ピーター・ゲシン(Peter Gethin, 1940年2月21日 - 2011年12月5日 )は、イギリスのレーシングカー・ドライバーで、F1において1勝を挙げている。ヨーロッパF5000では2度の年間チャンピオンになっている。1940年2月21日、サリーにて出生。父は競馬騎手であった。1965年から1968年まで、F3にロータス・ブラバム・シェブロンから出場、非選手権扱いのレースを含めて4年で9勝を記録した。1969年から1970年まではF1車両と混走されることもあったF5000に出場した。1969年はヨーロッパF5000イギリスGPを含めて4度の優勝で年間チャンピオンになった。この年はアメリカF5000でも参戦し、1勝を挙げた。1970年には年間最多勝の8勝を記録し、2シーズン連続でヨーロッパF5000チャンピオンになった。1970年、マクラーレンの創設者、ブルース・マクラーレンがテスト中の事故で死亡すると、チームはブルース・マクラーレンの後釜として、同チームからF5000に出場していたゲシンを指名した。1970年の第5戦オランダGPでゲシンはF1にデビューすると、第8戦からはレギュラードライバーとして出走し、第11戦のカナダGPで6位に入賞し、1ポイントを獲得した。また、前述の通り、同年のヨーロッパF5000では年間チャンピオンになった。翌1971年もマクラーレンからエントリーしたが、ゲシンもチームも成績は全く振るわず、第8戦オーストリアGPからBRMへ移籍した。第9戦イタリアGPでゲシンは初優勝を果たした。このレースは、スリップストリームの応酬で26回もラップリーダーが入れ替わり、ゴール時には0.61秒差で5台がゴールに雪崩れ込むという混戦だったが、ゲシンはこれを制した。優勝平均速度242.616km/hは当時の新記録で、以後32年間にわたり破られることはなかった。2位とのタイム差は0.01秒で、しばしばF1史上1位と2位が最も僅差のレースとして挙げられる。ただしこのレースのタイム計測は1/100秒単位であり、実際のタイム差は1/1000秒単位で計測された1986年スペインGP(0.014秒差)、2002年アメリカGP(0.011秒差)のほうが接近していた可能性がある。1972年もBRMからフル参戦するが、年間で6位入賞が1回のみと極端に成績が振るわず、年末にシートを失った。同年ヨーロッパF2にも参戦、そのうち1戦で優勝した。その後はヨーロッパF5000に戻り活躍する傍ら、1973年の第14戦カナダGPと1974年の第10戦イギリスGPにスポット参戦するものの、共にリタイヤに終わった。ゲシンのF1参戦はこのレースが最後となった。F5000へ戻り、1975年までヨーロッパF5000に参戦した。F5000での生涯成績は通算21勝、2度の年間チャンピオンを獲得だった。現役引退後はドライバーのマネジメント業を行った。2011年12月6日、長い闘病の末に永眠。
出典:wikipedia
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