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Pファンク

Pファンク () は、ジョージ・クリントンが、1970年代に率いた2組のバンド、パーラメントとファンカデリック、及びその構成メンバーによるファンクミュージックを指す音楽ジャンルであり、またこの音楽集団のことである。パーラメント・ファンカデリック以外に、Pファンク・オール・スターズ、ブーツィーズ・ラバー・バンド、パーレット、ブライズ・オブ・ファンケンスタイン、メンバーのソロ等を含む。Pファンクは1960年代末に生まれ、1980年代には急速に収束したが、その主要メンバーは、ジョージ・クリントン、ブーツィー・コリンズを始めとして現在も活躍中であり、またその音楽は1990年代以降もデ・ラ・ソウル、レッドマン、スヌープ・ドッグ、ドクター・ドレー、レッド・ホット・チリ・ペッパーズなど、数多くのミュージシャンにサンプリングされたりカバーされるなど、ヒップホップその他に今日でも多大な影響を与えつづけ、熱狂的な支持者を持っている。2組揃って、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第58位に選ばれている。パーラメントとファンカデリックは、作る音楽やレーベルが異なるが、構成メンバーはほとんど同じである。Pファンクの音楽は、ファンカデリックの作る、ヘヴィーなギターサウンドを中心にしたロックよりの音楽から、パーラメントの作る、ホーン、コーラス、シンセサイザーを基調とし、構成のよく練られたファンクまで幅がある。ライヴでは20人を超える人数が入れ替わり立ち替わり、4時間にも及ぶ長尺のステージを繰り広げる。深くオートワウのかかった歪んだベースや、ずぶずぶと深いシンセベース、ふわふわと漂うようなシンセサウンド、抑えめでクールなホーン、ユニゾンコーラスなどによる16ビートのファンクサウンドが特徴である。サウンドは、多数のメンバーによる極めて複雑な規則性を有するサウンドで、シンセサイザーやドラムマシンもふんだんに取り込んでいる。「Pファンク」("P-Funk")という言葉は、いくつかの由来を持つ。Pファンクの2大バンド「パーラメント - ファンカデリック」(Parliament - Funkadelic) の略であり、ピュア (Pure) の"P"、サイケデリック (Psychedelic) の"P"、Pファンクが生まれた地ニュージャージー州プレインフィールド (Plainfield) の"P"でもある。1980年代に入ると急速に失速し、末にPファンクのアルバムの多くが廃盤となった後でも、熱烈なPファンク信奉者が多数存在した。当時、アナログレコードからCDへの移行期とも重なり、見直され、Pファンクの多くがCD盤として復刻された。1990年代初頭には、毎年多くのPファンクメンバーが来日公演を行った。1955年、ニュージャージー州プレインフィールドに始まる。ニュージャージー州ニューアークに住み、プレインフィールドで床屋(アフリカ系アメリカ人の縮毛矯正)をしていた14歳のジョージ・クリントンは、ニューアークのクリントン・プレイス中学校 (Clinton Place Junior High School) のクラスメートと「ザ・パーラメンツ "the Parliaments" 」という4人組のドゥーワップグループを結成した 。このグループ名は、たばこのブランド、パーラメントから名付けられた。当時の床屋は社交場であり、バーバーショップ・ミュージック () と呼ばれるア・カペラが歌われる場であった。ジョージは床屋をしながら音楽を続け、他のボーカル・グループからメンバーを引き抜き、クリスタルズ (the Crystals) のカルヴィン・サイモン、ベル・エアーズ (the Bel-Aires) のクレランス・"ファジー"・ハスキンス、デル・ラークス (the Del Larks) のレイ・"スティングレイ"・デイビスらをグループに加えた。この床屋には、後にPファンクメンバーに加わる、若い世代のビリー・ネルソンやバーニー・ウォーレルらも来ていたという。1962年までにパーラメンツのメンバーはジョージ、カルヴィン、ファジー、レイ、グラディ・トーマスの5人に固まった。また1964年、ジョージの床屋に来ていたフランキー・ボイス(ギター)とリチャード・ボイス(ベース)のボイス兄弟、ラングストン・ブース(ドラム)らを誘い、バックバンドを結成した。パーラメンツは、1959年初シングル曲『プア・ウィリー "Poor Willie" 』(B面『バーティー・ボーイズ "Party Boys" 』)をAPTレーベル(ABC-パラマウント)から発表したがまったくヒットせず、1963年モータウンレーベルと契約するが、5年間一枚もシングルを出せなかった。しかし、1967年レヴィロットレーベルから出した『(アイ・ウォナ)テスティファイ "(I Wanna) Testify" 』が全米R&Bチャート3位、ポップチャート20位のヒットとなり、続く『オール・ユア・グッドネス・ゴーン "All Your Goodness Gone" 』もR&Bチャート21位となった。突然彼らはアポロ・シアターでライブを行ったり、ツアーに出たりする身分となった。それまでバックバンドをしていたボイス兄弟らは他の活動のためにパーラメンツと活動をともにできなくなったため,1966年頃からバックバンドに加わるようになったビリー・ネルソン(ギター、後にベース)を正式メンバーとし、さらにエディ・ヘイゼル(ギター)、ティキ・フルウッド(ドラム)、ミッキー・アトキンソン(キーボード)をバックバンドに迎え入れた。ビリーはこのバックバンドをファンカデリックと名付けた。1968年、モータウンレーベルとレヴィロットレーベルとの間の契約上の問題から「パーラメンツ」の名前が使用できなくなってしまい、レコーディングがストップしてしまった。そこで、それまでのバックバンドを前面に出し、1968年「ファンカデリック "Funkadelic" 」の名でウェストバウンドレーベルと契約を結んだ。ファンカデリックの名は、ファンクとサイケデリックを合成してビリー・ネルソンが命名した名前である。ビリーやエディらは、ジョージらパーラメンツのメンバーよりも10歳程度若く、ビートルズ、スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン、ジミ・ヘンドリックス、ヴァニラ・ファッジといった、サイケデリック・ロック、ハードロックに影響を受けた世代であり、彼らの加入によりパーラメンツはそれまでのモータウン調のボーカルグループからサイケデリック・ハードロック・ファンクバンドに変容し、ジョージもこのバンドサウンドを前面に出したサウンド作りを行うことになった。1970年、ファンカデリックはデビュー・アルバム『ファンカデリック "Funkadelic" 』を発表、ブラックアルバムチャート10位を記録した。そしてメンバーにタウル・ロス(リズムギター)、バーニー・ウォーレル(キーボード)を迎え入れた。同年、2作目のアルバム『フリー・ユア・マインド "Free Your Mind...And Your Ass Will Follow" 』を発表し、ビルボードブラックアルバムチャート11位、ポップアルバムチャート92位を記録した。さらに1971年、3作目のアルバム『マゴット・ブレイン "Maggot Brain" 』を発表し、ブラックアルバムチャート14位、ポップアルバム108位を記録した。このアルバムのタイトル曲では、エディ・ヘイゼルの10分にも及ぶギターソロをフィーチャーし、エディのギタリストとしての評価も高まっていった。1970年パーラメンツの名称に関わるレコードレーベルとの係争が解決し、ジョージはホーランド=ドジャー=ホーランドがモータウンから独立して始めたインヴィクタスレーベルと、「パーラメント "Parliament" 」の名で契約した。1970年同レーベルからパーラメントとしてのファーストアルバム『オズミウム "Osmium" 』を発表し、このアルバムからの曲 "The Breakdown" はR&Bチャート31位を記録したが、ファンカデリックとしての活動の方が成功していたため、パーラメントとしての活動は休止していた。1971年、タウル・ロスが薬物過量摂取によりバンドを離れ、また1972年ビリー・ネルソンとエディ・ヘイゼルは、ジョージとの金銭トラブルからバンドを脱退した(エディはすぐに戻ってきた)。ジョージは代わるメンバーを探し、ジェームス・ブラウンのバックバンドだったブーツィー・コリンズ(ベース)とキャットフィッシュ・コリンズ(ギター)のコリンズ兄弟や、ユナイテッド・ソウルのゲイリー・シャイダー(ギター)とコーデル・モースン(ベース)をメンバーに迎え入れた。これらのメンバーにより土臭さが多少抜け、ファンク・ロック色を強めて若干洗練されたサウンドとなり、同年ファンカデリック4枚目の2枚組アルバム『アメリカ・イーツ・イッツ・ヤング "America Eats Its Young" 』を発表した。ブーツィーはこのアルバム以降数年ファンカデリックとは距離をおいたが、ファンカデリックはエディのギター、バーニーのキーボードを中心として活動を続けた。1974年エディを中心としたアルバム『スタンディング・オン・ザ・ヴァージ・オブ・ゲッティング・イット・オン "Standing on the Verge of Getting It On" 』を発表した後、エディは薬物不法所持等で懲役刑を受けたが、1975年当時17歳だったマイケル・ハンプトンがギタリストとして加入、エディの代役を果たした。ファンカデリックは1976年までに計8枚のアルバムをウェストバウンドレーベルに残した。ブーツィーは『アメリカ・イーツ・イッツ・ヤング "America Eats Its Young" 』ので数曲ベースを弾いたが、Pファンクメンバーの薬物使用の激しさについていけず、また、ブーツィーにとってはファンカデリックの音楽はロックより過ぎたため、一時彼らと距離をおいていた。1974年ブーツィーがPファンクに戻ってきて一緒にレコーディングを行ったが、ジョージはブーツィーがベースを弾き、バーニーがきっちりアレンジしたファンク色の強い曲を、パーラメントによるアルバムとして出すこととした。1974年カサブランカレーベルと契約し、パーラメント2枚目のアルバム『アップ・フォー・ザ・ダウン・ストローク "Up for the Down Stroke"』として発表、タイトル曲はR&Bチャート10位のヒットとなった。このときからメンバーはロック色の強い「ファンカデリック」とファンク色の強い「パーラメント」の二つの顔を持って同時に活動していくこととなった。1975年にはブーツィーがジェームス・ブラウンのバックバンドJBズのホーン陣、メイシオ・パーカー(サックス)、フレッド・ウェズリー(トロンボーン)らを連れて来て、パーラメントにジャジーなテイストをもたらした。また同年グレン・ゴインズ(ギター、ボーカル)、ジェローム・ブレイリー(ドラム)も加入した。同年パーラメント3枚目のアルバム『チョコレート・シティ "Chocolate City" 』を発表し、ブラックアルバムチャート20位、ポップアルバムチャート91位のヒットとなった。同タイトル曲は、ドラムマシンを導入し、ブーツィーのファズとオートワウをかけたベースが跳ねまわり、クールなホーン陣、バーニーのピアノがバックを固め、ユニゾンのコーラスの中をジョージがボーカル、というよりアジテーションを行うという、パーラメントの音楽スタイルの一つの形が完成した曲である。1976年パーラメントは『マザーシップ・コネクション "Mothership Connection" 』を発表。このアルバムは、ジョージ扮する聖なるエイリアン「スターチャイルド」が宇宙船に乗って、人類に聖なるファンクを伝道しに来た、という内容のコンセプトアルバムであり、ビルボードポップアルバムチャート13位、ブラックアルバムチャート4位のヒットを記録した。その後、パーラメントのアルバムはこのファンクの伝道師、スターチャイルドやドクター・ファンケンシュタインと、宿敵サー・ノウズの戦いの物語を中心としたコンセプトアルバムを作り、頂点を上り詰めていった。アルバムコンセプトについて詳しくは後述する。ブーツィー・コリンズはその派手で目立つ衣装とキャラクター、ベースサウンド、声を生かすため、1976年ブーツィーズ・ラバー・バンドを結成した。ブーツィーは星形のサングラス、星形のエレキベース(スペース・ベース)という奇抜な出で立ちでステージに立ち、またパーラメントほどシリアスではない、どちらかというと子供向けのコンセプト(例えばファンクで踊らないと鼻が伸びる『ピノキオ・セオリー "Pinocchio Theory" 』)で人気を博した。メイシオ・パーカー、フレッド・ウェズリーらは1977年ホーニー・ホーンズという名のインスト・グループを結成した。また1978年にはパーレット、ブライズ・オブ・ファンケンスタインといった女性ボーカルグループを誕生させ、数々のプロジェクトを同時進行させていった。1976年ファンカデリックはウェストバウンドレーベルからワーナー・ブラザーズ・レコードへ移籍。それまでヘヴィなギターサウンドを中心としたロックよりの音楽を展開していたファンカデリックは、パーラメントの成功によりシンセサイザーを中心とした洗練されたファンクサウンドに移行していった。1978年には元オハイオ・プレイヤーズのジュニー・モリソンがPファンクに加入し、ジュニーが活躍したファンカデリック『ワン・ネイション・アンダー・ア・グルーヴ "One Nation Under A Groove" 』、パーラメント『モーター・ブーティー・アフェアー "Motor Booty Affair" 』はそれぞれプラチナアルバム、ゴールド・ディスクとなった。ジュニーの活躍した翌1979年発表のファンカデリック『アンクル・ジャム・ウォンツ・ユー "Uncle Jam Wants You" 』収録のシングル曲『ニー・ディープ "(Not Just) Knee Deep" 』も全米1位ヒットとなった。しかしPファンクの全盛期もここまでであった。ディスコブームに押され、またメンバーとジョージとの間に金銭トラブル等により軋轢が生じ、求心力を失っていった。1980年パーラメントの、1981年ファンカデリックのラストアルバムを発表し、パーラメント、ファンカデリックとしての活動は終了した。1982年、ジョージはソロ・アルバム『コンピューター・ゲームス』を発表、翌年「Pファンク・オール・スターズ」名義アルバムを発表し、ブーツィーもソロ・アルバムをいくつか発表した。しかしPファンクの勢いが盛り返すことはなかった。レイ・デイヴィスはザップへ加入、バーニーはトーキング・ヘッズに参加したり、セッション・キーボーディストとして活躍し、メイシオはジェームス・ブラウンの元へ戻ったりと、Pファンクは分解を続けた。しかし、1989年デ・ラ・ソウルはファンカデリックの『ニー・ディープ "(Not Just) Knee Deep" 』をサンプリングした『ミー・マイセルフ・アンド・アイ "Me Myself and I" 』をヒットさせ、その後もレッド・マン、スヌープ・ドッグ、ドクター・ドレー、レッド・ホット・チリ・ペッパーズなどPファンクを聞いて育った世代が次々とPファンク・サウンドを使用してヒット曲を作り、再評価の動きが高まっていった。Pファンクはヒップホップその他に今日でも多大な影響を与えつづけ、熱狂的な支持者を持ち続けており、またジョージ、ブーツィー、バーニーをはじめとして主要メンバーは2006年現在も活躍中である。

出典:wikipedia

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