御船 千鶴子(みふね ちづこ、1886年(明治19年)7月17日 - 1911年(明治44年)1月19日)は、透視能力を持つ超能力者として福来友吉博士に紹介された女性。熊本県宇土郡松合村(現・宇城市不知火町)にて、漢方医・御船秀益と、その妻・ユキの二女として生まれる。生まれつき進行性の難聴があり、成人するころには左耳が聴こえにくかったという。繊細な感受性と豊かな情緒性を持っていたと言われる。また、観音菩薩を篤く信仰していたが、悲観的な感情にとらわれる面もあったという。22歳のとき、陸軍中佐・河地可謙と結婚。ある日、夫の財布からなくなった50円が姑の使っていた仏壇の引き出しにあると言い当てたことで、姑は疑いをかけられたことを苦にして自殺未遂を起こした。それがもとでほどなく離婚することになり、実家に戻る。実家では義兄(姉の夫)、中学校の舎監・体操教員であった清原猛雄に「お前は透視ができる人間だ」との催眠術をかけられた際に優れた結果が出たため、修練を続けることとなった。その後、日露戦争時に第六師団が撃沈された軍艦・常陸丸にたまたま乗っていなかったことを透視したり、三井合名会社の依頼で福岡県大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱(熊本県荒尾市)を発見して謝礼2万円(現在の価値で約2000万円)を得るなどした。また、樹皮の下にいる虫の存在や海で紛失した指輪の場所を言い当てたりしたという。中でも清原は千鶴子に人の人体を透視して病気を診断させたり、手かざしによる治療を試みた。評判が広まった千鶴子を熊本県立中学済々黌の井芹経平校長が紹介すると、1909年(明治42年)から翌年の1910年(明治43年)にかけて京都帝国大学医科大学の今村新吉教授(医学)や、東京帝国大学文科大学の福来友吉助教授(心理学)などの当時の学者が研究を始めた。1910年(明治43年)4月10日、熊本の清原の自宅で福来と今村は清原の立ち会いのもと、透視実験を行う。人々に背を向け、対象物を手に持って行う千鶴子の透視が不審を招くことに配慮した福来は、背を向けても対象物を手に取らないで透視するようにさせたが、この方法では不的中に終わった。今度は清原が用意した名刺を茶壺に入れ、それに触れることを許可して透視させると、名刺の文字を言い当てたという。千鶴子の透視能力を確信した福来は、この実験結果を心理学会で発表した。これにより、「透視」という言葉が新聞で大きく取り上げられ、真贋論争を含め大きな話題となった。千鶴子のもとには透視の依頼が殺到したほか、長尾郁子をはじめとした「千里眼」の持ち主を名乗る人々が続々と現れた。1910年(明治43年)9月15日、物理学の権威で東京帝国大学の元総長の山川健次郎が立ち会いのもと、透視実験を行った。千鶴子は鉛管の中の文字の透視を「成功」させたものの、それは山川の用意したものではなく、福来が練習用に千鶴子に与えたものであったことが発覚する。この不審な経緯に、新聞は千鶴子の透視能力について否定的な論調を強めて行った。そんな中、長尾郁子の念写を非難する記事を見て失望と怒りを感じた千鶴子は、清原に「どこまで研究しても駄目です」と言い放ったそうで、1911年(明治44年)1月18日には重クロム酸カリで服毒自殺を図り、翌日未明に24歳で死亡した。一般には、新聞や世間からの激しい攻撃に耐えられず自殺したといわれるが、地元では自殺の原因は父親との金銭的なトラブルによるものだと見られていた。実際のところ、千鶴子の「能力」の存在は極めて疑わしい。医院で接する患者には正面から向き合っていたにもかかわらず、上記の通り実験時の千鶴子は常に観察者に背を向けて10分以上時間をかけており、成功したのは封筒の透視である。これだけ時間をかければ、背後からは分からないよう手の先だけを動かしてつばで封をはがし、体温で乾かして元に戻すことは可能であろうとの指摘は当時から出ていた。いずれの実験も条件としては不十分で、中には千鶴子を別室に入れて行ったものまである。さらに、福来の著書「透視と念写」においてでも、最初の実験で送った19通の封印つき封筒のうち、「透視」が成功して帰って来たのは7通のみで、3通はうっかり火鉢に落として燃えた、残りは疲れてできないということであった。福来は単純に結果に驚愕したと書いているが、燃えたものはともかく、疲れてできない分は返送されていない。
出典:wikipedia
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