LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

バカヤロー解散

バカヤロー解散(バカヤローかいさん)は、1953年3月14日の衆議院解散の俗称である。この解散に伴って第26回衆議院議員総選挙が行われた。1953年2月28日の衆議院予算委員会で、吉田茂首相と社会党右派の西村栄一議員との質疑応答中、吉田が西村に対して「バカヤロー」と発言したことがきっかけとなって衆議院が解散されたため、こう呼ばれる。「バカヤロー」と書くと大声を出したような印象を与えるが、吉田は席に着きつつ非常に小さな声で「ばかやろう」と呟いたのみで、それを偶然マイクが拾い、気づいた西村が聞き咎めたために騒ぎが大きくなったというのが実態である。問題となった、吉田と西村の質疑応答の内容。委員会では「委員長」と挙手して委員長に発言許可を求め、「**君」「内閣総理大臣」と指名されてから発言するので、丁々発止の遣り取りがあったわけではない。直後に吉田は発言を取り消し、西村もそれを了承したものの、この失言を議会軽視の表れとした社会党右派は、吉田を「議員としての懲罰事犯」に該当するとして懲罰委員会に付託するための動議を提出(この背景には鳩山一郎・三木武吉ら自由党非主流派の画策があったといわれる)。3月2日に行われた採決に際しては、自由党非主流派ばかりか野党の改進党で吉田側と協調姿勢を見せていた大麻唯男らの一派が欠席したことで動議の可決は微妙と見られていたが、主流派と見られていた広川弘禅農相らの一派も欠席(この欠席を理由に広川は農相を罷免された)したため懲罰委員会への付託動議は可決された(その後、懲罰委員会は開かれたものの、委員会としての決議は出ぬまま衆院解散により廃案となったため、本会議場における懲罰は科されていない)。さらに追い討ちをかけるように内閣不信任決議案が提出され、先の懲罰事犯の委員会付託動議採決で欠席した自由党鳩山派30余名が脱党し不信任案に賛成したために3月14日にこれも可決。これを受けて吉田は衆議院を解散し、4月19日に第26回衆議院議員総選挙が行われることになった。さすがの吉田も発言当初は「つい言ってしまったのがマイクに入った」としょげ返っていたが、数日後には元気を取り戻し、会合で「これからもちょいちょい失言するかもしれないので、よろしく」と余裕しゃくしゃくのスピーチを行っている。また、広川の裏切りについては「坊主は三代祟る」(広川は僧籍を持っている)とイギリス仕込みのユーモリストである吉田らしい表現で皮肉っている。吉田と西村の関係は以前からしっくりいっていなかった。第二次世界大戦中、吉田は親英派として軍部に睨まれ、一時憲兵に身柄を拘束される憂き目にも遭っていた。逆に西村は軍人との繋がりがあり、戦時中かなり力が強かった。その様なやっかみも手伝って、吉田は西村に好感情を抱いていなかった。これが「バカヤロー発言」の一因とする見方がある。このときの新聞記事では、2人の興奮したやり取りの後場内は鎮まり返り、そんな中、岡崎勝男外相に何事かを囁かれた吉田は「ニヤリと笑って立ち上がり丁重に取り消す」とある。このことから、吉田の心中は「緊張のための照れ笑いといい過ぎたとの思いが交錯」した複雑な心境であったことがうかがわれる。解散後の総選挙では吉田の率いる自由党は大敗、かろうじて政権を維持したものの少数与党に転落し吉田の影響力は急速に衰えていった。これが吉田退陣につながる。晩年吉田はその回想録の中で「取るに足らない言葉尻をとらえて」不信任案に同調した与党の仲間を「裏切り」と糾弾し、「当時起こった多くの奇怪事」で最大のもので「忘れる事が出来ない」と述べている。上記のように、吉田が発言を取り消したため、議事録の中では、西村と吉田が発言した「無礼」と「バカヤロー」という単語は――および―――――で伏せられており、現在の議事録で全てを確認することはできない。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。