加賀型戦艦(かががたせんかん)は日本海軍が八八艦隊計画で計画した戦艦。長門型戦艦の拡大改良型である。同型艦2隻(加賀、土佐)ともワシントン海軍軍縮条約により建造中止となったが、「加賀」は航空母艦に改装された。2番艦「土佐」は進水後に標的艦として使用され、1925年(大正14年)2月9日に自沈処分となった。本型は「高速戦艦」とも呼ぶべき戦艦であり、八八艦隊計画の長門型に次ぐ3番艦、4番艦として計画された。「長門」型では完全に取り入れる事が出来無かったユトランド沖海戦の戦訓を長門型以上に徹底して取り入れるため、長門型で採用された集中防御方式をさらに強化している。「長門」型では舷側の装甲帯の上部装甲はより薄くなっており、またその装甲は舷側に垂直に取り付けられていた。これに対し「加賀」型では舷側の装甲帯の装甲厚(10-11吋/インチ)は上部~下部ともに完全に同一になっている。また、一部の装甲を傾斜式にするなどして更なる防御力の強化を図っている。この時点で、日本海軍の防御設計は従来の英国式のものから完全に脱却した。さらに、日本海軍の戦艦で初めて煙路防御を施している。砲塔12インチ・砲塔天井6インチ、遠距離砲戦で重要となる水平防御の為に甲板に張られた装甲は4インチ(ミドルデッキは1.5-2.5インチ)もあり、世界最強の防御を持っていた。ちなみに当時のアメリカの最新鋭戦艦の水平防御装甲厚は3・5インチである。反面、水中防御は薄く、長門型の標的とされた際、水中弾が貫通し、水中防御力の不足を露呈した。攻撃力の面では、「長門」型が41センチ砲4基8門であったのに対して、1基砲塔数が増加して5基10門となり、世界最大の主砲を10門搭載する重武装となっている。速力の面では、「長門」型より新式で91000馬力を発揮する新式機関を搭載した。これにより長門型より船体規模、排水量が大幅に増加して39,979トンになったにも関わらず、長門型の21基より少ない12基で26.5ktの高速を維持できる見込みであった。缶数が減少した事により、煙突は長門型の2本から一本になった。1918年(大正7年)5月15日命名(土佐と同日附)。同日附で『戦艦』として艦艇類別等級表に登録。1920年(大正9年)7月19日神戸川崎造船所で起工し、1921年(大正10年)11月17日に進水。1922年(大正11年)初頭、ワシントン会議で日本側は加賀型戦艦2隻(加賀、土佐)の空母改造を提案している。結局、空母に改造する艦艇は天城型巡洋戦艦2隻(天城、赤城)に変更。ワシントン海軍軍縮条約により「加賀」は廃艦となり、魚雷(水雷爆弾)の実験に使用される予定だった。同年7月8日、「加賀」は川崎造船所から海軍に引き渡される。7月11日、特務艦「富士」に曳航され、護衛の装甲巡洋艦「八雲」と共に神戸を出発。7月14日、3隻(加賀、富士、八雲)は横須賀到着。本艦は、そのまま横須賀で放置された。1923年(大正12年)9月1日、ワシントン海軍軍縮条約により横須賀海軍工廠で航空母艦に改造中だった天城型巡洋戦艦1番艦「天城」が関東大震災で修理不能の損傷を受け、廃棄が決定する。そこで急遽代艦として、横須賀に繋留されていた本艦が航空母艦に改造された。1923年(大正12年)11月19日附で2隻(加賀、赤城)は、それぞれ戦艦と巡洋戦艦から空母に類別変更。この余波で、空母「翔鶴」(初代)が建造中止となった。空母「加賀」は横須賀海軍工廠で1928年(昭和3年)3月31日竣工。日本海軍航空隊の主力空母として活躍し、1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦で沈没した。『土佐』の艦名は、旅順攻囲戦で日本軍が鹵獲した戦艦「レトヴィザン」を改称する際、改名候補の一つに挙げられていた(実際は戦艦肥前と命名)。八八艦隊計画における本艦は、1918年(大正7年)5月15日附で命名(加賀と同日附)。同日附で『戦艦』として艦艇類別等級表に登録。1920年(大正9年)2月16日に三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工。4月2日、皇太子時代の昭和天皇と随行の東郷平八郎海軍大将が香取型戦艦1番艦「香取」に乗艦して長崎港に到着。三菱長崎造船所に移動すると峯風型駆逐艦6番艦「矢風」(4月10日進水)を見学。続いて第一船台の「土佐」において皇太子殿下が最初のリベットを締める。その後、皇太子は艤装工事中の球磨型軽巡洋艦2番艦「多摩」(長崎造船所で同年2月10日進水)を見学し、「香取」に戻った。同年5月、技術供与の見返りとして、イギリスに本艦機関図面の一部を提供する。1921年(大正10年)1月上旬、ワシントン会議に出席した日本側は、「加賀」および本艦の空母改造を提案する。12月18日進水。進水命名式には伏見宮博恭王が臨席。加藤友三郎海軍大臣も出席した。進水の際、くす玉が割れないという“事故”が発生し、縁起の悪さが囁かれた。ワシントン海軍軍縮条約の締結により、1922年(大正11年)2月5日に「土佐」の建造中止命令が発令され、同年7月に未成のまま海軍に引き渡された。この時点で最上甲板以下の船体はほぼ完成しており、砲塔や煙突なども別に建造が進められていた。その後の船体は標的艦として使用されることが決定し、建造に携わった造船関係者は「前途を祝福されたはずの土佐がドザ(水死体のこと)になった」と自嘲した。その後、作業員の仮居住施設や被曳航装置の設置が行われ、同年8月1日から8月4日にかけて運用術練習艦「富士」に曳航されて、装甲巡洋艦「八雲」護衛下で呉へと回航された。1924年(大正13年)4月14日、天城型巡洋戦艦3隻(天城、愛宕、高雄)、加賀型2番艦「土佐」、紀伊型戦艦2隻(紀伊、尾張)の建造取り止めの令が通達される。同日附で6隻(土佐、紀伊、尾張、天城、高雄、愛宕)は戦艦・巡洋戦艦のそれぞれから削除・除籍された。建造中止になった八八艦隊の各艦(天城型2隻《愛宕、高雄》、加賀型2隻《加賀、土佐》、紀伊型戦艦2隻《紀伊、尾張》)の資材は、空母2隻(天城《のち加賀》、赤城)に流用された。また「土佐」の主砲塔のうち2基は、陸軍の特殊起重機船「蜻州丸」(せいしゅうまる)により対馬要塞豊砲台に1基、釜山要塞張子嶝砲台に1基が運搬されて現地で要塞砲として活用された。横須賀海軍工廠で保管されていた三番砲塔は、後日1933年(昭和8年)に特務艦「知床」によって呉工廠へ運ばれ、長門型戦艦1番艦「長門」の改装に利用されたという。「土佐」は1924年(大正13年)6月から数ヶ月に渡る実験に従事した。実験内容は亀ヶ首試射場からの砲撃や船体に固定した爆薬を用いた、砲弾や魚雷などに対する防御力強化や新型砲弾(後の九一式徹甲弾)の効果の研究であり、これによって得られたデータは後の大和型戦艦の設計にも活かされた。特に四〇㎝徹甲弾(距離20000m)に対する射撃では、落下角度約17度・舷側25m地点に弾着した弾頭が水中弾となって水線下約3m部分に命中、水雷防御 を貫通して機械室で炸裂、浸水3000トン・傾斜5度の被害を生じた。その後、「土佐」は1925年(大正14年)2月2日に標的艦「摂津」に曳航されて呉を出港。翌日佐伯港に入港。仮搭載物の撤去や自沈用発火装置の取り付けを行った。2月8日、佐伯発。同年2月9日に、艦名の由来となった高知県の沖の島西方約10海里地点にて自沈した。自沈開始は午前1時25分、全没は午前7時頃。自沈地点の水深は350フィート。余談だが、長崎市の端島は、横から見た姿から“軍艦島”の愛称を持つが、これは土佐に似ていた事に由来すると言われる。また、「土佐は自沈しておらず、どこかに秘匿されている」という噂が、当時の少年たちの間で囁かれていたという。
出典:wikipedia
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