氷川丸(ひかわまる)は、日本郵船が1930年(昭和5年)に竣工させた日本の12,000t級貨客船。北太平洋航路で長らく運航された。2016年時点では、横浜市で博物館船として公開されている。国の重要文化財(歴史資料)に指定されている。「氷川丸」は、横浜船渠(現三菱重工業横浜製作所)で建造された1万トン級貨客船であり、太平洋戦争では病院船として運用された。戦後は1960年(昭和35年)まで北太平洋航路で運航を続けた。運航終了後は横浜市の山下公園前(横浜港)に係留されている。戦前より唯一現存する日本の貨客船であり、船内のインテリアなども含めて貴重な産業遺産であるため、2003年(平成15年)には横浜市の有形文化財の指定を受け、2016年8月に国の重要文化財(歴史資料)に指定された。本船(氷川丸)の船名は、大宮氷川神社に由来する。ブリッジの神棚には氷川神社の祭神が勧請され、保存船となった後も氷川神社を祀っている。姉妹船には2隻(日枝丸、平安丸)があり、「日枝丸」は東京千代田区日枝神社を、「平安丸」は平安神宮を祀った。なお本級3隻は頭文字『H』で統一されている。日本郵船は昭和初期、北太平洋で展開されたアメリカやカナダとの貨客船就航(路線)競争の一環として、明治末期から大正初期に建造された天洋丸級をはじめとする老朽船に代わる、新型貨客船を必要としていた。北米サンフランシスコ航路を強化するため、日本郵船は浅間丸型貨客船3隻(浅間丸《1929年9月15日》、龍田丸《1930年3月15日竣工》、秩父丸《1930年3月10日竣工。後に改名し鎌倉丸》)を発注した。続いて日本郵船は1927年(昭和2年)には欧州航路2隻、南米航路1隻、北米シアトル航路用3隻を建造することになり、「秩父丸」を建造中の横浜船渠は北米シアトル航路用2隻を受注した。これが本船(氷川丸)と「日枝丸」である。「平安丸」は大阪鉄工所に発注された。本船の横浜船渠建造番号は「S177」。太平洋(外洋)での航海に堪えるため、外板の厚さは15mm、船窓も丸窓を採用した。船級はロイド船級協会最高クラスを取得している。主機関は、「秩父丸」と同様にデンマークのバーマイスター&ウェイン(B&W社。現在はドイツのMAN社と合併)製複動式ディーゼル機関2基搭載2軸推進とした。主発電機にはB&W社設計のライセンスによる池貝鉄工所製450馬力4サイクル ディーゼル機関駆動の直流225V 出力325kW 3台を搭載し、ウインドラスやウインチ、各種ポンプ類の動力に直流電動機を用いて騒音振動を軽減した。竣工時の一等客室は76名(貴賓用特別室を含む)、二等69名、3等138名、合計283名。翌年には三等客室を48人増やして計331名となった。船内各部の装飾は、諸外国・日本国内の建築家やインテリア・デザイナー間でコンペティションを行った結果、フランスのマーク・シモン社が担当することになった。1933年からの発効が既に決定されていた海上人命安全のための国際条約(SOLAS)の基準を先取りした水密区画構造を採用、アール・デコ()様式のインテリア、オーシャンライナーという船型、そして日本郵船の擁する一流シェフによる料理などのサービス提供など、構造、サービスとも当時の先端をいく良質な船として建造された。「氷川丸」は1928年(昭和3年)11月9日に起工、1929年(昭和4年)9月30日に進水、1930年(昭和5年)4月25日に竣工した。1930年(昭和5年)5月9日、「氷川丸」は横浜港から神戸へ出港。13日に神戸港出港後、14日四日市、15日清水、16日横浜と航海。5月17日、シアトルへの処女航海に向かった。5月27日、シアトル着。排日移民法の締結などアメリカにおける反日感情は強くなっていたが、シアトルでは3万人近い見学者が「氷川丸」を訪れた。6月29日に横浜に帰国、神戸を経由して7月6日に門司に入港した。門司港でも岸壁を整備したばかりであり、「氷川丸」は接岸第1船となった。その後、氷川丸のサービスの良さが評判を呼び、著名人を含む多くの賓客で賑わった。1932年の11次航海ではチャールズ・チャップリンが乗船、1937年の47次航海ではイギリス国王ジョージ6世の戴冠式から帰国の途にあった秩父宮夫妻が乗船、1939年の59次航海では宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の訪米芸術使節団一行がアメリカ公演を終了した後の帰国時に乗船するなど、氷川丸は華々しい活躍を続けた。アメリカ側の発着地であるシアトル市民にとっても、1930年代、日本から定期的にやってくる「ハイカワマル」は馴染み深い存在になっていたという。1941年(昭和16年)8月、シアトル航路の閉鎖が決定。同年10月、「氷川丸」は日本政府に交換船として徴用され、在日アメリカ・カナダ人を送り届け、在米・在加日本人を乗せて帰国した。続いて日本海軍に徴用され、病院船として使用される。同年12月に横須賀海軍工廠で病院船に改造された。国際法により病院船であることを示すため、船体は白色に塗装、緑色の帯を引き、赤十字が描かれ、夜間はイルミネーションのような電飾を実施した。「白鳥」という愛称があった。本船は、1943年(昭和18年)10月3日、インドネシアのスラバヤ港外で機雷の爆発による損傷を艦尾に受けた。1944年(昭和19年)7月15日(6月8日とも)、カロリン諸島のメレヨン島に到着、傷病兵を受け入れ出港直後に磁気機雷2発が至近距離で爆発(珊瑚礁で起爆)、若干の損害を受けた。1945年(昭和20年)2月14日、ベトナムのサンジャックからシンガポールへの航海中、船尾附近に触雷、浸水被害を受けるが自力航行は可能だった。姉妹船「日枝丸」(特設潜水母艦、のち特設運送船)と「平安丸」(特設潜水母艦)が戦没する中、本船は終戦の日を舞鶴海軍工廠で迎えた。 敗戦後、「氷川丸」は帰国者の引き揚げ任務に従事した。続いて国内航路に就役し、輸送任務に従事。1953年(昭和28年)、11年ぶりにシアトル航路に復帰した。最終航海は、1960年(昭和35年)8月27日に横浜からシアトルへ出港。10月1日に横浜に戻ると、10月3日に神戸に到着。神戸から横浜に回航され、太平洋横断238回をもって航海を終えた。のべ25,000人余りの乗客を運んだという。解体予定もあったが、市や市民の保存を望む声によって同年12月に「宿泊施設を兼ねた観光船」に転用される。この際、船尾の貨物施設やプロペラシャフトの撤去など、横浜船渠第一号船渠(現在日本丸メモリアルパーク)で大規模な補修が実施された。1961年(昭和36年)5月、山下公園に係留される。以後の所有は氷川丸マリンタワー株式会社(以下、「氷川丸マリンタワー」と記す)になり、ユースホステル・見学施設として運営された。後に船体がエメラルド・グリーンに塗り替えられた。船内では船上結婚式、ビアガーデン、ライブ、サロン・コンサート、パーティ、年越しカウントダウンなどの催事・イベントが実施された。この間、船体はブルーに塗り替えられていた時期を経て1980年代後半に日本郵船時代の黒い塗装に再度塗り直されている。2003年(平成15年)、「氷川丸」は横浜市指定有形文化財に指定された。しかし、入場者数の減少のため、氷川丸マリンタワーは2006年(平成18年)10月13日、同年12月25日で氷川丸の運営を終了。船体を日本郵船に譲渡することを発表した。その後、予定通りに運営を終了し、氷川丸マリンタワーは2006年12月31日付で解散した。2007年(平成19年)8月より船体の部分的な修繕・内装の修復を行っていたが、日本郵船より一般公開を再開する旨が発表される。2008年(平成20年)4月25日、「氷川丸」竣工から78年目にあわせ、「日本郵船氷川丸」の名称で一般公開を開始した。毎日正午になると時報代わりに汽笛を鳴らす、この他前述のカウントダウンでは新年を迎える際に氷川丸の汽笛を鳴らすのが慣例になっている。船体の大規模な修繕は1961年より実施されておらず老朽化が進行している。第二次世界大戦開戦まで、日本郵船バンクーバー代理店には籾山艦船模型製作所製の1/48氷川丸大型模型があった。この模型は、カナダ政府による対日資産凍結により没収され、競売により落札したアメリカ人が所有していたが、遺族がウィスコンチン州海事博物館に寄贈して展示されていた。1995年に存在が明らかになり、日本郵船による返還交渉の末、2013年11月に返還されることが決まり、2014年1月14日に日本郵船歴史博物館に到着。2月18日から一般公開されている。この種の民間船としては数少ないプラモデル化された船である。長谷川製作所(ハセガワ)から、1/700ウォーターラインシリーズ(喫水線より上の船体のみ再現したもの)および1/350スケールのフルハルモデル(喫水線以下の船体も再現されている船舶模型の様式)タイプのプラモデルキットとして、現役貨客船時代と徴用病院船時代の2種類ずつ発売されている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。