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信夫淳平

信夫 淳平(しのぶ じゅんぺい、明治4年9月1日(1871年10月14日) - 昭和37年(1962年)11月1日)は、日本の外交官、国際法学者。法学博士。早稲田大学教授、学士院会員、中華民国顧問等を歴任。1943年学士院恩賜賞受賞、従三位勲一等瑞宝章。父は信夫恕軒(鳥取士族、漢学者、元東大講師)。信夫韓一郎(新聞記者、元朝日新聞専務)は長男、信夫清三郎(政治学者、名古屋大名誉教授、元日本政治学会理事長)は三男。鳥取県生まれ。父・恕軒には男の子が三人あり、寛一郎、淳平、敬造といった。五歳か六歳のときに生母・いとが恕軒と別れた。どういう母親だったかの記憶はない。旧制開成中学校を経て、1890年東京専門学校(早稲田大学の前身)英語普通科卒業、1894年東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒業。淳平は自分の経歴を書いたメモを遺している。メモではこうなっている。「幼時小学校を卒へたるのみで、中学校を知らず、大学にも入らず、私塾にて漢学を専攻し、次で共立中学及同人社にて英語を学び、後に英吉利法律学校、東京専門学校及高等商業学校にて法律学、経済学、商業学等を聴講したる外、主に独学にて修業…」。北海道庁属を経て、1894年市立新潟商業学校(新潟県立新潟商業高等学校の前身)教諭、1896年市立久留米簡易商業学校(久留米市立久留米商業高等学校の前身)校長。1897年外交官及領事官試験に合格。領事官補として京城に赴任する。その後二十年間は海外の外交官暮しが続き、メキシコ公使館書記官、満州占領地行政事務官、統監府下の仁川理事庁理事官、オーストリー大使館書記官、オランダ公使館書記官、カルカッタ総領事を歴任。日露戦争時に大日本帝国陸軍遼東守備軍司令部付・満州占領地行政事務官を務め、法律顧問の有賀長雄との知遇を得る。1917年46歳で外交官を退き早稲田大学講師になった。早稲田大では外交史、国際法、国際政治学を教えた。1925年に東京帝国大学から法学博士の学位を取得、 1943年には四巻五千ページの大著『戦時国際法講義』で学士院恩賜賞をうけた。1944年帝国学士院会員。戦争中に定年で早稲田大講師を辞めたが、戦後早稲田大に新制大学院ができたとき教授に迎えられ、1951年から1956年まで早稲田大教授を務めた。80歳をこえる高齢でふたたび外交史と国際政治学の講座をうけもった。1962年91歳で死去した。淳平は、大正末から昭和初年にかけて新愛知新聞の主筆や万朝報の社長をつとめ、論説を書いている。宗教は禅宗。趣味は乗馬、銃猟。

出典:wikipedia

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