清浄華院(しょうじょうけいん)は京都市上京区にある浄土宗の寺院。浄土宗七大本山の一つであり、同宗の京都四箇本山(他に知恩院、知恩寺、金戒光明寺)の一つである。呼称は院号のみで、山号・寺号はない。寺伝によれば平安時代に清和天皇の勅願により円仁が開基したとされる。法然上人二十五霊跡23番である。2012年現在の法主は大正大学名誉教授の真野龍海。『清浄華院誌要』によれば、貞観2年(860年)、円仁(慈覚大師)が清和天皇の勅願により宮中に建立した仏殿・禁裏内道場として発足し、当初は円(法華)密(密教)浄(浄土)戒(戒律)の四宗兼学の寺院であったという。後白河天皇・後鳥羽天皇・高倉天皇の三天皇に授戒した浄土宗祖・法然がその功績により当院を下賜され、以後浄土宗寺院となったと伝える。このため円仁を開創開山、法然を改宗開山として仰いでいる。ただし、宮中における創建については『日本三代実録』『日本紀略』になく、法然が当院を下賜された旨も法然伝にはみえない。皇室の帰依篤く当初より現在まで御所の近くに有り続けたため、都以外に伽藍を構えたことがないことから「山号がない」とされている。清浄華院の存在が史料によって裏付けられるのは鎌倉時代以降であり、鎌倉時代末期の向阿証賢(是心とも、1265年 - 1336年)が事実上の開基である。向阿は乾元2年(1302年)兄弟子・専空より三条坊門高倉(現・中京区御池高倉御所八幡付近)の専修院(専修念仏院)を伽藍や本尊ごと譲り受け、のちに「浄華院」と改称したことが同年3月15日付けの文書から確認できる。近世以前の史料中では「浄華院」あるいは「浄花院」と記述されることが多く、これが本来の院名だったと推定される。少なくとも元弘3年(1333年)頃には浄華院という名称を用いるようになっているが、この浄華院が寺伝通り法然が賜った禁裏内道場の後身であるのか、向阿が自身が創建したものなのかは議論が分かれている。向阿は初め三井寺にて出家したが名声を厭い礼阿然空の下で浄土門に帰し、仮名法語『三部仮名抄』を著すなどして布教に励み、師の然空とともに鎮西派の京都再定着に大いに貢献した人物である。亀山天皇皇子・恒明親王や三条実重など貴顕の帰依を集めた向阿の活躍により、清浄華院は丹波国や越前国西谷庄などの所領を持っていたことが分かっている。また伽藍も京都の中心地に構えられていることから、当時よりそれなりの勢力をもつ寺院であったことがうかがえる。その後、清浄華院は14世紀中頃に土御門室町(現・京都市上京区元浄花院町付近)に移転する。この移転は三条坊門殿に住んでいた足利直義が、暦応2年(1338年)に持仏堂的な寺院として等持院を建立、邸宅に隣接していた清浄華院の敷地を接収したためと考えられている。ただし、等持院は(暦応4年(1341年)足利尊氏が後醍醐天皇の供養のため創建したとの説もあり、また清浄華院の敷地が接収されたのは等持院の鎮守御所八幡宮創建時であったなど諸説あるが、少なくとも観応二年(1351年)には土御門室町の地に移転を果たしていたことが分かっている。移転先は昭慶門院が世良親王に譲った御所、土御門殿跡と伝えられている。『増鏡』に昭慶門院の「土御門室町にありし院」が「この頃は寺に成りて」という記事が見え、この「寺」は浄華院のことを指すと考えられている。いずれにしろ清浄華院は室町時代を通して京のメインストリートであった室町通りに面して境内を営み、土御門東洞院殿や室町第に程近い政治と文化の中心地に伽藍を構えた。こうした立地も幸いして室町時代には皇室や公家はもちろん、幕府や武家の帰依を受けるようになり、特に称光天皇と足利義教より篤い帰依を受けた佛立恵照国師等凞は鎮西派浄土宗初の香衣と国師号の勅許を得ている。これは等凞の称光天皇の臨終善知識を務めた功績と、清浄華院が伝える円頓戒脈と鎮西派法脈が正統として評価されたことによる。さらに等凞は義教の将軍就任以前からの知己であったことにも由来すると考えられている。このあたりの事情は檀越の一人で等凞と親しい関係にあった万里小路時房による『建内記』に詳しい。 等凞の活躍によりこの頃の清浄華院は隆盛の絶頂を迎えており、「鎮西一流の本山」とも称された。当時の公家の日記や諸史料には、まさに浄土宗鎮西派の筆頭寺院として振る舞う清浄華院の様子が記されている。当時の京都における浄土宗は、幕府が帰依した禅宗等に比べれば小さな勢力であり、また浄土宗内でも当時西山派に連なっていた廬山寺や二尊院が貴顕の帰依を集め大きな勢力を持ちっていた。そのため朝廷や幕府による庇護を受けて本山の格式を有した鎮西派寺院は清浄華院の他にはなかったのである。 しかし、応仁の乱が勃発すると緒戦にて室町第攻防のため戦火に包まれ度重なる戦闘により荒廃し、以後長享元年(1487年)まで伽藍を再建出来なかった。しかしこの頃はいまだ他山の香衣参内や将軍拝賀には当院の仲介と同道が必要とされていたし、また16世紀に遡る洛中洛外図(歴博甲本・上杉本・東博模本)にも当院の伽藍が描かれており、一定の権威と寺勢を保っていたことがうかがえる。しかし戦国時代の混乱の中で朝廷や幕府の権威が失墜し、織豊政権、徳川幕府と政権が移り変わっていくにつれて、かつての繁栄は失われていくことになる。天正年間(1573年-1592年)豊臣秀吉の京都都市計画により現在地へ移転。この頃清浄華院は末寺統制に苦慮し、特に清浄華院にて活躍後に新黒谷へ転住した道残の離反の影響は大きく、この時期に寺勢は著しく衰えたとされる。一方、そんな清浄華院の衰微とは対照的に、知恩寺や知恩院が本山としての寺勢を整えていくこととなった。江戸時代に入って以後も大本山としての権威は保たれることになったものの、幕府の朝廷統制が厳しくなる中で皇室との公的な関係は断たれていくこととなり、紫衣勅許も徳川幕府の帰依を得て総本山となった知恩院の仲介が必要となり、勅命により晋山してきた住持職も台命勅許(幕府が命じ朝廷が許す)という形を取るようになっていった。しかしながら皇子・皇女の墓が数多く営まれるなど皇室との関係は続き、皇室帰依の寺院として権威を保ち続けた。これは天皇の皇子が早逝すると母方の実家の菩提寺に葬られる習慣があったためで、当院の檀家には公家が多く、檀家出身の娘達が産んだ皇子たちの墓がここに営まれたことによる。天皇の母となった檀家の敬法門院や開明門院の墓も当院の境内に営まれている。敬法門院の子・文仁親王は常磐井宮を相続して京極宮を名乗り、以後清浄華院は京極宮家(桂宮)とは親しい関係を持った。当院と師檀関係を持った公家には、万里小路家、山科家、東園家、姉小路家、甘露寺家、松木(中御門)家、嵯峨(正親町三条)家、堤家、山本家、下冷泉家、六角家、坊城家、錦織家、玉松家等がある。地下家や宮家の諸大夫、家司、地下役人の檀家も多かった。伽藍は寛文期の火災や、宝永の大火、天明の大火などで焼失・類焼しているが、その都度御所の用材を下げ渡される形を取って再建されている。そのため御所の格式と同様の建築物を誇った。また御所に近いことからしばしば上洛する幕府要人や大名の宿所となり、享保期には徳川吉宗に献上されるためベトナムから渡来したゾウの宿所にもなっている。将軍上洛警護や治安維持のために諸藩の藩士が多数上洛した幕末には、御所警備を担当した肥後熊本藩や阿波徳島藩、薩摩藩、会津藩などの藩士の宿所となった。特に会津藩は藩主松平容保が半年ほど逗留した。明治期に入ると明治初年まで戊辰戦争の薩摩藩の陣所の一つになった他、廃仏毀釈や浄土宗内の混乱、そして失火で伽藍を焼失するなど災難が続いたが、明治44年の法然上人七百年大遠忌には伽藍を再興、現在に至っている。 皇室帰依の由緒により、皇室の紋章・菊花紋を許されてきたが、明治以降は皇室の権威に遠慮して菊花に葉をかけた「葉菊紋」を寺紋としている。現在も皇室由緒寺院として天皇の京都御所還幸啓の際には当院法主も御所へ御出迎えに出るのが慣例となっている。()内は何代目かを記す
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。