的場 文男(まとば ふみお、1956年9月7日 - )は、大井競馬場東京都騎手会所属の騎手。「大井の帝王」の愛称で親しまれ、地方競馬全国リーディングを2回(2002年、2003年)、大井競馬リーディングを21回(1983年、1985年-2004年)獲得し、多くの重賞タイトルを手中に収めている。大井競馬場所属騎手の的場直之は甥、佐賀競馬の元調教師の的場信弘は兄(直之の父)にあたる。日本中央競馬会(JRA)所属の元騎手で現調教師の的場均、その息子でJRA所属騎手の的場勇人らとは同姓だが血縁関係はない。先に騎手をしていた兄に影響され騎手を志す。多くの名騎手を輩出した大井の調教師の小暮嘉久の門下の最後の直弟子である。中学時代に兄からの伝で浦和競馬場の厩舎を見学した帰路、羽田発の飛行機の待ち時間を利用して大井競馬場を見学した際に小暮に勧誘されたことにより、1971年に騎手見習として小暮の厩舎に入り、中学卒業後に地方競馬教養センターの第20期長期騎手候補生となる。小暮一門の兄弟弟子は数多く、赤間清松や高橋三郎、辻野豊、瀧澤勝のほか、一時期厩舎に籍を置いた松浦備も兄弟子の一人である。さらに辿れば、小暮は戦前から群馬地区で活躍し、名調教師としてその名を残した塩野七郎の一門であるが、この塩野から広がる流れは現在の南関東公営競馬でも浦和や大井などで人数の多い主流人脈の一つである。1973年に騎手デビュー。同期に森下博、山崎尋美、石川綱夫、大井から宇都宮へ移籍した野木英文らがいる。デビュー時は小暮厩舎に所属、2005年5月末まで長沼正義厩舎所属であったが長沼の引退に伴い移籍。松浦備厩舎を経て、2008年6月16日から庄子連兵厩舎に所属していたが、2012年11月25日付で東京都騎手会所属(中央で言うところのフリー)となった。アラブダービーは通算3勝しているが、東京ダービーには2015年までに34回挑戦して2着は9回あるものの、出走時無敗の成績で単勝1.1倍の1番人気に支持された馬に騎乗しながら大出遅れを喫する(1993年、ブルーファミリー)などの不運もあって未勝利であり、「大井の七不思議の一つ」とまで言われている。ダービーに出走できなかったものまで含めると、3冠第1弾の羽田盃を圧勝しながらも故障したマルゼンアデイアル(1985年)、ナイキジャガー(1996年)、単勝元返し(1.0倍)の支持を受けた羽田盃で故障、予後不良になったベルモントドリーム(2000年)などの例もある。中央競馬では通算4勝。ガルダン(1987年)、ジョージモナーク(1990年)、ハシルショウグン(1993年)でジャパンカップへの参戦歴がある。前哨戦のオールカマーでも自ら手綱をとり、3頭とも2着に導いている(ガルダンは後に中央競馬に移籍)。その後、中央・地方の交流が盛んになり、石崎隆之(船橋)、内田博幸(当時:大井)、戸崎圭太(大井)のように南関東から中央競馬へ積極的に参戦する騎手も出現したが、的場が中央へ参戦する機会は滅多にない。これは、的場が「大井競馬こそが一番の競馬場」と自負しているためと言われている。2009年には、阪神競馬場で行われるワールドスーパージョッキーズシリーズの地方競馬代表騎手として参戦。最下位に終わったものの、ジャパンカップダートでボンネビルレコードに騎乗した。2002年から2004年までの3年間、高知競馬場で黒船賞(毎年3月)の前日に「的場文男騎手招待チャレンジカップ」が行われた。もともとは「佐々木竹見騎手招待チャレンジカップ」として行われていたが、2001年に佐々木竹見が引退し、同じ南関東で活躍している的場に白羽の矢が立ったもの。2レースを行い、着順をポイント化し、その合計により優勝を争った。2005年も開催を予定していたが、落馬事故による怪我の具合から開催までの復帰が難しいと判断され中止となり、以来この競走は行われていない。
出典:wikipedia
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