六郷 政速(ろくごう まさちか)は、出羽本荘藩の第7代藩主。明和元年(1764年)、第6代藩主・政林の三男として生まれる。父政林は、はじめは第5代藩主・政長の長男である政展を養嗣子としていた。しかし安永5年(1776年)3月18日に政展が早世した。次いで、政速の兄政聲を嫡子としたものの、早世したため、天明元年(1781年)12月11日に政速が嫡子となる。天明2年(1782年)7月1日、将軍徳川家治に拝謁した。天明3年(1783年)12月18日、従五位下佐渡守に叙任する。天明5年3月10日、父政林の隠居により、家督を相続した。同年4月19日、お国入りの許可を得る。しかしその治世中、城下町の火事や大地震に見舞われ、また名主の不正から大規模な百姓一揆「万沢騒動」が起こった。事後処理で不正や失態があり、さらに混乱を招き、市街地では問屋同士の紛争が起こるなど、その藩政においては多難を極めた。地震後の文化3年(1806年)には、領内の商人52人から総額1700両余を借金している。これは後述の開拓費用に充てたとも伝わる。一方で、天明期に藩士の教育のため、城内三の丸に藩校・修身館を創設している。文化9年(1812年)10月26日、49歳で死去した。長男・政芳は文化7年(1810年)に廃嫡されており、跡を三男・政純が継いだ。松尾芭蕉が『奥の細道』でも訪れた「遠浅の海に小島が浮かぶ」九十九島・八十八潟の景勝地・本荘藩領の象潟はしかし、前述の鳥海大地震(象潟地震)により隆起し、「広々とした陸地に小山が点在する」風景となってしまった。それまでは景勝地として大事にし、島守という役人を置くなどしていた本荘藩ではあったが、藩はこれを逆転の発想で好機と捉えた。つまり、未開拓の広大な平原が出現したわけである。資金を集めた藩は地震より数年後から、干拓農地化事業に着手する。当初は小山(元・島)を全て潰し、その残土や刈り出した松の木を使って広大な農地を開発する予定であったが、地元の名刹・蚶満寺住職の覚林が景勝地の開拓に反対運動を始めた。藩が自分の主張を受け入れないとみた覚林は京に赴き、閑院宮家を動かし、蚶満寺を祈祷所としてもらい、朝廷の権威を背景に反対運動を展開した。これにより藩は、蚶満寺や覚林に公然と手出しができなくなった。新田開発を進めたい藩は、江戸に出ていた覚林を捕縛、僧侶ではなく俗名勘助という名目で獄中の人とし、覚林は獄死した。これにより藩の開拓事業は進行するが、小山の主だったものは残された。覚林の祟りを恐れたとも、単に金銭や手間上の都合とも言われているが、とにかく今日の「田園風景の中に島のように小山が点在する」名勝・象潟が残った。
出典:wikipedia
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