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岡山県

岡山県(おかやまけん)は、日本の都道府県のひとつ。中国地方南東部に位置する県である。県庁所在地は岡山市。温暖な瀬戸内の気候を背景に古代より独自の文化圏形成を持ち、現在では中国・四国地方の交通要衝としても発展している。気候は北部の豪雪地帯が日本海側気候に属し、南部は典型的な瀬戸内海式気候に属している。県庁所在地における降水雨量1mm未満の日数が全国最多であることから、1989年から「晴れの国岡山」を県の標語としている。県南部は日射量が非常に豊富であり、太陽光発電のエネルギー効率が全国平均を16%も上回る地域である。瀬戸内市で2019年4月運転開始予定の「瀬戸内 Kirei 太陽光発電所建設プロジェクト」は、日本で最大のメガソーラーの稼動となる。(ピーク時予想230MW)県北山間地の真庭市では林業と木材産業が盛んであったこともあって、エコロジカルな木質バイオマス発電として2015年4月に国内最大級の1万kW(10MW)の安定稼動に成功している。北は中国山地、南は瀬戸内海に面しており、大小併せて約90の島を有す。1988年(昭和63年)に完成した瀬戸大橋は、鉄道と道路の併用橋としては世界最長。倉敷市と香川県坂出市まで島伝いにを結ぶ壮観なスケールの10本の連結橋となっている。現在の広島県東部に位置する備後地方や香川県島嶼部などと併せ、古くは「吉備国」と呼ばれていた。吉備国は大和朝廷に並ぶほどの強大な勢力を持っていたとされ、県内にも数多くの遺構が残っている。江戸時代には岡山に池田氏、津山に森氏が入封し、倉敷は天領となった。特に池田氏は日本三名園の後楽園を造成し、閑谷学校を開くなど、文化・教育面に多大な功績を残した。深い山間域と三つの一級河川によって流域には水量がもたらされ、児島湾の干拓を経ての水稲や麦の大規模穀倉地帯開発が行われてきた全国有数の農業生産県である。また、長らく中山間地域などでは果樹栽培が積極的に行われてきたことから果物生産地としても有名な県になった。代表的には、白桃、マスカット、ピオーネ、瀬戸ジャイアンツ、オーロラブラック、紫苑(しえん)などは生産量、品質とも日本一であり、海外にも「岡山果実ブランド」としての出荷が行われている。果樹栽培品種は多様で、足守メロン、愛宕梨(あたご梨)、鴨梨(ヤーリー)、温州みかん、牛窓オリーブ、富有柿、太秋柿、岡山甘栗(作州栗)、金太郎ぶどう、りんご、梅、スモモ、イチゴ、マンゴー、ブルーベリー、キウイ、総社バナナ、スイカ、プルーン、ドラゴンフルーツ、イチジク等々がある。県の農業研究所らによる品種改良技術や栽培指導努力とも相まって一年を通してさまざまな果実が収穫出来る稀有な生産性実績がある。畜産では、県北部地域の蒜山高原で特に風味とコクに評判の良いジャージー牛の放牧が行われていてチーズやヨーグルトやプリンに加工されている。倉敷市にある西日本有数の水島臨海工業地帯では、事業内容拡充や広域交通網基盤整備の推進などとも相まって第2次産業分野などでの生産の役割をひろく担っている。2009年(平成21年)4月1日に県庁所在地の岡山市が中国・四国地方2番目の政令指定都市に移行した。2012年(平成24年)現在、参議院一人区で政令指定都市があるのは岡山県と熊本県(熊本市)の2県だけである。北部には旭川・高梁川・吉井川の三本もの一級河川源流のなっている中国山地の山岳地帯や、鍾乳洞などのカルスト地形のみられる吉備地高原の高地が連続的に広がり、南部には三大河川によって形成された裾野の広い岡山平野が広がっている。また、岡山平野にはかつて瀬戸内海に浮かんでいた小島が丘陵エリアとして在り、干拓で江戸時代に繋がった児島半島がある。近海には瀬戸内海に面した島がいくつも点在していて、普段の沿岸市域の波の高さは50cm~1mていどである。名山麓としては、中国山地の蒜山(標高1122m)や後山(標高1345m)などがあり、主な湖沼としては、奥津湖、恩原湖、湯原湖、児島湾奥の締切堤防化によって人工的に造られた児島湖などがある。なお、兵庫県とは山地および備前市の取揚島で、鳥取県・広島県とは山地で、香川県とは海上および玉野市の井島(石島)で隣接している。国土地理院地理情報によると岡山県の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは104.87km、南北の長さは116.98kmである。中国山地と瀬戸内海に挟まれ、南部の平野地帯は典型的な瀬戸内海式気候を示す。一方、北部の中国山地沿いは日本海側気候に属し、真庭市蒜山では冬季には3m~5mの積雪となる豪雪地帯に指定されていて、−10°C以下まで下がることもある。県北部山間域には4箇所のスキー場がある。その中間に位置する吉備高原は両者を折衷した気候を体し、南部より多少冷涼で雨量も多く、内陸に位置するため北部ほどではないものの緯度の割に冬季の寒さは厳しい。日本列島に来襲する台風やその影響による風雨は中国山地・四国山地によって弱められることが多く、それに加えて夏には瀬戸内海で発生する「凪」や山地越えのフェーン現象の影響もあって、都市部や内陸の盆地を中心に猛暑日になる日も少なくない。県庁所在地の岡山市は、吉備高原に属する旧建部町・御津町地域を除いて日照時間が年間約2000時間と長く、年間降水量は1100mm程度であり、日本有数の降水の少ない土地である。降水量1mm以上の日数が日本で最小であることが、前述の「晴れの国おかやま」の根拠となっている。2004年(平成16年)以降、岡山県内でも平成の大合併が進められ、2011年(平成23年)現在、以下の15市・10郡・10町・2村がある。町はすべて「ちょう」、村はすべて「そん」と読む。県庁所在地の岡山市は2009年(平成21年)4月に政令指定都市に移行し、 北区・中区・東区・南区の各4行政区が設置された。岡山県の広域行政圏は旧地方振興局単位で分けられる。商工会連合会の地区は上記と異なる。その他に広域市町村圏がある。県名は県庁所在地の岡山市に由来する。「岡山」とは元々現在の岡山城のある場所に存在した小高い丘のことを指して呼んだものであったが、戦国時代に宇喜多秀家が「岡山」に城を築き、その後形成された城下町を含めて岡山と呼ぶようになったことに由来する。なお、秀家の書状から「岡山」が城下町の地名として呼ばれ始めたのは1594年(文禄3年)頃からであると推測される。現在の岡山県の地域には、鷲羽山遺跡(倉敷市)などの原始からの遺跡が存在しており、旧石器時代から人々が居住していたことが窺える。県の最北端上斎原村(現鏡野町)に旧石器時代の恩原遺跡がある。その遺跡の下層(約2万5千年前の地層)からナイフ形石器が出土しており、その上層から約1万年前の細石刃も出土している。恩原遺跡では二基の炉跡が検出されている。うち一基は10個ぐらいの小石を半円形に並べており、焚き口幅40cm、奥行35cmの小規模な炉で、石組みの中に木炭塊があり、炉の周辺に灰土が広がっていて、2万2千年前の旧石器時代人の生活痕跡を示す珍しい遺構である。地球の温暖化による海面上昇で瀬戸内海が出現した。そのことを示すのが瀬戸内市牛窓町の黄島貝塚である。その後は、人々は狩猟・採集・漁労の自然からの贈り物で生活し、豊かになっていった。縄文時代も後期になり、津雲貝塚で170体以上の人骨が発掘されている。晩期には岡山市北区の津島江道遺跡では水田遺構そのものが検出されている。縄文時代の終わり頃には、狩猟・採集活動をしながら水稲耕作も行われた。また、彦崎貝塚(岡山市南区)では縄文時代前期の地層からイネのプラント・オパールが大量に出土し、朝寝鼻遺跡(岡山市北区)でも同様の発見があり、縄文時代前期には畑作によるイネの栽培が始まっていたとみられる。古代には吉備国といわれ、畿内地域や北九州地域、出雲地域等とともに、日本列島の中心地のひとつとして栄えていた地域である。吉備国は畿内勢力と同盟関係を築いて日本列島の統一期(4世紀中葉)に影響を与えた。優れた鉄製技術を持ち、その支配地域は現在の岡山県・広島県中東部・香川県島嶼部・兵庫県播磨地方に及び、加古川を境界とし、さらには四国や芸予諸島にも至っていたと推定されている。また、大きさが全国の古墳の中で第4位、一般人でも立ち入れる古墳としては全国第1位の規模をもつ造山古墳(岡山市北区)や全国第9位の作山古墳(総社市)、両宮山古墳(赤磐市)等の大型古墳が岡山県内に残されている。そして吉備と大和の勢力の古墳のみが、全国の第25位までの古墳の規模のランキング上位を全て独占しており、これらの事例からも窺えるように、巨大な権力が存在していたと考えられている。6世紀前半に大和朝廷への臣従したのち、吉備国は勢力抑圧のために備前国、備中国、備後国の3国に分割され、さらには備前国から美作国が分国された。国府は現在の岡山市(備前国)、総社市(備中国)、津山市(美作国)にそれぞれ置かれた。旧吉備国からは奈良時代に中央政権で権勢を振るった吉備真備や道鏡の天皇位簒奪を阻んだ和気清麻呂らの優れた人材を輩出した。平安時代には備前・備中は受領にとって実入りの多い、「上国」のひとつとされており、農業生産力が高かった。またこの時代に各地に荘園が拓かれた。特に鹿田荘は藤原氏の氏の長者が受け継ぐ4つの荘園(殿下渡領)のひとつであった。その他に大安寺荘(岡山市北区)など。平安時代末期には平氏の勢力圏に置かれ、1183年(寿永2年)には県の南東部、倉敷市玉島地区で、翌年には藤戸地区で源平合戦が繰り広げられた(水島の戦い・藤戸の戦い)。鎌倉時代に入ると元来東国を拠点としていた那須氏・松田氏・三村氏・庄氏・赤木氏などの有力御家人が地頭職などを得て移住・土着した(東国から西国に移った鎌倉幕府御家人という意味で西遷御家人と呼ばれる)。南北朝時代、後醍醐天皇が隠岐に流される際の通り道になったことで、児島高徳など宮方に与同する武士が現れ、隠岐脱出後は最初に拠点を構えた伯耆船上山が近隣であったため多くの武士が宮方として活動した。観応の擾乱で室町幕府が分裂すると山陰に勢力を誇る山名氏が侵攻し、北部美作を中心に山名氏の勢力下に置かれる。しかし、山名氏は明徳の乱で衰退した。室町時代には鎌倉幕府倒幕に活躍した播磨の豪族・赤松則村(円心)が播磨・備前・美作3国の守護職に任ぜられ、以後赤松氏が代々三国の守護職を受け継ぎ、この三国はほぼ連動した歴史を展開する。赤松満祐が嘉吉の乱で時の将軍足利義教を討ったため、赤松氏は一時衰亡し、その後は赤松氏と地域の覇権を争っていた山名氏が三国を領有した。紆余曲折の末、復活した赤松氏は応仁の乱で東軍に組みし、管領細川勝元より三国守護職を約束され、赤松政則が西軍の山名氏の勢力を追い払うことで再び三国守護職に返り咲く。しかし、戦国時代に守護代であった三石城城主・浦上村宗によって政則の子が殺され赤松氏は衰退の一途を辿る。赤松氏に取って代わり備前を中心に勢力を伸ばした浦上氏であったが、宗景の代に家臣であった宇喜多直家の下剋上によって滅ぼされ、備前と美作では宇喜多氏が勢力を伸ばした。備中では室町期は守護細川氏が、戦国時代は出雲から侵攻した尼子氏が庄氏ら有力国人を従えていた。その後毛利氏の支援を得た三村家親が備中全域を統一し、美作・備前の一部も勢力下に治め三国を制する勢いであったが、永禄9年(1566年)三村家親が籾村の佛頂山興善寺に在陣中暗殺され、さらに後を継いだ三村元親が翌年宇喜多氏との明善寺合戦に敗退した。その後、織田氏の誘いを受けて毛利氏と争うに至り、三村氏は滅亡した(備中兵乱)。このように現在の岡山県域では多数の戦国武将が群雄割拠の様相を呈し、戦国期を通じ、現在の岡山県域を統一する一大勢力は遂に出なかった。これは、岡山県が戦国前期には尼子氏・大内氏等の草刈場と化し、後期においては羽柴秀吉の水攻めで有名な備中高松城の戦いに代表されるように東の織田氏と西の毛利氏の衝突地点となったためである。備前の宇喜多氏や備中の三村氏などを除き、戦国期の在地国人勢力に顕著な活躍は見られなかった。しかし、その宇喜多氏・三村氏にしても東西勢力の代理戦争を演じていた面がないわけではない。秀吉との縁を得て後述のように戦国末期(近世初期)まで家を保持・成長させた宇喜多氏は在地勢力の例外といえる。現在の岡山の地は「岡山」・「石山」・「天神山(天満山)」と呼ばれていた3つの小高い丘のある備前国西部の農村地帯の一角に過ぎなかったが、岡山の地の利に目を付けた直家は「石山」に小規模な城を築いていた金光氏の当主・金光宗高を謀略により切腹させて開城の後、岡山の地に入封した。直家の子宇喜多秀家は備前・備中・美作3国守護の座に就き、秀吉の許しを得て「岡山」に築城し、商人を備前福岡から呼び寄せるなど、城下町が形成されていった。秀家はその後、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、豊臣家五大老のひとつの地位を占めていた宇喜多氏は所領没収のうえに八丈島に流された。戦勝側である小早川秀秋が3国51万石を領有したが2年で後継ぎなく死去、断絶となり、1603年(慶長8年)、西国将軍と称された姫路藩藩主・池田輝政の次男、池田忠継が分家として備前38万石に入った。忠継・忠雄のあとに池田本家の鳥取藩から領地の交換で岡山に31万5千石で入封した池田光政(輝政の孫)が備前岡山藩の基礎を築き、以後、明治維新を迎えるまで光政の家系が藩政を担った。また、領内には池田家の家老の陣屋が各地に所在し、伊木家3万3千石の虫明陣屋を筆頭に、池田家3万2千石の天城陣屋、池田家2万2千石の周匝(すさい)陣屋、日置(へき)家1万6千石の金川陣屋、池田家1万4千石の建部陣屋、土倉家1万1千石の佐伯陣屋があった。城下町・岡山は発展を続け、第4代池田綱政の治世の1707年(宝永4年)には町方人口が3万0635人(武家・寺社方を含めた総人口は推定4万~5万人)に達し、国内でも十指に入る経済力を持つ城下町となった。現在では日本三名園のひとつに数えられる御後園(後楽園)が造成されたのもこの時期である。19世紀に入り岡山藩の財政状況が悪化すると藩は被差別部落への差別を強化した。その結果、1856年(安政3年)に備前一国を巻き込む強訴(渋染一揆)が発生した。備中には小早川氏改易のあと、一国を管轄する藩が置かれず幕領と大名領・旗本領が錯綜した。備中松山藩を筆頭に、足守藩・庭瀬藩・新見藩、岡田藩、浅尾藩・岡山藩の支藩である岡山新田藩(鴨方藩)および岡山新田藩(生坂藩)が成立した。また、交代寄合の山崎家の成羽陣屋(幕末に成羽藩となる)、交代寄合の戸川家の撫川陣屋が置かれ、戸川家は旗本としても早島・帯江・妹尾・中島(中庄)にそれぞれ陣屋を構えた。倉敷は天領(幕府の直轄)となり、備中のみならず伊予、讃岐など周辺諸国の幕領を管轄統治する幕府陣屋が置かれ、その繁栄は岡山以上とも言われた。美作には森家が18万6千石で入封。4代で断絶の後、越前松平家の宗家筋の津山藩10万石、三浦家の勝山藩2万3千石が成立した。幕末期になり薩摩藩や長州藩による倒幕の動きが広がると、外様であった岡山藩は勤皇派に、親藩・譜代であった津山藩・備中松山藩は佐幕派に分かれ、1868年(明治元年)に勃発した戊辰戦争の際には当時の藩主である板倉勝静が老中職にあった備中松山藩を朝敵として岡山藩などが攻撃を加えた。1871年(明治4年)7月14日、明治新政府による廃藩置県により岡山藩を受け継いで、岡山県が備前国を範囲として設けられた。当初、現在の岡山県域には14県が設置されたが、同年12月には岡山県、深津県、北条県の3県に再編された。その後、1875年(明治8年)12月10日に備中国と備後国に当たる小田県(旧深津県)を編入し、1876年(明治9年)4月18日には、備後国6郡を広島県に移管、美作国に当たる北条県を併せた。岡山県の境域はこれ以後1896年(明治29年)に吉野郡石井村を兵庫県佐用郡へ編入、同郡讃甘村大字中山を兵庫県佐用郡江川村へ編入、1963年(昭和38年)、和気郡日生町(現:備前市)東部の福浦地区(寺山を除く)を兵庫県赤穂市へ編入以後は、現在まで特に変更はない。県の政庁は岡山市に置かれ、鉄道網の整備や旧制第六高等学校・旧制岡山医科大学(岡山藩医学館を文部省が引き継ぐ)等の教育機関の設立なども相まって山陽地方の拠点として発展を見せた。また、政財界に優れた人材を輩出し、特に自由民権運動では片山潜や後に首相となる犬養毅や平沼騏一郎をはじめとして多くの運動家・政治家を、経済界では第一生命創業者の矢野恒太らを世に送り出した。戦前の産業は農業が主であり、南部では児島湾干拓によって稲作面積を拡大して生産性を向上させ、イグサ・綿花栽培や丘陵地での果樹栽培が行われる一方、北部では養蚕が盛んに行われた。瀬戸内海に面した児島地区(倉敷市)では塩田開発が江戸末期から明治にかけて盛んになり、地元の名家である野崎家が財をなした。1870年代以降になると近代工業として製糸工場が県内に次々と立地した。倉敷紡績(略称:クラボウ)は全国有数の製糸企業に成長し、また倉敷紡績の大原孫三郎によって倉敷絹織(現在のクラレ)、紡績を支える中国水力電気会社(現在の中国電力)なども設立された。この時代の繊維産業の発展が現在の倉敷市のジーンズ、学生服の隆盛の元になっている。大原は実業の傍ら、大原美術館、倉敷中央病院、農業や社会問題の研究所などを設立したり、石井十次の孤児養育事業を支援するなど、現在のことばでいうメセナ事業を行った。1891年(明治24年)に山陽鉄道(現在のJR山陽線)が岡山を経由して広島県尾道まで開通し、その後もいくつかの私鉄路線が開通した(鉄道の項参照)。これらのうち主要なものは後に国鉄に組み入れられた。第一次大戦後には重化学工業が発達し、柵原では鉱山が開かれ、玉野では造船業が活況を呈するようになった。経済の発展で中間市民層が厚みを増したことから、その求めにより中等教育、高等教育の充実が図られた。特に公立・私立の女学校が次々に設立され、全国的に見ても女子の中等教育の盛んな県となった。こうした地勢より、社会福祉分野においても先見性が高い人材を数多く輩出しており、社会福祉学上において近代福祉事業発祥の地とされることもある。特に1917年(大正6年)に自県にて発足した済世顧問制度は大阪府の方面委員制度と並んで後の民生委員制度に繋がるものとされるし、先述の片山潜も貧困層のために日本最初の隣保館を設立している。他にも救世軍において廃娼運動を繰り広げ女性の権利と生活の向上に足跡を残した山室軍平や児童自立支援施設の先駆けとなった家庭学校を設立した留岡幸助、岡山博愛会病院を設立し地域医療に寄与したアリス・ペティ・アダムス、日本最初の孤児院(児童養護施設)を創り上げた石井十次などが岡山県にてその活動の発起を行った。そのため山室、留岡、アダムス、石井の4名は社会福祉の歴史上に多大なる功績を遺したことにより「岡山四聖人」と称される。しかしながら第二次世界大戦が勃発し、戦争末期の1945年(昭和20年)6月には航空機工場のあった倉敷市水島地区と岡山市がアメリカ軍による大規模な空襲を受けた。岡山市では空襲により中心部がほとんど壊滅し、1700人以上の市民が犠牲となった。戦後は大規模な児島湾の干拓事業が引き続いて行われ、耕地を拡大させた。また、三木知事時代の1960年代、全国総合開発計画に合わせて水島地区に大型船が入港可能な港湾と石油コンビナートを造成して製鉄、石油化学および自動車などの工場を誘致し、農業中心の県から工業中心の県へと変貌を遂げた。他方では、1970年代には大気汚染、瀬戸内海への石油流出事故、赤潮、児島湖の水質悪化などに悩んだ。1970年代以降は山陽新幹線の開業や瀬戸大橋の開通による高速道路・鉄道網の整備、岡山空港開港による航空網の整備が行われ、交通の結節点としての地位を高めた。南部では人口の増加が見られ、岡山市や倉敷市などが150万都市圏を形成している(岡山都市圏)。岡山県の人口は戦後一貫して増加を続け、2005年(平成17年)には約195万人に達した。広島市に次いで中国地方第二の都市である岡山市(約70万人)や第三都市の倉敷市(約47万人)を擁している南部は人口増加が堅調だが、吉備高原や中国山地の山々に囲まれた地域では高齢化が進行し人口の減少が顕著になってきている。そのため、県全体では1990年(平成2年)頃から人口はほぼ横ばいであったが東日本大震災以降から移住者の増加で転入超過に転じ、NPOが毎年発表している「田舎暮らし希望地域ランキング」にて岡山県が2012年度に2位、2013年度に3位にもランクインしている。これは、男女の初婚年齢が香川県とともに全国屈指の早さとなっている。(公選知事を特に列記する)(+印は在職中に死去)岡山県の行政機関の本庁として、岡山県庁が同市北区内山下に所在している。岡山県内に備前・美作・備中の各県民局が置かれ、その下部組織として各地域事務所が設置されている。かつては地方振興局が設置されていたが統合・再編されて現在に至る。2008年(平成20年)6月2日の定例記者会見で2011年度にも、2009年度から新たに施行された自治体財政健全化法に基づいて起債制限など国に管理される財政再生団体に転落する可能性があるとして、財政危機宣言を発した。このため、構造的に見込まれる400億円規模の財源不足を解消するため、2008年(平成20年)8月に「岡山県財政構造改革プラン(素案)」を公表した。その際に、歳出削減や県有施設の統廃合について、市町村、県民から様々な意見が表明されたことを踏まえ、同年11月に「岡山県行財政構造改革大綱2008」が策定された。この行革大綱の具体的な枠組みは、(1) 職員数の削減、(2) 組織体制の再構築、(3) 職員の意識改革と人事制度、(4) 事務事業の削減、(5) 公共事業の削減、(6) 歳入確保、(7) 公の施設の閉鎖・譲渡・集約化、(8) 市町村の事務・権限移譲、(9) 外郭団体等の抜本的な見直し、(10) 効果的な行政評価システムの構築の10分野に及び、これらの取組を2012年度(職員数は2013年度)までに実施することにより、一般財源で396億円の収支不足を解消し、歳入と歳出のバランスが取れた持続可能な財政構造を確立することを目標としている。また、今後の財政運営の目標として、「収入にあわせた予算を組みます」、「県債残高をこれ以上増やしません(プライマリーバランスの黒字化)」、「同規模県と比較してもっともスリムな体制を目指します」、「行革推進債などの緊急避難的な対策による財政運営と決別します」、「今後4年間で改革の総仕上げを行います」との5つの目標を掲げ、この目標に沿った財政運営に取り組むこととされている。地方債残高岡山県南部に広がる児島湾干拓地を中心とした岡山平野や北部の津山盆地などでは、古来よりコメの栽培が盛んで、現在に至るまで農産物の中心をコメが占めており、コシヒカリや朝日米、ヒノヒカリなどの品種が栽培されている。また、南部では岡山市灘崎地区のナスや倉敷市連島地区のレンコンをはじめ大都市向けに出荷される花卉、全国的にも珍しい黄ニラなどが、北部や吉備高原ではシイタケやマツタケなどが盛んに生産されている。国内産のマスカットの約9割は岡山県で生産されており、明治時代以降は岡山市津高地域・栢谷地区などの丘陵地においてブドウやモモの温室栽培が行われるようになった。全都道府県における出荷量で見れば、ブドウは4位(西日本1位)、モモは6位(和歌山県に次ぐ西日本2位)で全体シェアの5パーセントにも満たないものの、一部の品種に限れば、ブドウのマスカット・オブ・アレキサンドリア、ピオーネや黒大豆の作州黒の生産量は全国トップクラスであり、現在では岡山県の主要な名産品となっている。県内では他にも倉敷市船穂地区等で愛宕梨やヤーリーなどの果物が栽培されており、高い生産技術と穏やかな気候に恵まれ、高品質な商品を生産している。近年、これらの農産物を中国や台湾など海外に輸出し、販売する試みがなされている。畜産においては中国山地沿いを中心に行われ、特に新見市千屋地区で肉牛の「千屋牛」などの和牛が飼育されている。酪農においては蒜山高原(真庭市)でジャージー牛の放牧が行われ、脂肪分を多く含んだ濃厚な乳を用いた牛乳やチーズなどの製品が生産されている。かつてはイグサやコンニャク、タバコの生産も盛んであったが、戦後の産業構造の転換により次第に生産量を減らしている。北部を中心とする中山間地域では全国的な傾向に漏れず若者の都市部への流出や高齢化による過疎化が進行しており、農業の担い手不足が課題となっている。瀬戸内海に面する岡山県では児島湾などで、浅瀬を利用した沿岸漁業が行われており、かつてはサワラやタイの中型魚が主に獲れていたが、明治から昭和にかけての干拓事業による漁場の縮小と都市化の影響による瀬戸内海の水質汚濁が発生し、以前ほどの豊かな漁場は失われてしまった。しかしながら、現在でも倉敷市下津井港をはじめとしてメバルやイイダコ、カレイなどの好漁場となっており、また、瀬戸内市邑久町・牛窓町などでは複雑に入り組んだ海岸を利用した海苔やカキの養殖が盛んに行われている。カキの生産量は宮城県と広島県に次いで全国第3位である。瀬戸内海で獲れる海の幸を用いた郷土料理として、サワラの入ったばらずし(ちらしずし)やたこめし、ママカリ(サッパ)の酢漬けなどがある。また、備前市日生町などでは蛎をお好み焼きに入れた「カキオコ」を新たな名物として岡山県内や他県にPRしており、水産資源を町おこしの契機に繋げる新しい取り組みも見られる。第二次大戦以前、農業県で大規模な港湾がなかった岡山県の第二次産業は製糸・紡績業などの軽工業がその中心であったが、戦後は県によって、それまで中国・四国地方の他県に後れを取っていた工業化に重点を置いた政策が採られ、水島コンビナート(倉敷市)の埋め立て造成と石油精製所・大手製鉄所・自動車工場などの誘致が行われ、工業的に急速な発展を遂げた。また、総社市などの内陸部にも工業団地が次々と立地し、自動車の関連部品の製造や電子機器の工場が誕生した。その他、岡山市では食品や印刷など市場指向型、軽工業系の工場が岡南地区や西大寺地区などに所在し、倉敷市では児島地区にジーンズや学生服など縫製業が立地している。学生服の出荷額は岡山県が全国第1位となっている。1980年代以降は吉備高原等の内陸地域を新たな産業ゾーンとするために高速道路の整備や岡山空港の郊外移転などの開発が行われ、IT関連企業やICなどの電子デバイス工場の誘致が県によって進められた。しかし、開発から数十年が経過した現在でも立地した工場は多くなく、当初の見込み通りには事業が進んでいない。こうした県主導の工業化のためのハード面での積極的な整備によって工業県への変貌に成功したものの、反面、これらの事業によって増大した借金が昨今、県の財政を圧迫している。岡山県の第三次産業は主に岡山市・倉敷市など県南都市圏を中心に展開されている。特に岡山市は岡山都市圏の中心都市であり、圧倒的な集客力を誇っている。また、サービス業や小売業、金融業等の第三次産業は本社や事業所を主に岡山市を中心とした県南部に構えている。1960年代までは伝統的な個人経営の小売店舗が多数を占めていたが、1970年代以降、都市化やモータリゼーションの進行、大量消費社会の浸透により、全国や中国・四国地方規模で展開するスーパーマーケットやコンビニ、電器店等のチェーン店舗が郊外の幹線道路沿いに多数開店し、生活する上での利便性が増した一方、中心市街地の空洞化を招いた。バブル経済の崩壊後はこれまで都市部の地価の下落が進んでいた。そんなこともあって近年は中心市街地への高層マンションの建設が相次いる。また小売店舗の中心市街地への新規出店や再開発事業が活発に展開されている。人口の増加も見られており、現在ではまた再び地価が上昇している岡山市では江戸時代の城下町に由来する表町地区と1972年(昭和47年)の山陽新幹線開業後に発展したJR岡山駅周辺地区が2大商業地区となっている。岡山県南都市圏は現在人口150万人を擁し、地方都市としては数少ない成長が見込まれている都市圏のひとつであるため、岡山市の政令指定都市移行を契機として、今後も再開発等の活性化が期待されている。一方で、その他の地域では人口の流出・現象を伴った過疎化によって商業施設の撤退・閉鎖、大型商業施設の郊外出店によるドーナツ化現象が見られ、地域活性化が大きな課題となっている。岡山県警察本部の管轄にあり、以下の22警察署が置かれている。ここ数年の市町村合併に伴い、2006年(平成18年)(平成16年)4月1日に警察署管轄地域の見直しが行われた。また、2009年(平成21年)4月1日からは、岡山市の政令指定都市移行に伴って岡山東警察署が岡山中央警察署に、西大寺警察署が岡山東警察署にそれぞれ名称変更された。鉄道は1891年(明治24年)に山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が三石駅から岡山駅まで開通したのを皮切りに、中国鉄道・西大寺鉄道・片上鉄道・下津井電鉄などが次々と開通した。戦時中はその多くが国有化され、戦後にはモータリゼーションの進行や利用者の減少により廃止された路線もある。1972年(昭和47年)には国鉄山陽新幹線新大阪・岡山間が、2年後には岡山・博多間が開業し、1988年(昭和63年)には瀬戸大橋開通に伴ってJR瀬戸大橋線が開業。以来、JR岡山駅は本州と九州、および山陰と四国を結ぶ一大ターミナルとなっている。現在、以下の路線が存在しており、岡山市では全国的に数少なくなった路面電車も運行されている。山陰地方と四国の中間に位置し、古くから主要街道の山陽道が通っていた岡山県は道路網が充実しており、特に2007年度の高速道路延長(面積1000km²当たり延長)は41kmと全国第5位になっている。岡山県は隣接する広島県とともにバス事業者の多い県である。岡山市内では多数の会社が乗り入れ、一時期は事業者間での激しい競合が発生する問題も起きていたが、調整が進む等改善している。高速バスは京阪神、山陰、広島、東京、福岡、四国各県などに伸びる。主な事業者は下記。県内の主要空港は岡山空港である。岡山市北区日応寺に所在し、県が管理する第三種空港、準国際空港である。国内線では東京、札幌、那覇の3都市へ、国際線ではソウル、上海がデイリー運行、北京、大連、へ定期便が就航する。もとより東京行きの便が距離的・料金的に航空機と新幹線との間で競争が激しい地区であり、また、空港内の駐車場が無料[一部有料]であることから、同じ中国地方で第二種空港の広島空港には大きく水を空けられているものの、近年利用者が増大しており、他の地方第三種空港が経営に苦しんでいる中で高い収益を上げている。また、1988年(昭和63年)の岡山空港開港まで主要空港であった岡南飛行場(岡山市南区)は現在セスナ機等の小型機の飛行場として運営されている。高松港へ向かう宇高連絡船が発着していた宇野港が四国地方への玄関口として機能していたこともあり、現在も瀬戸内海への航路などが県内各港から出ている。藩政時代末期の1870年(明治3年)、西洋医学を推進する目的で藩の御典医らにより岡山藩医学館が設立され、同館が発展して後の岡山大学医学部となった。岡山県内の主な医療機関としては、岡山大学病院、岡山東部脳神経外科、川崎医科大学付属病院、倉敷中央病院、心臓病センター榊原病院などがある。災害拠点病院は「岡山県災害拠点病院」を、保育所は「岡山県保育所一覧」を参照。江戸時代に備前国を治めた岡山藩は池田光政の代である1669年(寛文9年)に全国初の藩校である花畠教場を、続いて世界最古の庶民学校である閑谷学校を開くなど、教育の面では古くから先進的な取り組みがなされてきた。特に閑谷学校は領民だけでなく他藩の藩士にも入学を許可し、さらには藩主の転封や改易などの不測の事態でも学校を存続できるように学校領を設けて藩財政から独立させており、岡山藩が教育を重視していたことが窺える。また、幕府の薦める朱子学ではなく儒学(陽明学)を学ばせ、頼山陽ら著名人も来訪したことで知られている。江戸時代の岡山県内の寺子屋数は長野県、山口県に次ぐ第3位(1,031校)で、私塾数は第1位(144か所)であった。明治時代になると1870年(明治3年)に岡山藩医学館が設置され、1900年(明治33年)には第六高等学校が、1922年(大正11年)には岡山藩医学館を継承した官立岡山医科大学が開校するなど高等教育が活発に行われ、当時の就学率は全国トップクラスであった。ただし女子教育については明治の初めまで、ほとんどの地域において初等教育(いわゆる市井の寺子屋や女紅場・裁縫所)以上の教育はなされなかった。上記の各学校においても中等教育以上は男子教育の場でしかなく、中等以上の女子教育を行っていたわけではない。そのため岡山における女子の中等教育においては日本全国の他地域と同様、明治以降にキリスト教系の信徒・思想者によって、その先駆と分野開拓が行われている。岡山県内において、その嚆矢となったのが1885年(明治18年)に高梁向町(現在の高梁市向町)において福西志計子が開いた順正女学校とされている。さらに、その源流においては福西の幼少期の師として、私塾である牛麓舎において彼女に男女の別を問わず惜しむことなく漢学を授けた山田方谷の存在を指摘する声もある。 そして順正女学校の設立を皮切りとして、翌1886年(明治19年)に岡山市内で山陽英和女学校および岡山女学校などの女学校が開校していく事となった。現在、岡山県には3つの国公立大学、15の私立大学が設置されている。2007年(平成19年)現在、人口10万人当たりの大学・短大設置数は全国第6位となっている。2006年(平成18年)度からは、岡山県と岡山経済同友会を中心に、県内15の4年制大学が参加する大学コンソーシアム岡山が開始され、産・学・官の連携による地域社会の活性化や時代に合った高等教育の創造を目指している。国公立私立公立私立国立岡山県では県域放送のNHKおよび電波相互乗り入れによる5つの民放テレビ局が視聴可能となっている。民放5局のうち3局は岡山県に、2局は香川県に本社を置いており、1970年代から相互乗り入れを実施している。岡山県では2006年(平成18年)12月1日より地上デジタル放送が本格的に開始された。岡山・玉野市境の金甲山送信所を親局とし、県内に78ヶ所の中継局が整備されている。リモコン番号はリモコンキーIDの記事の岡山県部分を参照。独立UHF局がないことを除けば関東広域圏と同じとなっている。※南東部から北東部では、近畿地方に本社および送信所を置く毎日放送 (MBS)、朝日放送 (ABC)、ラジオ大阪 (OBC)、ラジオ関西 (CRK) と香川県に本社および送信所を置く西日本放送 (RNC) ラジオ、およびエフエム香川が受信できる地域がある。また、西部では広島県に本社および送信所を置く中国放送 (RCC)、広島エフエム放送 (HFM) と愛媛県に本社がおよび送信所を置く南海放送 (RNB) が受信できる地域がある。この他、四国放送や山陰放送が受信できる地域もある。※インターネットにおけるサイマルラジオ放送はコミュニティ放送のつやまコミュニティFMを皮切りにエフエムゆめウェーブ以外の放送局が実施している。なお、エフエムくらしきやエフエム津山は、通常の番組の配信は行われず、特別番組などの単発的な配信のみ行っている。県域民放局が実施しているradikoには山陽放送 (RSK)は参加しているが、岡山エフエム放送(FM岡山)は参加していない。岡山県では県紙で1889年(明治22年)創刊の山陽新聞を中心に購読されている。また、全国紙では各紙が大阪本社の管轄下にあり、県内に支局を設置している。読売・毎日・日経・産経の各紙は県内に印刷工場を設け、朝日新聞は香川県内の印刷工場から輸送する体制を採っている。夕刊紙の岡山日日新聞も存在したが、2011年(平成23年)11月10日をもって廃刊した。岡山市を中心とする備前地域(旧備前岡山藩)は池田光政の儒教尊重が家風となり、近代以後も教育熱心な地域と言われる。古今和歌集において「真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の音のさやけさ」と謳われ、吉備を表す枕詞が「真金吹く」であるように、古くから岡山(旧国名は吉備)は古代吉備から連綿と受け継いできた優れた鉄製技術を持っていた。そのため平安時代の古備前派に端を発し、福岡千軒(現在の瀬戸内市長船町)では福岡一文字や備前長船、そして吉岡一文、字国宗派、また備中国の青江貞次一派などといった有力な刀匠の一派が数々生まれて栄えた。更に、備前・美濃・相模・山城・大和の5か国の作刀方式を「五箇伝」と呼び、その五箇伝のうち備前伝と美濃伝の刀が傑出して大量に生産されるに至った。また質の面では備前刀があらゆる流派の中で最も多く国宝に指定されている。現在でも備前では刀匠によって刀が生産されている。一方で陶器の備前焼は日本六古窯のひとつであり、古墳時代の須恵器から発展したもので釉薬を全く付けずに焼かれる。また何も塗られることもない素朴さと力強さ、炎と火の粉、薪の灰から生じる窯変の味わい、そのわびさびを体現した風貌から千利休や古田織部などといった茶人に愛された。1250度の高温で約2週間焼き締めるため「投げても割れない」と言われ、茶人や公家、武家以外の一般庶民にも広く流通した。鎌倉時代初期までの作品は「古備前」と呼ばれ特に珍重される。金重陶陽といった人間国宝などの活躍もあり、また戦後にも再び脚光を浴びて一躍全国的に有名となった。津山市を中心とする美作地域では、江戸後期から幕末にかけて宇田川家、箕作家などの洋学の人材を輩出した。主に東京式アクセントの岡山弁が用いられるが、旧国ごとに「備前弁」「備中弁」「美作弁(作州弁・津山弁)」の3種に分類されることもある。古代以来の農業の盛んな地域で、農産物・水産物は豊富である。主要なものは以下の通り。などなどなど岡山県は、プロ野球とJリーグの球団の両方が本拠を構えている兵庫県と広島県に挟まれ、地元に拠点を置くスポーツに対する関心が低く、1995年(平成7年)には倉敷市を本拠としていた川崎製鉄水島サッカー部(現:ヴィッセル神戸)がJリーグ誘致を目指していた神戸市に本拠を移すなど長年に渡って本県に本拠を置くプロスポーツチームができず、「プロスポーツ不毛の地」と揶揄されることもあった。しかし、2001年(平成13年)11月に女子バレーボール・Vリーグに所属するシーガルズが岡山市に本拠を移転し、美作町(現:美作市)に女子サッカークラブ・岡山湯郷Belleが設立された。その後、2005年(平成17年)には晴れの国おかやま国体が開催され、県全体としてスポーツに対する関心が高まった。国体開催の機運に乗じてJリーグを目指すサッカークラブとしてファジアーノ岡山FCが設立され、好成績を収め続けたファジアーノは岡山県リーグから中国リーグ、JFLと次々と昇格し、2009年(平成21年)シーズンからはJ2に昇格した。こうした市民クラブに対するスポンサーやボランティア等の支援の輪が広がっており、プロスポーツが県民にとって身近な存在になりつつある。その他、女子マラソンに関しては岡山市に本店がある天満屋の女子陸上競技部から2000年(平成12年)シドニーオリンピックに山口衛里が、2004年(平成16年)アテネオリンピックに坂本直子、さらに2008年(平成20年)の北京オリンピックでも中村友梨香が出場している。さらに、1992年(平成4年)のバルセロナオリンピック、1996年(平成8年)のアトランタオリンピックの2大会でメダルを獲得した有森裕子は岡山県出身であり、オリンピックに5大会連続で岡山県の関係者が出場している。高校野球においては1965年(昭和40年)の選抜高等学校野球大会で優勝し、平松政次や八木裕らを輩出した岡山東商業高校、星野仙一を輩出した倉敷商業高校や倉敷工業高校をはじめとした古豪があるほか、近年では1999年(平成11年)の全国高等学校野球選手権大会で準優勝した岡山理科大学附属高校、関西高校などの私立校が台頭している。

出典:wikipedia

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