伯源次郎、佐伯平蔵、山梨県の大村晃平、中村宗義(早川谷)など、地元の猟師が案内をした。日本の「近代登山」の始まりをどの時点に置くかは、論者によって解釈が様々であるが、ガウランドら3名による1874年(明治7年)の六甲山登山が最初とされることが多い。1889年(明治22年)には、ウェストンによってテント・ザイル等が持ち込まれ、ウェストンの助言で小島烏水らが1905年(明治38年)に日本で最初の山岳会「山岳会」(後の「日本山岳会」)を設立した。この年を近代登山の始まりとする説もある。また今西錦司の言うように1918年(大正7年)の第一次世界大戦の終戦時をもって近代登山の幕開けとされることもある。明治時代、北アルプスの地元では、学校登山が行われた。1883年(明治16年)に窪田畔夫と白馬岳に登った渡辺敏は、長野高等女学校校長時代、理科・体育教育の目的で、1902年(明治35年)より毎年、戸隠山、白馬岳、富士山などへの登山を実施した。富山師範学校教諭の保田広太郎は、1885年(明治18年)頃より、学生を連れて立山などに登った。河野齢蔵は1893年(明治26年)から動植物採集の目的で北アルプスの山々に登り、大町小学校校長のとき、学校で登山を奨励した。明治時代、測量や地理学的な目的での登山が行われた。1882年(明治15年)8月の内務省地質測量長ナウマン博士の命令による横山又次郎一行の南アルプス横断、1885年(明治18年)全国地質測量主任ライマンの助手坂本太郎の槍ヶ岳-薬師岳縦走、1889年(明治22年)大塚専一の針ノ木岳-立山-後立山縦走などである。陸地測量部によって、1907年(明治40年)までに、日本アルプスの主峰のほとんどに、三角点が設置された。探検時代の後、明治末から大正にかけて、日本アルプスへの登山者が増え始め、大正期に大衆化した。1915年(大正4年)の上高地 大正池の出現や、皇族の登山などが、人々を山へ誘った。これを受けて、1907年(明治40年)に松沢貞逸が白馬岳山頂近くに橋頭堡を築いて営業を開始したのに始まり、1916年(大正5年)に松沢貞逸が白馬尻小屋を、1918年(大正7年)に穂苅三寿雄がアルプス旅館(槍沢小屋)を、1921年(大正10年)に赤沼千尋が燕ノ小屋(燕山荘)を、百瀬慎太郎が1925年(大正14年)に大沢小屋、1930年(昭和5年)に針ノ木小屋の営業を開始するなど、山中で登山者が休憩・宿泊する山小屋の営業が始まった。また、1917年(大正6年)の百瀬慎太郎による大町登山案内者組合結成をはじめ、1918年(大正7年)の赤沼千尋の有明登山案内者組合、1919年(大正8年)の松沢貞逸の四ツ谷(白馬)登山案内者組合、1922年(大正11年)の奥原英男による島々口登山案内者組合結成など、山案内人(山岳ガイド)の利用料金および利用者と案内人の間のルールの明示・統一が試みられた。1921年(大正10年)の槇有恒のアイガー東山稜登攀をきっかけとして、大正末期にアルピニズムの時代に入った。「先鋭的な登攀」が実践され、「岩と雪の時代」「バリエーションの時代」と呼ばれた。大学や高校の山岳部が、より困難なルートの制覇を目指して山を登った。1937年(昭和12年)に始まる日中戦争、1938年(昭和13年)に制定される国家総動員法などの時代情勢により、登山ブームは下火になる。1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終了後、大学・高校の山岳部の活動が再開された。1950年代、ヒマラヤで、1950年(昭和25年)のアンナプルナ、1953年(昭和28年)のエベレスト、1956年(昭和31年)のマナスルの初登頂など、8000メートル峰(14座ある)の初登頂ラッシュが続き、これを受け再び登山ブームが起きた。このブームの特徴は、大学や高校の山岳部に代わって、社会人山岳会の活動が活発になったことである。この時期、1955年(昭和30年)有名なナイロンザイル事件が起きた。また、谷川岳では、多発する遭難事故を受けて、群馬県が1966年(昭和41年)に群馬県谷川岳遭難防止条例を制定した。1971年(昭和46年)、海外で「先鋭的な登攀」を行ってきた者達が(社)日本アルパイン・ガイド協会を設立し、登山のガイドや山岳ガイドの養成、資格認定などを行い始めた。1960年代 - 1970年代、山岳部や山岳会が「先鋭的な登攀」を続ける一方で、一般の登山者がハイキングから縦走登山、岩登りまで、好みと能力にあわせて広く楽しむようになった。1980年代、山岳部や山岳会が衰退し始め、また、登山者に占める中高年者の割合が増え始めた。若い世代が山登りを3Kというイメージで捉えて敬遠するようになり、育児が一段落した世代が山登りを趣味とし始め、仕事をリタイアした世代が若い頃に登った山に戻り始めたことが理由であると考えられる。これに健康志向と日本百名山ブームが輪をかけ、2010年現在に至っている。このブームで、ツアー登山が盛んになった。このブームの時代、1990年(平成2年)、各地に設立された山岳ガイド団体が日本山岳ガイド連盟を設立し、ガイド資格の発給を行うようになった。2003年(平成15年)、日本アルパイン・ガイド協会が日本山岳ガイド連盟を合併して(社)日本山岳ガイド協会が発足、日本全国統一基準のガイド資格が生まれた。また2010年今日、また若者が登山に戻りつつある。もともと本来の登山は競技ではなく(つまり他人と競って優劣をつけるためのものではなく)、技術の優劣を簡単に言えるものではなく、また同一の山、同一コースでも、自然条件が異なればその難易度がまったく異なる性質を持っている。よって登山技術というのは、広い意味で言えば、十分な準備をすること、十分な訓練をすること、そのうえで行動計画を立案し、自然と人間の力関係を慎重に判断してゆくことが基本であり重要な点である。登山は、計画を立てる段階からすでに始まっているとも言える。地形図や経験者から難所の情報を得ること、出発直前の天気図を元に登山を中止するかどうか判断すること、によって防ぎ得た遭難事故はままある。登山計画の立て方には様々方法があるが、概要の一例を述べると、(1)山選び (2)期日選び (3)リーダー決定、などがある。目的とする山の選定には、参加者全員の体力・技術・経験を把握し、十分に考慮する必要がある。体力・技術・経験以上の難度の山を選んだり、強者を標準として弱者に無理を強いると、事故や遭難につながる。メンバーがすでに決まっている場合は、メンバーの中の弱者に合わせて山を選定する。参加者は登山前に何度か会合を持ったり連絡をとりつつ、(1)目的地およびコースの選定 (2)グループ(パーティ)のリーダーとメンバーの決定 (3)各自の任務分担の決定 (4)予算の決定 (5)行動予定表、装備・食糧表、参加者名簿などの文書作成作業などを行う。上記の過程で、メンバー全員が目的の山について充分な知識を持ち、コースを熟知しているような状態になっていることが望ましい。パーティ(グループ)が大きい場合は、リーダー以外にサブリーダーも決めておき、サブリーダーにメンバー指導などの仕事を分担させ、リーダーの過負荷を回避する。また、トレーニングも登山直前ではなく、常日頃から行う。単なる筋力トレーニングよりも、むしろ持久力を重視したものを行い、健康の維持を重視する。ペースのとりかた、および休憩のとりかたで巧拙が決まる。山での歩行は平地とは異なり、一定の速度・リズムを保ち、足の裏全体を使って歩く。山では、(メンバー全員の身体的な能力の範囲内で、かつ)疲労の少ない一定の歩行速度を見つける必要がある。理想としては、歩幅は靴の長さ以下、一歩あたりの高低差は一般的な階段の半分以下にするとバテない。また、氷の上を歩いているような感覚で体重移動するとよい。一般的に言えば、歩きだして最初の20分で、一度は休んで、衣服・荷物の不都合な部分(リュックの肩ひもの長さ、靴ひもの締め具合、衣服の重ね具合など)を調整・修正する。その後は40-50分程度歩いては10分程度休憩する、ということの繰り返しで歩く。グループ(パーティ)の歩行速度は体力的な弱者を標準とする。歩行しつつも、常に自分たちの位置を地図上で確認する。歩きながらはしゃいだりふざけたりすることは控える。リーダーなど読図の技術があるものを先頭に配置するが、他にもサブリーダーなどの経験者がいるならば最後尾に配置して補佐をさせる。ヒマラヤなどの高高度の山頂を目指す場合では、「極地法」、すなわち、多数の支援をうけつつ、低高度からキャンプ(テント群)を設営しそれを足がかりにさらに上方にキャンプを設営することで物資を上へ上へと運び、最後に頂上近くのキャンプからそれまで体力を温存した数名程度の攻撃隊が登頂する、という手法がある。体温調節のために防寒具や雨合羽などを含む衣類(ウェア)を組み合わせて、体感温度や運動強度に適した服装にすることをレイヤリングという。登山ではできるだけ汗をかかず、なおかつ寒さを感じない程度の快適な服装が求められる。行動中は体が温まっているために薄手のフリースのみでも寒さを感じなくとも、休憩中は体が冷えるために他の防寒着を着込む必要がある。しかしそのまま再び行動するとまた汗をかき、体が冷えてしまうために防寒着を脱いでから行動をはじめなければならない。運動強度や気温、標高、天候の変化に合わせたレイヤリングを行う必要がある。ウルトラ・ライト・ハイキングとも。90年代後半にアメリカのレイ・ジャーダイン(Ray Jardine)によって提唱された「極限まで荷物を軽くすれば遠くへ行ける」という考え方である。前述の通り登山には多くの装備、衣類が必要になる。多くは安全や体力温存のために必要な装備であるが、装備品の重さも体力を消耗する原因となる。そのため、一部の装備品を省略したり、素材や構造を変更して軽量化を図ることがある。これをウルトラ・ライト・バックパッキング(以下U.L.)と呼ぶ。U.L.はクッカーを軽量なチタン製に換えるなど、従来から行われてきた簡単な手段の積み重ねでも実践できる。さらにU.L.を追求するものは、テントを軽量なツェルトに代えるなど快適性などを多少犠牲にしても軽量化を図ることがある。近年ではトレイルランニング向けに企画された軽量な装備を流用することもある。他にも売店があるような山では、水分を売店で買う計画を立てて登山口から持ち込む重量を減らすという手段をとるものもいる。レクリエーションとしての登山の魅力は、ゆっくりと傾斜を歩くことによる有酸素運動や、新陳代謝の活性化、あるいは景観や自然の風景そのものを楽しむことにある。他にも、森林浴(リラクゼーション効果)を楽しんだり、ともに登山をする人との交流、冬山を登る際にはスキー滑走を目的とする場合もある。その目的は千差万別であり、それぞれに合った登山方法がある。また日本には散歩の延長で登れるような手ごろな山から、踏破に3-4日かかる連山まで様々な山があり、ひとつの山でも簡単なルートや難所の多いルートなどがあり、各々の力量や体力に合わせ登山を楽しめる場所が多い。日本においては、以前は登山というとワンダーフォーゲルや山岳部のイメージが強く、厳しくつらく、特殊な世界と見られがちであった。しかし近年、登山靴や登山用具の発達・軽量化によって、中高年世代においても一種の登山ブームと言える現象が起きた。高齢者でも気軽に登山やトレッキングができるように整備がなされ、体力にあった登山ルートで無理なく景色や運動を楽しむことができるようになってきている。一方で登山人口における高齢者の割合が高くなるにつれ、遭難事故件数も増えつつある(#登山における事故参照)。国体には山岳競技があり(国民体育大会山岳競技)、縦走競技とクライミング競技の2種目で構成される。縦走競技は、規定の重量を背負い、決められたコースを歩ききる時間を競う。クライミング競技は、人工壁をフリークライミングのスタイルで登り、到達高度を競う。高校総体も、競技形式の登山を実施している。他にも岩を登る行為を競技として行うフリークライミング、山道を走ってその順位を争うトレイルランニングやスカイランニング等の競技がある。いずれも、山や岩場で行う競技であるため、安全や体調管理に十分に注意する必要がある。ヨーロッパで盛んな山スキーも雪山を登ることから登山競技の一種である。もともと伝統的に山で自然資源を得るための登山が存在した。たとえば東北地方のマタギによる狩猟や、地元住民らの山菜採り目的の入山である。山菜採りは自然環境に影響を与えるほどの量を採ら、狩猟も乱獲は避けるのが望ましいとされる。山麓から山頂まで荷物を人力で運ぶ職業を歩荷(ボッカ)あるいは強力(ごうりき)という。ヒマラヤ地方のシェルパという部族には、山で荷物運びを行ったり(下で説明するような)登山ガイドの仕事をして収入を得ている者が多数いる。また、登山ガイドや登山家などもいる(登山ガイドは広義の登山家に含まれる)。登山ガイドは登山の初心者やその山に不慣れな登山者のガイドを請け負い、山を案内して収入を得る。そのためその山に対する深い知識と、不慣れな登山者を安全に案内するための経験や技能が必要となる。登山がさかんな国(例えばフランスなど)では登山ガイドの資格認定を行っている組織がある。日本では現在は、社団法人・日本山岳ガイド協会が、ガイドの資格認定を行っている。その資格には、世界中の山を案内できる国際山岳ガイドや、里山を案内する自然ガイドなどさまざまな資格がある。また、あまり数は多くないが、著名な登山家の一部は、8000m級の山を単独で登ったり無酸素登攀したりといった難しいアタックをする際、大企業やテレビ局とスポンサー契約を結び、それによって登山に必要な莫大な費用の一部もしくは大半を確保することがある。幸運にもアタックが成功した場合は企業の広告塔としてCMに出演したりすることなどによって、利益を得ることもある、だがアタックに失敗すると死傷したり、スポンサー契約を失い苦境に陥ることもある。登山家や山岳ガイドの中でも特に著名な者は講演活動や著書の出版で、生活費の足しにしたり、さらなる挑戦のための費用の一部を得る例もある。登山は軍事教練に利用される場合もある。1902年には八甲田山で八甲田雪中行軍遭難事件が発生した。警察庁は、1961年から毎年、日本国内の山岳遭難者数を取りまとめており、その統計資料によれば、年齢別の遭難者数の割合は、多い順から、1972年は20歳代が66.6%、10歳代が16.7%、30歳代が11.1%、40歳代が5.6%で50歳代以上は0%、1998年は50歳代が25.3%、60歳代が20.8%、40歳代が15.4%、70歳代が12%、20歳代が9.7%、30歳代が9.1%、10歳代が4.9%、80歳代が2.6%、90歳代および不明が0.1%、2008年は60歳代が29.8%、50歳代が19.1%、70歳代が17.5%、40歳代が10%、30歳代が7.8%、20歳代が6.4%、10歳代が4.6%、80歳代が4.2%、90歳代および不明が0.4%となっていて、時代によって登山をする世代が異なっていることを示していると考えられる。1990年前後からは中高年登山ブームが起こっていて、2008年に発生した山岳遭難者数1,933人のうち40歳以上の中高年者の数は1,567人、死者・行方不明者は281人中256人と過去最高を記録、2009年に発生した山岳遭難者数は2,085人、死者・行方不明者は317人とどちらも過去最高を更新、遭難者のうち55歳以上が6割を占め、とりわけ死者・行方不明者は9割を40歳以上が占めている。2008年の数字では、遭難事故死者数は全体で253人、そのうち中高年者が234人となっていて、これらの数字からは、中高年者はアクシデントが起きたときに死に至る割合が高いということが読み取れる。朝日新聞の2010年の調べでは、2005年〜2009年の7、8月の富士山への登山中に救護された人のうち、体調急変により心肺停止になった人が14人おり、うち11人が45〜69歳である。高度のある山は、見た目でわかる以上に平地と環境が違うので、ふだんの生活では自覚されないで隠れている持病が悪化することが考えられるという。また、2009年夏、富士登山で高山病と診断された人が537人いるという。登山中に上から崩れ落ちてきた石あるいは岩塊が身体に当たって死傷する事故が発生することがある。落石の発生原因は自然発生的なものもあれば、人が誤って脆い地盤を踏んで発生させてしまうものもある。2014年9月27日に御嶽山が噴火して登山者に多数の死傷者を出した。この御嶽山での噴火を受けて各地で対応策の検討が行われている。山梨県の横内正明知事は御嶽山での噴火を受けて富士山でも水蒸気爆発等の突発的な事態に備え登山者にマスクやヘルメットの持参を呼び掛ける必要があるとの考えを示した。2014年の御嶽山噴火を受け、2015年7月に活動火山対策特別措置法が改正されて新たに「登山者は、火山の噴火等が起こった際に円滑、迅速に避難できるよう、必要な手段を講じるように努めなければならない。」(第11条第2項)という規定が定められた。また、火山周辺の一部の施設については、避難確保計画の作成等が義務づけられることとなった。近年、登山人口が増加したことによる自然に対するダメージが目立ってきている。例としては、ゴミやタバコを持ち帰らずポイ捨てする、むやみに木や枝を折る、遊歩道を歩かず、貴重な植物を踏んでしまうなどがある。これらは本来、登山者にとって守るべきマナーであるが、登山を始めたばかりの登山者の中にはそれを知らず結果的に自然や景観に影響を与えてしまうことがままある。以下に具体的な例を挙げる。登山愛好者の団体を山岳会(さんがくかい)と称する。山岳会には山または歩くことにちなんだ名前が付けられることが多い。学校または職場では部活動として山岳部や登山部、ワンダーフォーゲル部が結成されることがある。1857年には世界最初の山岳会である英国山岳会が設立され、1905年には日本最初の山岳会である日本山岳会が設立された。それ以降も日本国内で様々な山岳会が結成され、全日本山岳連盟(現・日本山岳協会)と勤労者山岳会(現・日本勤労者山岳連盟)のような統括団体が生まれた。山岳会は主に団体での山行や会員同士による登山技術の研修指導を行っている。会によっては、登山道もしくは山小屋の維持修繕、救助活動の支援、非会員への講演・研修、森林の保護、高山へ挑戦する会員の支援などを行っている。また、登山用品メーカーに対しては消費者団体としての側面も持つ。山岳事故を防止・救難するための情報提供を行ったり、警察・消防などの公的機関に協力して救助活動を行う団体である。登山用品は多岐にわたるため、登山用品に限っても多くの総合・専門メーカーが存在する。いわゆる山岳小説と呼ばれるジャンルである。
出典:wikipedia
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