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矢口洪一

矢口 洪一(やぐち こういち、1920年(大正9年)2月20日 - 2006年(平成18年)7月25日)は、日本の裁判官。第11代最高裁判所長官を務めた。父の矢口家治も裁判官。裁判官生活の3分の2を法服ではなく背広姿で過ごした人は、矢口以外にはなく、その守備範囲は広い。事務総長をはじめ、総務・人事・行政・民事・経理と7局のうち、5局までを経験した。普通は、この中の1局でも担当すれば、最高裁行政の専門家として重きをなすのだが、矢口の場合は想像を超える最高裁の表裏のすべてに通じていた。そのため、「ミスター司法行政」の異名を取った。熊本水俣病(チッソ)、新潟水俣病(昭和電工)、イタイイタイ病(三井金属鉱業)、四日市ぜんそく(昭和四日市石油・三菱化成(現:三菱化学・三菱樹脂・三菱モンサント・中部電力・石原産業)の四大公害訴訟のときは、民事局長として、被害者の立証の難しさを緩和する理論を提唱し、早期解決に尽力した。1988年、竹崎博允判事(当時46歳)を、1989年には山室惠判事(当時42歳)をアメリカ合衆国に派遣、1990年、白木勇判事(当時45歳)をイギリスに派遣し、陪審制及び参審制の調査を行った。しかし、陪審・参審制度の導入を既定の方針とするのではなく、「究極において司法制度のあり方を決めるのは国民」という立場から、あくまで長期的な検討課題の一つとして位置づけた。この他、弁護士任官制度の整備、裁判傍聴人メモ解禁(法廷メモ訴訟)、法廷内撮影部分緩和など、国民と司法の距離を縮める必要性、裁判を法曹の専売特許にしてはいけないという思いから、様々な改革を行った。また、簡裁・地家裁支部の統廃合を推進した。1990年2月に矢口が定年を迎えるときに、後任の最高裁判所長官としては、最高裁判所の経理局長を務め、最高裁判所の新庁舎を建て、最高裁判所判事として4年3か月のキャリアを持つ大内恒夫が有力と見られていた。しかし、矢口が選んだのは、最高裁判事15人の中で2番目に若い草場良八であり、当時、「13人飛び抜き人事」といわれた。死後、従二位に昇叙された(生前の位階は海軍法務大尉時代の正七位)。

出典:wikipedia

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