フェデリコ・テシオ(Federico Tesio、1869年1月17日 - 1954年5月1日)はイタリアの馬産家、馬主、調教師、上院議員である。当時競馬が始まったばかりのイタリアで、しかも年間僅か10数頭程度の生産馬からリボー、ネアルコ等の世界的名馬を生産した。異名は「ドルメロの魔術師」(Il mago di dormello、イル・マーゴ・ディ・ドルメッロ)。幼少の頃に両親を亡くし、モンカリエリで13年間学んだ後、騎兵隊の少尉として軍役を終えている。その後両親の遺産を受け継ぐと、ギャンブルにおぼれたり、絵を描いてみたり、アマチュア騎手をしてみたりと放蕩生活を送っていた。遊びほうけていたテシオの転機は、妻リディア・テシオ(Lydia Flori di Serramezzana、リディア・フィオーリ・ディ・セッラメッツァーナ)との結婚である。1898年ミラノ北部マッジョーレ湖の近くにドルメロ牧場という小さな牧場を開いた。このときテシオ29歳であった。その後数々の名馬を生産しヨーロッパの競馬界で一時代を築く。イタリア国内ではほぼ無敵だったが、唯一のライバルにジュゼッペ・デル・モンテル(Giuseppe del Montel)がいた。モンテルは豊富な資金力を背景に各国から良血馬を次々に導入し、獲得賞金ベースではテシオを上回っていた。また、1929年にテシオに先んじてオルテッロで凱旋門賞を制覇している。これに触発されたのかマリオ・インチーサ・デッラ・ロケッタ(Mario Incisa della Rocchetta)侯爵のオルジアタ牧場と提携し規模を拡大。冬の間は温暖なオルジアタ牧場に本拠地を移すなど柔軟な経営を可能とし、その後はドナテッロ、ネアルコ等を生産した。テシオは画家でもあり、自身の生産馬の絵画を何点か残している。生産馬には画家を初めとした美術家の名前を付けることが多く、初期にはミケランジェロ等の巨匠の名を付けたものの、晩年になるとさすがにネタが尽きたのか、リボーはかなり無名の画家である。テシオの配合方針はかなり複雑で、著書「サラブレッドの生産」にまとめられている。他の大馬産家とは違い自身が生産した名馬をあまり自分では使わず、常に新しい血を求めていた。このため長期にわたって成功を収めることができたという意見もある。ただし例外もおり、リボーなどはカヴァリエーレ・ダルピーノからリボーまで一貫してテシオが生産、母もテシオの生産である。自身の最高傑作は生前カヴァリエーレ・ダルピーノと周囲に語っていた。ネアルコは真のステイヤーではないとテシオ自身の評価は低く、また悲願であった凱旋門賞を制覇したリボーの競走は、自身が1954年に死亡したため見ることはなかった。テシオの死後もドルメロ牧場は継続され、マルゲリートヴェルノー、ホガース等の名馬を輩出したが、1985年のティスランを最後の名馬として1992年に閉鎖された。他イタリアクラシックホース数十頭。
出典:wikipedia
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