河戸駅(こうどえき)は広島県広島市安佐北区亀山1丁目9番にあった西日本旅客鉄道(JR西日本)可部線の駅(廃駅)である。可部線非電化区間(可部駅 - 三段峡駅間)の廃線に伴い、2003年(平成15年)12月1日に廃止された。廃止後、可部駅-河戸駅間の復活開業が検討され、2016年現在、2017年春の開業が予定されている。JR化後初めて廃止路線の復活になる。(#復活開業参照)単式ホーム1面1線のみを持つ地上駅であった。駅舎はなくホーム上に簡便な待合所が設けられているだけであるが、入口から待合所寄りに汲み取り式便所があった。廃線後、長らくそのままの状態(駅名標は撤去され、待合所はフェンスで閉鎖されていた状態)で残されていたが、現在は、可部線電化延伸にともないホーム、待合所は取り壊され線路は撤去されている。以下の情報は、広島市統計書および広島市勢要覧に基づいたデータである。以上の1日平均乗車人員は、乗車数と降車数が同じであると仮定し、年度毎総数を365(閏年が関係する1971・1975年は366)で割った後で、さらに2で割った値を、小数点第二位で四捨五入。小数点一位の値にした物である。乗車数グラフ可部中心部の「可部地区」からみて、西に隣接した「亀山地区」内に駅があった。周辺は民家が密集しており、当駅は路地裏のような場所にあった。旧可部町一帯は、広島市内から約20km程度で、自動車で30分以内に移動できる立地から、亀山地区も1955年(昭和30年)には、270戸の県営住宅が建設された。その翌年の1956年(昭和31年)11月に、1936年(昭和11年)に既に開通していた可部線の仮乗降場として開駅。翌月に正式な駅に格上げした。昭和40年代(1965年 - 1975年)には、住宅団地が多く建てられた。1969年(昭和44年)10月1日時点で、可部地区についで亀山地区が人口が多い地区で、可部町の総人口24,840人のうち、可部地区の12,750人(51.3%)に次いで6,898人(27.8%)が住み、総世帯数7,399世帯のうち、可部地区の4,077世帯(55.1%)に次いで1,885世帯(25.5%)が住んでいた。広島県道267号宇津可部線に平行して路線や駅がある。広島県道は、元河戸駅までは片側一車線で、元河戸駅前を過ぎると道路の幅員が狭くなる。また、太田川に平行に通る道路なので、悪天候時には通行止めになることもある。また、広島県道に平行して、国道191号が通り、そちらの方がメイン道路および商店なども多い。当駅を三段峡駅側に過ぎた所には住宅団地が多くあり、可部駅側の中間地点付近には安佐北区役所や可部区検察庁・可部簡易裁判所・安佐北警察署・広島北税務署などの公的機関、広島市立亀山南小学校や広島市立亀山中学校などの学校、ホームセンターやドラッグストア・スーパーマーケットなどの商業施設もある。また、近くには友鉄工業と関連会社の友鉄ランドもある。可部駅-元河戸駅間には、可部駅側に国道54号、中間地点には可部バイパスのオーバーパスがある。特に、可部バイパスの方は、可部線を跨ぐ部分に関して、2003年(平成15年)に完成している。駅付近には、寺院、幼稚園、食料品店、電器店、スーパーマーケットや簡易郵便局などがある。また入口には中華料理店があったが、廃線後に閉店している。可部線の三段峡方面行の列車は、当駅を出ると可部の市街地を抜け、以後はこの駅の南側を東西に流れる太田川に沿って、山中に分け入っていた。廃駅後は、広島交通河戸バス停から可部線代行バスが出ている。1984年(昭和59年)に当時の日本国有鉄道が、可部線の非電化区間の部分廃止の方針を示した時に、廃線の代償案として同時に可部駅 - 河戸駅間、1.3kmの電化計画を示した。しかし地元の猛反発にあい、部分廃止は棚上げになったため電化も行われなかった。JR西日本が1998年(平成10年)9月に、可部駅 - 三段峡駅間の鉄道路線廃止・バス転換計画を発表した。その時から、可部線廃止区間の存続運動が活発化。それに呼応する形で、可部駅 - 河戸駅間の電化運動が活発化した。2000年(平成12年)10月に、翌2001年(平成13年)4月から1年間の試験増便を発表。予定通り実施された。さまざまな住民活動が行われたが、試験増便の結果、思わしくなく、利用実績はJR西日本の示すラインには及ばず2003年(平成15年)11月30日に営業終了となった。廃止後に広島市はJR西日本との線路敷地無償譲渡協定において「市から電化延伸の協議要請があれば応じる」との約束を取り付け、地元による工事費全額負担の条件付きで可部駅 - 河戸駅間の電化延伸による復活開業の可能性を残した。廃線後も、広島市と河戸駅周辺住民との連絡会が行われたりしていたが、恩恵を受ける沿線住民にも資金集め等の具体的な動きはなく、また広島市は財政難を理由に消極的で、電化延伸は具体化しなかった。しかし、2008年(平成20年)9月末に国の補助対象に選ばれ、同区間の電化復活についての議論が本格的になされることとなった。2009年(平成21年)12月に、広島市とJR可部線活性化協議会により、可部線の電化延伸による一部復活案を活性化計画素案に盛り込む事が明らかになった。2010年(平成22年)9月21日に広島市は2011年度の着工を目指すと発表し、JR西日本は2010年度中に事業化の可否について判断するとした。その後広島市は2011年(平成23年)2月3日、可部線で2003年に廃止された区間のうち可部駅から廃止区間にある河戸駅付近に設置される予定の新駅までの約2kmを電化して復活させることを明らかにした(厳密に言えば、廃線跡を活用した路線新設)。廃止されたJR路線が復活するのは全国でも初めてのケースになる。計画では広島市と国が建設費の大半を負担して、2013年度(平成25年)中の完成を目指して2011年度(平成23年)中に着工。また可部駅と新駅の中間にも別の新駅を設置する。路線復活時に不要な通信ケーブルに関しては除去する予定にしている。同年2月16日のJR西日本広島支社長による記者会見で、河戸間の電化復活に関して、広島市と11年度の早い段階で合意するのが望ましいとする考えを協調した。事業費に関して、以前の報道で既に出ている広島市と国が事業費の大半を負担。JR西日本が維持管理費を負担する方向で話を進めている事を明らかにした。その時の会見で出てきた課題として、河戸間を1度廃線していることで、復活は路線の新設扱いになり、路線新設の場合、原則として新たな踏切設置が出来ないとして、どう処理していくか広島市や国土交通省と協議していかないといけないことを明らかにした。同年2月26日には、広島市による駅の整備の概要が明らかになり、県営住宅跡地に建設する意向で調整している。跡地の整備計画は、前年12月に住民グループが出した意見に基づいた物になっている。駅を設置するとされる荒下県営住宅跡地には、老朽化が進行する広島市立安佐市民病院の移転先として、検討していることが2012年3月に判明。2013年1月に、『移転案』『現敷地建て替え案』が発表された。2013年2月1日に、JR西日本と広島市は、2015年春頃に県営荒下住宅跡地まで、廃線跡を活用して電化延伸(電化復活)させることに合意。同月4日に正式発表された。その後、踏切の設置箇所調整に手間取ったことで開業時期が1年延期され、2016年春開業目標に同年11月28日にJR西日本が許可申請を行い、2014年2月25日に事業許可が出された。しかし、広島市が駅建設用地の取得に当たり、地権者毎に土地の境界を確定する作業に予定より時間がかかり、予定していた2014年内の用地取得が半年ずれる見込みで2016年のダイヤ改正に間に合わず、2017年春まで再度の延期となった。2016年7月8日、JR西日本は営業再開に際して旧・河戸駅の可部駅寄りに河戸帆待川駅を、旧・今井田駅寄りにあき亀山駅をそれぞれ設置すると発表した。在来線の改良工事は、可部線の他に山陰本線・津山線・因美線などで既に実施されており、いずれの場合も地元負担が発生している。なお河戸以北の観光鉄道としての復活開業計画は、可部線#可部駅 - 三段峡駅間の廃止にもあるように中断。一部区間では線路および駅舎などの撤去が行われている。運動開始前の、1984年(昭和59年)に国鉄による河戸電化計画が示されたが、その当時は可部以北の並行道路の状態が悪く、河戸以遠の可部線切り捨てを危惧する意見が多く、電化計画案は立ち消えになっていた。1994年(平成6年)夏に、亀山地区(河戸駅周辺も亀山地区になる)の住民約6,000世帯により、『可部駅・河戸駅間電化促進期成同盟会』(後は「同盟会」と書く)が結成された。1996年(平成8年)9月には「河戸地区まちづくり協議会」が旗揚げした。運動の看板は、造成された団地のデベロッパーが費用負担した。2000年(平成12年)10月にJR西日本が、2000年(平成12年)11月1日から2001年(平成13年)2月12日まで104日間の試験増便計画を発表した時は、同年末に、利用促進のために、同盟会が河戸駅周辺に40台収容の駐輪場を整備。整備前までは駐輪場のある可部駅を利用する住民も多かった。試験増便は、2001年(平成13年)4月1日から2002年(平成14年)3月31日まで1年間も行われ、計2回行われている。存続運動の中で、河戸電化も呼びかけられ、可部線対策協議会は電化した場合、当時500人前後の輸送密度の可部線が100人以上の底上げが期待できるとされた。しかし、緑井駅 - 可部駅間の行き違い設備を含めて30億円から40億円かかる事。JR西日本が「自治体が費用を全額負担するのであれば存続させる」との方針を示していた事。電化論は河戸駅 - 三段峡駅間の切り捨てになるとの意見に押され全線存続論が主流となっていたことから、2003年(平成15年)の可部線の部分廃線までには実現しなかった。部分廃線後も、旧河戸駅周辺住民と広島市が、月に1回JR可部線電化延伸等連絡会を開催。2005年(平成17年)以降も住民による電化延伸の要望は行われた。2006年(平成18年)11月26日には、地元住民による可部駅 - 河戸駅間の電化延伸を訴える住民パレードが開催。2007年(平成19年)にも同様のパレードが開催された。そして2008年(平成20年)9月に、延伸計画は国の補助対象になった。2003年(平成15年)廃線時から、住民は約150人増加。廃線以降も、線路の草刈り・沿線へのひまわり植樹・観光案内看板設置など、地道な運動を継続していた。同年11月29日には「まちづくりフェスタ」を開催した。同年6月から復活運動を盛り上げる為に、オープンカフェを運営開始。同年12月には、2009年(平成21年)の商品化を目指して、可部線復活を願い、のクッキーの試作を行った。2009年(平成21年)3月には同盟会主体で、循環バスの運行・親水公園建設・特産品・イベント。さらには活動資金の確保のため、これまで見学した鉄道会社を参考として、枕木オーナー・駅命名権の発売の住民プランを広島市およびJR西日本に提出した。2009年(平成21年)12月の、可部線の電化延伸による一部復活案を活性化計画素案に盛り込まれたのに呼応して、2010年(平成22年)3月に、協議会が駅周辺の宅地開発の構想・取り組みを強化。住民増加による需要増を目指した。市との協議で、9月21日に広島市は2011年度の着工を目指すと発表。JR西日本は2010年度中に事業化の可否について判断すると進展。同年12月には、利用促進のための協議会および、宅地開発を目的とした区画整理事業組合設立準備を進めると報じられた。2011年(平成23年)2月には、広島市が河戸間の復活する方針を固めた事が明らかになり、JR西日本と合意した場合は、路線復活となることになった。2011年(平成23年)3月31日に『可部駅・河戸駅間電化促進期成同盟会』は、当初の目的を果たした事で解散。元メンバーは同年4月末に、可部地区の自治会や住民などで構成・結成される『JR可部線利用促進同盟会(仮称)』に参加すると報じている。2011年(平成23年)4月14日の新聞に、長井地区の自治会が昔からあった神社『伊勢社』を、可部線の電化延伸の方針を受けて『長井ふたたびの宮』と改称。宣伝していくと報じられた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。