スティーブン・ダグラス・"スティーブ"・カー(Stephen Douglas "Steve" Kerr、1965年9月27日 - )は、アメリカ合衆国の元プロバスケットボール選手。NBA のゴールデンステート・ウォリアーズのヘッドコーチを務めている。レバノンの首都ベイルートの出身。アリゾナ大学から1988年のNBAドラフトでフェニックス・サンズに指名され、クリーブランド・キャバリアーズにトレード。キャブスで3年間を過ごした後、オーランド・マジックへトレードされた。1年後の1993年に、フィル・ジャクソン率いるシカゴ・ブルズに移籍した。当時のブルズは、マイケル・ジョーダン、スコッティ・ピッペンなどの活躍で最盛期を迎えており、その中でカーは控えのガードとして活躍した。決して身体能力が優れているとは言えないカーの武器は、試合の要所で見せる3ポイントシュートであった。土壇場ほどキレを増す長距離砲は、チームを何度となく勝利へ導いた。特に96-97シーズンのNBAファイナル第6戦。優勝に王手をかけたブルズはユタ・ジャズを相手に試合の最終盤まで同点。残り3秒でマイケル・ジョーダンからパスを受け、優勝を決定づけるシュートを沈めたシーンはカーのハイライトである。ブルズにはジョーダンが引退するまで在籍し、2度目の3連覇に貢献した選手として歴史に名を刻んだ。1999年1月、チャック・パーソンと交換でサンアントニオ・スパーズに移籍し、ボストン・セルティックスに在籍した選手以外では唯一4年連続で優勝を経験した選手となった。その後、ポートランド・トレイルブレイザーズを経て、2002-03シーズンはスパーズに復帰した。プレイオフに入っても出場機会は少なかったが、カンファレンス決勝のダラス・マーベリックス戦第6戦終盤に、放った4本の3ポイントを全て沈めNBAファイナル進出に貢献すると、ファイナルのニュージャージー・ネッツ戦第5戦、残り3分2点差を追う状況で、ケニオン・マーティンからのスティールや、ダブルチームされたティム・ダンカンからパスを受け値千金の3ポイントを沈めるなど、大舞台での勝負強さを再び発揮した。試合後のインタビューでカーは、「僕はこの時のために "冷凍保存" されていたんだ」と、レギュラーシーズンでは出場時間が少なかったことを引き合いにして勝ち誇った。そしてスパーズ2度目の優勝に貢献し自身5度のNBA優勝経験をした。このファイナル終了後に引退し、アメリカのケーブルテレビ局ターナー・ネットワーク・テレビジョン(TNT)で現場解説者を務め、"Steve Wonders..."というコーナーを持っていた。2007年のプレイオフでTNTの解説者を終えると、フェニックス・サンズの球団社長兼ゼネラル・マネージャーに就任し、2008年1月には、ショーン・マリオンをマイアミ・ヒートに放出してシャキール・オニールを獲得した。生涯通算3ポイントフィールドゴール成功率(.454)、シーズン3ポイントフィールドゴール成功率(.524 1994-95シーズン)は共にNBA歴代1位の成績である。(ただし1994年から97年までの3シーズンはの3Pラインは現在のラインよりも約55cm近くに変更されていた時期である。)1997年のオールスターウィークエンドのスリーポイント・シュートアウトで優勝している。2014年5月14日、カーはニューヨーク・ニックスのオファーを断り、ゴールデンステート・ウォリアーズと5年2500万ドル契約でヘッドコーチに就任が決定した。カーは前任者のマーク・ジャクソンの路線を上手く引き継ぎ、チームをリーグ上位に導く手腕を披露する。また新人コーチながら、2015年NBAオールスターゲームのチームウェストのヘッドコーチに選出され、イーストのマイク・ビューデンホルツァーヘッドコーチとの対戦となった。新人コーチが選ばれたのは、1998年のインディアナ・ペイサーズのラリー・バード以来である。結局レギュラーシーズンは67勝15敗で終了、新人ヘッドコーチとしては最高勝率を記録しNBAファイナルまで導いた。そしてクリーブランド・キャバリアーズとの対戦となったファイナルも4勝2敗で見事にウォリアーズを40年振りのチャンピオンに導いた。2015-16シーズンは、背中の手術の為に開幕から休養を強いられていたがルーク・ウォルトンアシスタントコーチがチームを纏め、39勝4敗で迎えた2016年1月22日のインディアナ・ペイサーズ戦でコーチ職に復帰。122-110で勝利に導き、見事に復帰戦を飾った。カーの現場復帰でウォリアーズは更に勢いが付き、最終的にはカーが現役時代シカゴ・ブルズで1995-1996シーズンに経験したシーズン "72勝10敗" を上回る "73勝9敗" というNBAシーズン新記録の金字塔を打ち立てた。その功績が大きく評価され、同シーズンのNBA最優秀コーチ賞を受賞した。カーは他のNBA選手とは一味違った人生を送ってきた。彼が本格的にバスケットボールを始めたのはエジプトの高校からである。カーの父親マルコム・カーは中東を専門とした研究者であり、スティーブはレバノンのベイルートで生まれた。その後中東の国々を転々とし、エジプトからアメリカの高校へ編入することとなる。その後アリゾナ大学に入学し、バスケットボールに専念し始めた矢先の1984年1月、父マルコムがイスラム過激派により殺害されるという事件が起こる。うちひしがれるカーを励まし、応援し続けたのはやはりイスラム教徒の友人達だった。それ故カーは、イスラム教徒に対して強い思い入れを持っている。2001年の同時多発テロの際には、「多くの善良なムスリムと一部のテロリストは区別しなければならない」とアメリカ国民に冷静な対応を呼びかけた。ショーン・エリオットとはアリゾナ大学時代からの親友であり、エリオットが腎臓移植の相談をしていたのは、家族以外ではカーだけである。アリゾナ大学時代に付けていた背番号25は、大学の永久欠番になった。
出典:wikipedia
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