後北条氏(ご ほうじょうし/ご ほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ご ほんじょう さま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族だった伊勢新九郎盛時(後の早雲庵宗瑞)が文明8年(1476年)の今川義忠(盛時の姉北川殿が義忠に嫁いでいた)の戦死をきっかけにして起こった今川氏の内紛の際に甥の龍王丸(後の今川氏親)を支援したことが伊勢氏(北条氏)が関東圏に勢力を築くきっかけとなった。後世成立の軍伝等では、この功績により氏親から駿河国興国寺城が与えられたことになっている。明応2年(1493年)、幕府の管領・細川政元による足利義澄の将軍擁立と連動して、伊豆国に侵入し、堀越公方の子、足利茶々丸を新将軍の母と弟の仇として討つという大義名分のもとに滅ぼし、以後積極的に伊豆国を攻略して所領としたと伝えられている。明応4年(1495年)には大森氏から小田原城を奪って本拠地を移し、1516年に三浦半島の新井城で三浦義同を滅ぼして、相模国全土を征服した。北条氏を称したのはこの宗瑞の子・氏綱が名字を伊勢から北条に改めてからのことだが、今日では便宜上、早雲庵伊勢宗瑞に遡ってこれを「北条早雲」と呼んでいる。北条家は元々は伊勢家(備中伊勢氏)であり、室町幕府の要職に任じられる(伊勢氏の宗家は代々政所の長官である執事を世襲していた)身分の高い一族だったことが判明しており、家格も申分が無かった。それにもかかわらず「北条」の名字にこだわったのは、上杉氏ら関東の旧来勢力にとっては伊勢氏は外来の侵略者とみなされていたため、相模守護だった扇谷上杉氏に代わって相模国主としての正当性を得るため、かつて鎌倉幕府を支配した代々の執権北条氏の名跡を継承したからだと考えられている。氏綱から名乗った左京大夫、氏康から名乗った受領名相模守も、鎌倉北条氏で歴代の執権が名乗ったものを踏襲したものである。以後、当主が左京大夫を名乗り、隠居後に相模守を名乗るのが通例となった。※執権北条氏とのつながりは以下の通り。なお、近年黒田基樹は北条氏綱の正室であった養珠院が後北条氏家臣で鎌倉時代最後の北条得宗・北条高時の末裔を名乗っていた横井氏出身の可能性を指摘している。歴史研究家の小和田哲男によると、北条氏は京都との接触を最低限に止め、平将門以来関東にあった「中央からの半独立」という願望を具現化することを国是としていたという。関東管領職の継承に固執したのもそのためで、関東の地に関東公方を盟主とした独立国家を目指していたというのである。こうした見解には批判もある。小田原市教育委員会の佐々木健策は、氏綱が後妻を近衛家から迎えていること、小田原の城下町形成が相模国の守護所を目指して京都や奈良の職人を積極的に招聘していたことなどを挙げ、関東公方はもとより室町幕府や朝廷との関係を自らの威信として利用することで関東における主導権を確立しようとしたと説いている。北条氏綱以降、北条氏康、北条氏政、北条氏直と小田原城を本拠に五代続いた。氏綱の代に関東管領上杉氏、小弓公方、分裂した真里谷氏、里見氏との対立が強くなり、第一次国府台合戦にて小弓公方を滅ぼした。この功により古河公方との協調を深め婚姻関係で結び、後に「川越城の密約」による決裂までは大いに協調した。北条五代記や「北条氏康条書」(伊佐早文書所収)などでは氏綱は関東管領として古河公方を背景として勢力拡大の根拠としたとされ、この管領職が氏康、氏政に世襲され、山内家の家督と管領職を後継した越後長尾氏の出自である上杉謙信との対立となった。氏康期の天文22年(1553年)には甲斐武田氏、駿河今川氏との甲相駿三国同盟が成立し、信濃において山内上杉家・越後長尾氏と敵対する武田氏とは協調して北関東・上野における領国拡大を進めた。永禄11年(1568年)末には武田氏の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)によって三国同盟は破綻し、越相同盟締結に際して、謙信が義氏を古河公方と認めることにより北条家は謙信を山内家の後継者として認めることとなり、北条管領は消滅した。天文15年(1546年)の河越夜戦により扇谷家を滅ぼし山内家を越後に追放した後には関東公方足利氏を追って古河城を治めた。後に北関東方面では宇都宮氏、結城氏、佐野氏、佐竹氏、皆川氏、那須氏、小山氏、太田氏、東には小弓公方、千葉氏、小田氏、里見氏、武田氏(真里谷氏)、正木氏、酒井氏、北武蔵・上野方面で由良氏(横瀬氏)、成田氏、上田氏、上杉旗下だった大江流毛利一族の北條氏、藤田氏、長野氏、三田氏などと、外圧となった関東管領上杉氏、長尾氏これらと同盟時に武田氏、今川氏、三浦氏に繋がり「会津守護」を称する蘆名氏、などと合従連衡の争いに明け暮れた。局所的な戦闘に於いては敗退することもあったが、着実に支配を広めた。氏政が実権を掌握した元亀2年(1571年)には甲斐武田氏との甲相同盟を回復させるが、天正6年(1578年)の越後上杉家における御館の乱、武田と上杉氏の甲越同盟を期に甲相同盟を再び手切れとし、武田氏と敵対する三河国の徳川家康や尾張国の織田信長に臣従を申し出ている。氏直の嫁を織田氏より迎えて臣従の姿勢を示している。後北条氏は織田・徳川連合軍による甲州征伐に参加するものの恩賞は無く、織田家重臣の滝川一益の関東入りとなった。これが北条家が織田方に不信感を募らせる原因となったが、織田氏の強大さは明らかであり、氏政は同盟関係の維持を模索していた。しかし、中途半端な状況で本能寺の変が起き、信長が死亡すると状況は一変する。滝川一益は広大な領国の経営に頭を悩まされているところであった。そこに、配下で信濃に在国していた森長可の逃亡や甲斐の河尻秀隆の戦死などに遭い、しかも相次いで発生する一揆の鎮圧や、従前の仮想敵国である上杉領に対する攻勢の準備などで忙殺されていた。こうした滝川軍に対して北条氏は同盟の一方的な破棄を通告、氏直を総大将とする4万6000の軍勢が織田領へ雪崩込み、駆逐に成功した。滝川軍を敗走させると、信濃・甲斐・上野の広大な領土が空白地帯となり、これを巡って、北条氏直・徳川家康・上杉景勝が三つ巴の戦いを繰り広げることになる。織田氏崩壊の後、徳川氏と同盟した時点での勢力範囲は、伊豆・相模・武蔵・下総・上総北半・上野に及び、また下野や駿河・甲斐・常陸の一部も領有しつつ、安房の里見氏とは主導的な同盟を結び、最大版図は240万石に達したといわれる。小牧・長久手の戦い・四国征伐・九州征伐で電撃的に西日本を統一した豊臣氏に対して、北条家も他の大大名と同様に大名家の家格を維持する事、領民に手を出さない事(民政不介入)を条件に恭順の意思を示す。しかし、天正17年(1589年)に上野国名胡桃において、兼ねてより真田家との間にあった領土争いが暴発、北条家家臣の猪俣邦憲が独断(で真田家の名胡桃城を攻撃して、これを占領してしまった(名胡桃城事件)。この事件は大名家に対して私戦を禁止した惣無事令に背いたとして、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐を招いてしまう。これによって戦国大名家としての後北条氏は滅亡することとなる。しかし、この時点まで秀吉は明智光秀や柴田勝家を滅ぼしたとはいえ、毛利・長宗我部・島津・徳川・織田といった大名家を廃することなく処した。北条氏が最終的に断絶の仕置きとなったのは、などがある。その一方で、豊臣政権が目指していたのは北条氏を滅亡させる事ではなく、あくまでも惣無事令の全国施行によって領土紛争に対する裁判権を掌握する事で全国の諸大名を支配する事にあったとする説もある。徳川氏や島津氏などは豊臣政権とは一度は交戦に至ったものの、最終的な決戦を前に当主が直接的に豊臣政権への忠誠を誓う事によって本領が安堵されている。現に真田氏との領土紛争に際して秀吉は当初、仲裁者の立場に立っており、結果的に一度は北条氏有利の裁定を下しているのである。小田原城開城の際、隠居の氏政及び氏照は切腹、鉢形城で捕虜となった氏邦は出家となり前田家に預けられた。当主の氏直は助命されて高野山に流された。謹慎処分中とはいえ大名待遇の賄い領1万石を給されていた。近々国持大名として氏直を再封する予定もあったといわれるなか、意気消沈の氏直は翌天正19年(1591年)には疱瘡に罹り、数え30の若さで死去。氏直には男子がいなかったため、家督は叔父の氏規が継ぎ、後に許されて河内国狭山で7000石を拝領、またその子氏盛も下野国内で4000石を拝領した。この氏盛が氏規の死後その遺領を併せて1万1000石の大名となり、河内狭山藩(藩庁は狭山陣屋)を立藩。国持大名にこそはなれなかったものの、これが江戸時代を通じて存続している。また徳川家康が氏直の義父にあたることから、かつて同盟関係にあった家康が天下を取ると、縁故の数家が再興されている"( → 詳細は「その後の後北条氏」節を参照)"。凡例 - 実線は実子、点線は養子、太字は当主*早雲本人は北条を名乗っていないが、通常彼から北条氏の初代と数える。※明治時代に、後北条氏の末裔を自称する元仙台藩士・桑島政貫が、氏直の子であるという北条氏次なる人物の墓碑を早雲寺に建立した。しかしながら、史実において氏直の子として確認されているのは女子二人のみであり、氏次なる人物は氏直の子とは見られていない。
定紋の三つ鱗は執権北条氏に由来し、同じ桓武平氏惟将流氏族を称する伊勢氏、後北条氏ともに使用がある。後北条氏の三つ鱗は高さを低くした二等辺三角形を組み合わせてあり、これを特に「北条鱗」と称する。替紋は平家の「対い蝶(北条対い蝶)」「隅切り折敷に二文字」など。早雲の代に上杉配下の幕僚だった太田道灌の発案という足軽の軍制を採用し、各城下に侍の屯所である根小屋と技術者保護のための職人町を築いて兵農分離をいちはやく志向した。冑類の生産は全国有数の規模で、鉄砲の導入にも積極的だった。後北条氏は、小田原城を中心とした本城支城体制を確立した。各城には位が付けられ、城主には勲功によって昇格や降格、配置換えを行うという近代的な制度だった。最盛期の後北条氏には、10万の軍勢の動員をも可能とした戦力があった。この軍事上の優越とともに、東北の伊達政宗、東海の徳川家康、中部の織田信雄、四国の長宗我部元親などとの外交上の連携をもって、後北条氏は関東自立を目指していた。後北条氏は内政に優れた大名として知られている。早雲以来、直轄領では日本史上最も低いと言われる四公六民の税制をひき、代替わりの際には大掛かりな検地を行うことで増減収を直に把握し、段階的にではあるが在地の国人に税調を託さずに中間搾取を排し、また飢饉の際には減税を施すといった公正な民政により、安定した領国経営を実現した。江戸期に一般化する村請制度のさきがけと言える。また、家督を継承するにあたっては、正室を重んじることにより、廃嫡騒動やそれに起因する家臣団の派閥化といった近隣諸国では頻繁に見られる内部抗争や離反を防ぐことに成功。さらにその結果として宗家のほとんどが同母兄弟となり、その元に構成された一門と家臣団には強い絆が伴った。東国において、古河足利氏、両上杉氏、佐竹氏など血統を誇って同族間での相克を繰り返し国人の連合を戦力とした旧体制に対して、定期の小田原評定による合議制や虎の印判による文書官製など創業時の室町幕府系家臣団由来による制度の整った官僚制をもって力を蓄えた。飢饉の年には家督の代替わりすることによって徳政令を出すという施政も見受けられ、その他の旧家臣団の多くは徳川氏に引き継がれ、関東直領の経営を支えたほか、各大名家にも多くの人物を出した。凡例 - 実線は実子、点線は養子、太字は当主数字は当主継承順位 【黄備え隊】【白備え隊】【赤備え隊】【黒備え隊】【青備え隊】カッコ内は人数
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