LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

巣鴨拘置所

巣鴨プリズン(すがもプリズン、)は、第二次世界大戦後に設置された戦争犯罪人(戦犯)の収容施設である。東京都豊島区西巣鴨(現:豊島区東池袋)の東京拘置所施設を接収し、使用した。「巣鴨拘置所」などと呼ばれたこともある。極東国際軍事裁判により死刑判決を受けた東條英機ら7名の死刑が執行(1948年12月23日)されたことでも知られる。かつてこの地には巣鴨監獄・巣鴨刑務所(1922年改称)があった。関東大震災(1923年)で被害を受けた巣鴨刑務所は東京府府中に移転することになり、1935年に移転。その跡地に庁舎が新築され、1937年、未決囚を主に収容する市谷刑務所が移転し、普通刑務所と区別するため「東京拘置所」と改称された。なお、敷地は巣鴨刑務所時代の約3分の1に縮小された。敷地の北西には処刑場があり、第二次世界大戦中の1944年には、ゾルゲ事件の主犯とされるリヒャルト・ゾルゲおよび尾崎秀実の死刑が執行された。彼らのほか、当時の同拘置所には主として共産主義者等のいわゆる思想犯や、反戦運動に関わった宗教家等が拘置されていた。第二次大戦後にはGHQによって接収されて、スガモプリズンと呼ばれ、戦争犯罪容疑者が多数収容された。処刑場入口の13号鉄扉を通ってBC級戦犯52名が処刑された。アメリカ合衆国軍は情報戦の一つとして、監房に盗聴装置を設置し、戦犯たちの会話を盗聴していた事が後年明かされている。1947年2月、既決囚の労働が本格化し、A級戦犯・60歳以上の高齢者・病人以外は全て就労を命じられた。プリズン周辺の道路整備や運動場、農園、兵舎・将校用宿舎建設等の重労働を命じられ、午前と午後に1回ずつある5分の休憩と昼食時の休憩時にしか休めない。私物は一切禁止で、全て制服着用で行わなければならない。長い拘禁生活と裁判の疲労で、体力の落ちた戦犯たちには重労働で「こんなことならいっそ死んでしまえばよかった」との声もあった。この重労働が2年続き、完成に至ると、戦犯たちは信頼を勝ち取り、減刑などの恩恵を受けた。新聞・雑誌・本などの閲覧、上野図書館からの借り出しも許可された。ラジオも定期聴取でき、映画も週に1回鑑賞できた。1948年12月23日には、極東国際軍事裁判により死刑判決を受けた東條英機ら7名のA級戦犯の死刑も執行された。1949年から始まった朝鮮戦争で、米兵が出兵するため、1950年8月、日本人刑務官が着任した(米軍の監理下で警備にあたった)。なお、最も収容者数が多かったのは1950年1月時点で、1862人の戦犯が収容されていた。1952年4月、平和条約の発効により日本に移管され、引き続き戦犯を収容していた。以後、正式には「巣鴨刑務所」となったが、一般に「巣鴨プリズン」と呼ばれた。1958年5月、最後の戦犯18名が釈放され、巣鴨刑務所は閉鎖。東京拘置所が巣鴨に復元された。1948年6月5日に創刊された獄中紙。巣鴨プリズンの労務担当だったビンセント中尉が新聞の発行を提案し、各階で1人ずつ選ばれ、15人が担当することになった。当時のスガモには、英語をはじめとする外国語の堪能な人物が多かったことから、新聞は随時翻訳された。編集方針は「主義主張は特に無いが、民主主義を根本とし、左右いずれにも偏せず」とあり、占領政策批判・死刑囚・A級戦犯には抵触しないという条件だった。1952年3月29日までに全193号が発刊され、その紙面は翻訳班の手で英訳した上で、発行前に検閲を受け、GHQやアメリカの国務省にも送付された。発行日は原則として土曜日だった。また、秋季運動会にて韓国旗などを揚げたことをクローズアップするなどして、朝鮮戦争で心を痛める朝鮮人や台湾人戦犯の葛藤を分かち合えた場ともいえる。巣鴨プリズンが日本へ移管された後には、『すがも』が1952年11月1日に活版で創刊されたが、10号で休刊となった。1971年に東京拘置所が移転した後、跡地はサンシャインシティとして再開発された。処刑場周辺は豊島区立東池袋中央公園となり、慰霊碑「平和の碑」が建立されている。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。