三澤 興一(みさわ こういち、1974年6月8日 - )は、埼玉県入間郡大井町(現:ふじみ野市)出身の元プロ野球選手(投手)。現在は読売ジャイアンツのスコアラーを務める。帝京高校では1991年春夏、1992年春夏の4期連続甲子園出場を果たす。高校通算29本塁打を記録するなど3年時はエースで4番だった。1992年の第64回選抜大会では4連投の末、決勝戦で東海大相模高校を3-2で破り、優勝を果たす。同年の第74回全国選手権では1回戦で尽誠学園高校に0-1で敗れ、春夏連覇の夢を絶たれる。早稲田大学では1年生の春から登板し、織田淳哉の後を継いでエースとして活躍する。リーグ通算65試合登板31勝16敗、防御率2.10、402奪三振。1995年春季と1996年春季の2回ベストナインに選ばれる。東京六大学野球での奪三振数は、和田毅、江川卓に次いで第3位を誇る。のアトランタオリンピックでは日本代表に選ばれ、大学生にもかかわらず、初戦のオランダ戦に先発し勝利を挙げるなど3試合に先発、1試合リリーフの合計4試合登板し、銀メダル獲得に貢献する。1996年度ドラフト会議にて読売ジャイアンツから3位指名を受けて入団。一年目から先発・中継ぎ・抑えと全てのポジションを担う便利屋的な働きをしながら、には巨人の日本一に貢献している。途中、玉峰伸典と共に田畑一也、真木将樹との交換トレードで大阪近鉄バファローズへ移籍。移籍してからは主にビハインドの場面で登板、ゲームを立て直して打線の奮起を促し逆転を呼び込むことが多く、7連勝する活躍でこの年の近鉄のリーグ優勝に大きく貢献する。その後も中継ぎの一角として活躍。に当時の堀内恒夫新監督たっての希望により、根市寛貴+金銭のトレードで巨人に復帰する。3勝したものの怪我もあり15試合の登板にとどまり、オフに戦力外通告を受ける。その後のトライアウトでヤクルトスワローズに合格したが、シーズン前のオフに右ふくらはぎ肉離れに見舞われ大きく出遅れ、10月にずれ込んだシーズン一軍初登板では1回6失点など過去最低の成績に終わる。は一軍登板がなく、再び戦力外通告を受け退団。2度のトライアウトを経て中日ドラゴンズに合格する。2007年も一軍登板はなく、10月に3度目の戦力外通告を受ける。その直後のトライアウトには2回共参加しなかった。からは、メジャーリーグに挑戦するため、アメリカで活動した。入団テストを兼ねシカゴ・ホワイトソックスのマイナー・キャンプに参加したものの、キャンプ途中で解雇された。その後、同年6月にアメリカ独立リーグ・ノーザンリーグのゲーリー・サウスショア・レイルキャッツと契約。29試合に登板し7勝1敗6セーブ、防御率1.69、54奪三振の成績で、チームはプレーオフに進出し、プレーオフでも救援で好投し実力を十分に発揮した。冬期も、ドミニカとベネズエラのウィンターリーグにも出場して投球を続け、1年間を通じて故障もなくプレーした。その後、アメリカ・ロサンゼルス郊外のコンプトン市内の大学内に、無料で野球育成プログラムを提供する施設アーバン・ユース・アカデミーでメジャー球団との契約を目指して自主トレを続けていた。竹岡和宏とは共に自主トレをしていた。2009年5月19日にアメリカ独立リーグ・ゴールデンベースボールリーグのロングビーチ・アーマダと契約。伊良部秀輝と同僚となった。2010年4月に現役を引退。同年6月には巨人のスコアラーになった。松井秀喜と親友で、高校時代はいたる所で会っていたという。2年時の明治神宮大会決勝戦で松井の星稜と戦った際には、松井相手に4四球(内2つは敬遠)をするも、他の打者に打たれたため8-13で敗れて準優勝となる。3年時の第74回選手権大会では『対戦するなら決勝でやりたいね』とお互い語り合っていたという。自分たちの夢は叶わなかったが、3年後の第77回選手権大会にてお互いの母校が決勝で対戦することになった。日曜日の朝の情報系番組『ザ・サンデー』において、質実剛健キャラの石井浩郎や川上憲伸に対抗し、ゆるキャラの「前略・三沢興一です」のコーナーがあった(そのテーマ曲も「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」をコミカルにアレンジした曲だった)。このコーナーは近鉄移籍初期まで放送された。
出典:wikipedia
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