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紫波郡

紫波郡(しわぐん)は、岩手県の郡。令制国下では陸奥国(のち陸中国)に属す。以下の2町を含む。盛岡都市圏の南部に位置し、人口は増加傾向にある。明治11年(1878年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町に盛岡市の一部(上飯岡、下飯岡、飯岡新田、津志田、津志田西、津志田町、三本柳、東見前以南)を加えた区域にあたる。鎌倉時代足利家氏が斯波郡を所領としたという。興国2年/暦応4年(1341年)陸奥の南朝南部氏などが岩手・斯波二郡を平げ、葛西氏等と連合して国府を攻めようとした。斯波家兼が奥州に入部し四管領並立を制すると、同族の高水寺斯波氏が南朝側河村氏を次第に圧迫し、応永3年(1396年)河村秀基はその傘下に下ったという。16世紀半ばに高水寺斯波氏は隆盛を極めるが、のちに南部氏の圧力により逼迫を余儀なくされた。天正年間に高水寺斯波氏の斯波詮直(最後の斯波御所)が北上川遊覧の折、川底の赤石に陽が射し、紫色に輝く川波を瑞兆として「けふよりは 紫波と名づけん この川の 石にうつ波 紫に似て」と詠み、古代以来「斯波郡」と書いていたものを「紫波郡」に改めたという。また、元来の名は志賀理和気神社(全国最北の式内社)から「志和」と書かれた、という説がある。(この赤石を御神石として引き上げ祀ったので、この神社は後世「赤石神社」とも呼ばれている。)奥六郡最北となる「岩手郡」の建郡以前に志波城が置かれ、後にこの地が岩手郡となったように、「岩手郡」も元は「志波(斯波・志和)郡」である。斯波氏の旧居城であった高水寺城は天正19年に郡山城と改称され、ほぼ同じ頃に郡名も改められた。江戸初期において当郡全域が盛岡藩の米穀供給地とされたため、北上川西岸の新田開発が盛んに行われた。八戸藩分立によって、寛文5年(1665年)土館村、稲藤村、片寄村、平沢村の一部(上平沢村)の4村が、飛地領として編成され、同藩紫波通に属し、単に志和とも書かれていた。幕末時点では陸奥国に所属した。『旧高旧領取調帳』に記載されている明治初年時点の支配は以下の通り。(75村)

出典:wikipedia

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