フランキー・イェール(Frankie Yale(Uale)、1893年1月22日 - 1928年7月1日)は、ニューヨークのギャング。本名フランチェスコ・イオエーレ(Francesco Ioele。短気かつ好戦的な性格で、ライバルギャングと多くのガンファイトを繰り広げた。イタリア移民に寄生する強請屋(ブラックハンド)の側面と禁酒法下の密輸実業家の面があり、ストリートギャングとシンジケートギャングの中間に位置する。転換期のギャング。イタリアのカラブリア州ロンゴブッコ出身。3人兄弟の次男。1898年、一家でアメリカに渡り、ニューヨークのロウアー・イースト・サイドに定住した。父ドメニコは雑貨屋で働いたが、家は貧しかった。1910年までにブルックリン南部に移った。ギャング集団ファイブ・ポインツ・ギャングの下部組織であるファイブ・ポインツ・ジュニアに加入した。17歳でレスラーのブービー・ネルソンとチームを組んでビリヤード場を荒らしまわり、羊泥棒や武器の不法所持で幾度も逮捕された。20歳までに12人を殺したとされるが、やがてブルックリンの港湾荷役の組合に進出し、商店から保護料を巻き上げた。1913年7月、武装強盗で逮捕されたが、店主が証言を取り下げ無罪となった。1915年、同じファイブ・ポインツのジョニー・トーリオがシカゴに移った時ブルックリンのシマを受け継いだ。同年、ヤミ賭博をやっていた喫茶店が摘発され、逮捕された。1917年、コニーアイランドに酒場「ハーヴァード・イン」を開いた。同じ頃、バーテンダー兼用心棒に、トーリオから紹介されたアル・カポネを雇った。同年、24歳でマリア・デラピアと結婚。その後、ローザとイザベラの2人の娘が生まれた。禁酒法が施行されると、すぐに酒の仕入れから輸送・販売までオペレーションを立ち上げ、デトロイトのパープルギャングから良質のカナダ産ウイスキーを仕入れてブルックリン一帯の闇酒場に卸売した。部下にウィリー・"ツーナイフ"・アルティエリ、アンソニー・"オーギーピサノ"・カルファノ、フレンチー・カーリノ、ベンジャミン・パッゾらがいた。ブルックリン臨海区の漁業利権を手中にしていた漁師でシチリアマフィアのジュゼッペ・バルサモ・"バティスタ"と知り合い、友人となった。1920年5月にはトーリオと酒の密売で対立していたジム・コロシモをシカゴの彼の事務所で暗殺した。警察はニューヨークで彼を殺人容疑で正式に逮捕したが、目撃者のウェイターが身の危険を感じて土壇場で記憶がないと言い、証拠不十分ですぐに釈放された。1924年11月10日にはトーリオと仲違いして争っていたダイオン・オバニオンを暗殺した。言い伝えによれば、イエール一味はオバニオンの花屋を訪れ、3人が花屋に入り本人がいるかを確かめた後イェールを含む別の3人が花屋に入り、マイク・メルロの葬式の花を買いに来たと言って手下の1人がオバニオンと握手しているすきに別の手下がピストルで射殺した。コロシモ殺害時もイェールがシカゴにいたことから、警察はイェールの関与を疑いアリバイを確かめるため拘束したが、マイク・メルロの葬儀にきたと弁解し供述を終えてニューヨークに帰った。この暗殺によって1万ドルと4カラットのダイヤの指輪を報酬として受け取ったという(イェールはオバニオン暗殺に関わっていないという説もある)。1920年代はじめ、ブルックリン臨海区の覇権を巡ってアイルランド系ギャングのホワイト・ハンドと争い、多くの流血沙汰を起こした。酒の密輸で優位に立ったイェールは臨海区の支配を広げ、劣勢に立たされたホワイト・ハンドはイェールの暗殺を何度も試みた。1920年1月、配下のベンジャミン・パッゾが荷役人夫からいつものように用心棒代の取り立てに行く途中、銃撃を受け、殺された。ホワイト・ハンドの仕業と疑ったイェールは、アジトの1つ、アドニス・クラブでホワイト・ハンドのボス、デニー・ミーハンの殺害作戦を練った。1920年4月、外部の雇われ殺し屋を使ってデニー・ミーハンを殺害した。ミーハンの後を継いだワイルド・"ビル"・ロベットはイェールの密輸トラックを襲撃し、酒のない空のトラックをイェールのガレージにわざと停めて挑発した。挑発に怒ったイェールは、シカゴからカポネの配下を呼んでホワイト・ハンドのパーティを急襲させた。結果3人が死亡したが、イェールはアドニスクラブにいて鉄壁のアリバイがあった。ホワイト・ハンドは仕返しに、イェールのダンスパーティを襲撃した。無関係な一般人が巻き添えになったため、以後集会での複数暗殺から単一のターゲット狙いに切り替えた。1921年7月15日、コニーアイランドのナイトクラブから帰途中、イェールの乗った車が通過する車から銃撃され、弟アンジェロとロバート・ローレンスが負傷し、イェールとアンソニー・カルファノは無事だった。1920-1921年にかけての報復合戦により、犠牲者は両サイド合わせて15人にのぼった。1922年6月、ロウワー・マンハッタンで行われたギャングスターの集会に出かけた夜、車を降りダンスホールへ向かう途中で背後から銃撃を受けた。銃弾が片肺を貫通する重傷だったが、一命は取りとめた。警察はホワイト・ハンドのビル・ロベットを疑った。1923年、ホワイト・ハンドはビル・ロベットが引退してリチャード・"ペグレグ"・ロナガンがボスになった。同年9月、ロベットは昔の仲間と酒を飲んで酔いつぶれたところを殺された。1923年7月9日、前日のパーティの帰りにイェール自宅で待ち伏せされ、銃撃を受けた。運転手フランク・フォルテが死亡した。イェールは家族をフォルテに送らせ、自らはマッテオ・ロマノと歩いて帰ったので、イェールと間違えられて犠牲になったと警察は結論づけた。1925年、リチャード・"ペグレグ"・ロナガンは、イェールの年末のクリスマス・パーティを襲撃する計画を立てたが、ロナガンの部下が両者を天秤にかけてイェールに計画を密告した。アドニス・クラブへ襲撃に訪れたホワイトハンドの面々をカポネたちと共に返り討ちにし、殺害した。ホワイト・ハンド壊滅後はブルックリン臨海区の支配者となった。1920年代、犯罪活動の企業化を目指して、武力と脅迫によって氷(冷蔵庫のない時代の必需品)の独占供給を成功させ、ランドリー業の組合を支配した。スピークイージー(闇酒場)やダンスホールのほか葬儀屋、タクシー会社、自分の顔をプリントしたタバコメーカーまで幅広いビジネスを手がけ、財を築いた。シチリア同盟()を非合法アルコール取引の隠れ蓑に使い、組織の本部長兼ニューヨーク支部長を務めた。1922年、クリスマスの前に12トンの石炭を用意して、貧民に無償で配った。配給場所に教会を利用し、また聖ロザリア教会に寄付もした。1927年、ブルックリンのニューブロードウエイアリーナでボクシングのチャリテイマッチを組み、収益を教会に寄付した。また同年、学校建設の発起式に参加した。1920年代後半、勢力を伸ばしたシチリア系のジョー・マッセリアと提携した。1926年夏、扶養手当を払う条件でマリアと離婚し、翌年ルーシーと再婚した。1927年、シチリア同盟のシカゴ支部を巡る酒の密売利権のいざこざからカポネと対立した。イェールがカポネのロングアイランドで荷揚げされる酒を強奪しているとの噂を聞きつけたカポネはニューヨークに手下ジェームス・ディアマトを派遣して調べさせたところ、同年7月、ディアマトがブルックリンの路上で頭部に弾痕のある銃殺体で発見された。イェールに返り討ちにあったとされる。1928年7月1日、ブルックリンのニューユトレヒト・アヴェニューを走行中、後続の車からショットガン、リボルバー、トンプソンM1928サブマシンガンで銃撃され、車は道端の家に突っ込み、イェールは頭部に被弾して即死した。「家族に問題が起きている」との匿名の電話があり、用心棒を付けずにアジトのサンライズクラブを出て愛車に飛び乗り、車で自宅に向かっていたという。現場に駆け付けた警官や捜査課刑事は、遺体を見てすぐにイェールとわかった。何十回も逮捕され警察署の常連だったため、労なくイェール本人と確認した。イェールの愛車リンカーンは防弾仕様だったがウィンドーガラスには防弾処理が施されていなかった。殺害の実行犯はジャック・マクガーン、ジョン・スカリーゼ、アルバート・アンセルミ、フレッド・"キラー"・バーグとされた。イェール暗殺に使われたマシンガンは後年、聖バレンタインデーの虐殺で使われたマシンガンと同種のものだったことが判明した。警察は当初からカポネの関与を疑った。捜査ではカポネの保養先のマイアミからカポネの手下3人が汽車で北に向かい、殺害数時間前にニューヨークに到着したと報じられた。葬儀はギャングとしてはアメリカ建国以来最大の規模で行われ、1万5千人の参列者が最後の別れを告げた。その後、前妻のマリア・イェールは家族を養うため工場で1日10時間も働いた。イェールのブルックリンの縄張りはマッセリア派のアル・ミネオや当時新興勢力のジョゼフ・プロファチに引き継がれ、賭博利権と密輸ビジネスはイェールの部下だったアンソニー・カルファノに引き継がれた。イェールの子分の多くはプロファチ一家に吸収された。
出典:wikipedia
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