修辞技法(しゅうじ ぎほう)とは、文章やスピーチなどに豊かな表現を与えるための一連の技法のこと。英語の「」やフランス語の「」などから翻訳された現代語的表現で、かつての日本語では文彩(ぶんさい)、また単に彩(あや)などといっていた。修辞技法はギリシア・ローマ時代から学問的な対象として扱われており、修辞学(レトリック、Rhetoric)という学問領域となっている。西洋の古典修辞学者らによってScheme(配列を変えること)とTrope(転義法、比喩)に大別された。西洋の古典修辞学者たちは修辞技法を大きく次の2つに分類した。しかしルネサンス期になると、修辞学者たちは全修辞技法の分類に情熱を傾け、作家たちは修辞技法の種類・下位分類の種類を広く拡張した。ヘンリー・ピーチャム()の『The Garden of Eloquence』(1577年)には184の修辞技法が列挙されている。その中で、ピーチャムは分類について以下のように書いている。「単純にするために、この本では文彩をschemeと比喩(trope)に分け、(『Figures of Disorder』がやったような)さらなる下位分類は行わない。各ジャンル、技法はアルファベット順に列挙する。それぞれの項目では詳しい説明と例を挙げるが、列挙する時の短い定義は便宜的なものである。列挙したもののいくつかは、多くの点で類似した文彩と思われるだろう」。尚、日本における修辞の名称は、各国修辞学における文献に於いて英、独、仏語やラテン語を各学者などが和訳したものであり、名称の表記に揺れがあることを留意すべきである。また、以下に述べる用例文は、一般書籍からの引用ではなく、技法を文献から咀嚼した上であくまで例として記述したものである(一般書籍から引用すると、註釈で多くの頁を割くことになることと、文体、歴史的仮名遣いなどの問題が発生するため)。比喩(譬喩、ひゆ)とは、字・語句・文・文章・出来事・作品全体などの物事を、それと共通項のある別の物事に置き換えて表現する手法である。読み手に対し、例えられる物事を生き生きと実感させる効果を持つ。比喩を用いた修辞法を比喩法といい、佐藤信夫他著の『レトリック事典』では直喩、隠喩、換喩、提喩を指している。直喩(ちょくゆ、明喩(めいゆ)、シミリー)とは「(まるで・あたかも)~のようだ(ごとし、みたいだ)」のように、比喩であることを読者に対し明示している比喩である。直喩を用いた修辞法を直喩法という。『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…』で知られる『平家物語』の序段は、この直喩の典型例である。日本では現代でも頻繁に用いられてはいるが、近現代の西洋ではあまり洗練された技法とはみなされておらず(ある意味でヤボな技法だと見なされており)、文筆家・作家・詩人・知識人などの文章では、直喩よりも(後述の)隠喩のほうが頻繁に用いられる。用例隠喩(いんゆ、暗喩、メタファー)に分けられるものは、比喩であることが明示されていない比喩である。隠喩を用いた修辞法を隠喩法という。用例などで、いずれも「まるで」「ごとし」「ようだ」などといった比喩を明示するための語が用いられていない。直喩に比べて、より洗練された比喩だとされる。「すし詰め状態」「団子レース」「マシンガントーク」などのように定型句となった表現も見られる。換喩(かんゆ、メトニミー)とは表現する事柄をそれと関係の深い付属物などで代用して表現する比喩である。換喩を用いた修辞法を換喩法という。また「永田町」と言って国会を、「葵の御紋」と言って徳川家を指すのも換喩の一種とされ、『象徴喩』と訳されている。用例提喩(ていゆ、シネクドキ《Synekdoce》)とは上位概念で下位概念を表したり、逆に下位概念で上位概念に置き換えたりする比喩をいう。換喩との違いは、包含する関係にあるか否かである。提喩を用いた修辞法を提喩法という。用例諷喩(ふうゆ、)とは、寓意に使われるようなたとえのみを提示することで,本当の意味を間接的に推察させる比喩を言う。寓言法。寓喩法。用例これらの比喩が複合することもある。たとえば「右のエース」という表現は、エースで一番手を指す暗喩、右で右手で投げる投手を表す換喩を兼ねている。更に、「右のエース」という言葉は、野球のみでしか通用しないので、野球という上位概念の中の下位概念に値することから、この表現そのものが提喩となっている。擬態法(ぎたいほう)は、表現する事象について、様子を文字として書き表した擬態語や、擬音語・擬声語を用いた修辞法である。「姉はにこにこと笑っていた」という文での「にこにこ」が擬態語に、「犬がワンワンと鳴く」の「ワンワン」が擬声語にあたる。擬態語(ぎたいご)は「様子」、擬音語(ぎおんご)は「音」、そして、擬声語(ぎせいご)は「動物の鳴き声」などを言語化したものである。写生語、声喩、仏語でオノマトペ (onomatopee)、若しくは英語でオノマトペア (onomatopoeia) ともいう。擬音語(擬声語)を用いることにより、ものごとを生き生きと表現する効果や、また、ものごとに対し読者が親近感を抱く効果など、さまざまな効果が生まれる。扉が風で"ガタガタ"と音を立てるといった擬音語、幼児語では、犬の鳴き声の擬声語である"ワンワン"のように、そのものの発する声を表す擬声語がそのものの名称として用いられる場合もある。擬態語は「動作・様態・感覚・心理・状況」などの様子を文字として表す方法で、傷口が"ズキズキ"痛む、心配で"ハラハラ"するなどが例として挙げられる。また、そもそも言語ではないものを言語化しているため、言語によってこれらの語は異なることがある。尚、日本の国語科教育では文法として擬音はカタカナを、擬態は平仮名を使うように教えている。比喩の中でも特に、人でないものを人格化し、人に例える手法を擬人法(ぎじんほう、活喩)という。その場合、読み手に対し、例えられる「人でないもの」に対する近しさを抱かせる効果が生まれる。擬人化、擬人観も参照のこと。擬人法と逆に、人の動作や様子を物質に喩える手法があり、これを『擬物表現』、『結晶法』、『実体化』(原義はHypostatization《英》)などと訳している。以下は例文である。擬人法と対照的な概念に生物(動物)形象や無機物形象がある。多くの文化圏・言語圏において見られる用法であり、いわゆる擬人化イメージの逆擬物化と解釈することができる。ある人間以外の生物・無機質の物体・自然現象などが、その特徴や生態などから、ある特定の擬人表現がなされることが広く周知されている場合に、逆に人間像をその生物・物体・自然現象などに例える用法である。この表現例として、古来各地で「あの人は~のような人だ」の「~」に様々な生物形象・無機物形象が用いられている。文章は通常、主語-目的語-述語 の順で記述されるが、この順序を倒置(逆転)させ、目的語を強調する手法のこと。同じ語を何度も繰り返し、強調する。連続して反復する場合と、間隔を置いて反復する場合がある。同じ言葉を二度用いることで、語気を強める用法。トートロジー(Tautology)の訳語の1つ。例文別の場面で全く同じ表現を用いる手法。たとえば冒頭に、「平和な朝だ」と記し、巻末に「平和な朝が帰ってきた」などと表現する。反復法の一つである。他の用例として童話『モチモチの木』なども首尾同語の好例である。一人で便所に行けない臆病な主人公がクライマックスで疾風怒濤の勇気を振り絞っているのに、巻末ではやはり一人で便所には行けなかったと記され、話が締められている。体言(名詞・名詞句)で文章を終えること。名詞止めとも称する。言い切らずに、文の語尾に付ける終止形を省き、体言で止めて、強調させたり、余韻を残すことをいう。もともとは俳句や短歌の技法だったが、1990年代に若年層で流行した。それ以前から星新一をはじめとする小説家が著作で盛んに用いており(例:「私は科学者。実はこの…」)、このことも影響しているであろう。特に感動を表現するために、例えば「水が流れる」という文の主語・述語の順番を逆にして「流れる水よ」のように体言で止める言い方を、喚体句という。実際の主張を疑問の形で書いているが、強い断定を表す用法。また、肯定の形で表しているが、強い皮肉を表すこともある。種類として皮肉法、反語的讃辞、反語的期待、反語的緩和、反語的否認などがある。否定表現となることが多いが、肯定表現が来ることもある。見せかけは肯定文であるが、中身はまるっきり皮肉を交えた反語となっている。広義では皮肉法ともいえるが、違いは長所を述べておきながらその長所を内面で否定している点である。表向きは肯定しているが、実際は「会社を辞めるな」と強く相手に訴えているのが分かる。皮肉も自嘲も含まれていないが、能動と受動の関係が逆転しており、ここでは待たされた相手が敢えて、自分から待つことにしたと反転して表現することで、体裁の悪い相手の立場を和やかに変えている。無論、相手にとっても待たせることに対して貸しを作った覚えなどないはずであるが、結局は「お互い様だよ」と訴えているようになっている。反語的期待の逆。表現上では否定だが、文章上では正しいことを述べる肯定となっている。対象物との密接な関係を表す手法。「~よ」などの形になることも多い。全体に一定のパターンを与える目的で、2つ以上の文の部分に類似の形式を与えること。対句法、平行構造、平行体, 並行体とも言われる。ヘブライ語の聖書、漢詩をはじめ、広範に使われる。漢詩やことわざで使われる場合は「対句」という言葉があてられる。2つ以上の語呂の合う句を対照的に用いる。もともとは漢文の駢儷文におけるテクニックの一つで、日本語では漢字、漢文の伝来とともに使われるようになり、現在においても、日本語の表現方法として無意識に使用されている。例として、などがある。四字熟語での例は枚挙に暇がない。二つの二字熟語を対にする例が多い。詩歌などで同じ音を決まった場所に繰り返し使うこと(=韻を踏むこと)。語句の頭の音を揃えることを頭韻、語句の終わりや行末を揃えることを脚韻という。括弧やリーダー、ダッシュなどを使って、語り手が説明を補足したり、弁明したりする表現。括弧で説明を補足することで、要はどっちでも同じ、双方相応しくないと思っている第三者の心理が読み取れるようになる。括弧を入れなくても文章の内容は通っている。これを括弧に含めることで、主語の人物の躊躇(僭越じゃないかという懸念があったという弁明)がよりはっきり透かし彫りされるようになる。文章や会話の一部を省略すること。西洋修辞学では、省略された要素は文脈などから推断かつ復旧することができる。内容を短縮する目的で使われることが多い。くびき語法もその一種である。文学の技法として、余韻を残し、読者に続きを連想させる意図的な省略(Purposeful omission)もある。専ら、省略した部分にはダッシュやリーダーが使われる。用例相手の贅沢な暮らしぶりの一例を列挙しているが、敢えて全部挙げる必要が無いため、めぼしいものだけを採り上げており、同時にその相手に対して、強い感嘆を訴えている。文脈の上では、リーダを省略しても意味は通じている。しかし、敢えてリーダを入れることで、その間に主語の人物が抱いている悔恨、困惑の念を読者に訴えかける仕組みになっている。ダッシュが頻繁に用いられる例。ダッシュで被災都市の経歴、さらにそこから抱いた作者の感情全てを省略しており、より強い感情を読者に訴えるようになっている。また、漫画や小説などでは「…」など相手の会話や吹き出しにリーダーだけが用いられることがある。これは言葉では表現しにくい感情を抽象的に表現したものである。くびきとは馬車に取り付ける金具であるが、原義であるZeugmaを直訳したものである。要は繰り返しとなる述語を一つに括ったもので、倒置表現となることが多い。ここを一つに括らなかった場合、と、かなりしつこい文章になるが、このような技法もある(→後述:畳句法)言いたいことを遠まわしに言って、別の意味を強める表現。例文を次に挙げる。同じ事柄に対して、徐々に表現を強めていく手法。また、スケールを徐々に縮めていく表現を反漸層法と呼ぶことがある。同じ立場、条件において全く逆の表現を使う手法。以下は例文である。短く話せば済む会話を敢えて長く形容し、意味を強調する手法。以下は例文。知名度の高い記事や事件などを借用して、文章を面白おかしくしたり、物事を揶揄、風刺したりする表現。以下は例文である(ネット掲示板の会話より抜粋)言葉を重ねることで、意味を強調する手法。畳音。擬音を並べることで、その度合いを強調。曖昧とした論述を意図的に用いる手法。きっぱりとした回答を嫌うときのほか、結論を持たずとも、特定の対象を強く印象付けたい時にも用いられる。ためらいの文法に含まれるとされ、佐藤信夫他『レトリック事典』では主として5つの用例がある。言いたいことを強調して大げさに言う手法。など。ある特定の対象に対して、関連性のある単語、あるいは文章を立て続けに並べて強調する手法。「歴史的現在」とも。過去の出来事を、あたかもたった今行われているかのように書き表す手法。撞着法ともいう。お互い背反する二つの真理をつなげる用法。一つの語句となっている例も多い。用例など。いろいろと肯定的な文面を列挙しておいて、最後に落ちとなる言葉を入れることで、全体を否定したり、滑稽な表現をしたりする方法。漸層法の一種と見なされる。頓降法の場合は、一旦盛り上げておいてから一気に落とす場合が多い。対して、段階的に落ちを利用する手法は「漸降法」と呼んでいる学者もいるが、反漸層法(Anticlimax)<→前述:漸層法>の和訳である場合と頓降法(Bathos)である場合があり、かなり紛らわしくなっている。慣例性のある任意の対象に対して階層化を行い、最後に落ちを持ってくる手法。コントや漫画で頻繁に用いられる三段落ちも漸降法である。 B「外車」 C「宝石」 D「宝くじ三百万枚」省略法と区別される。言葉を始めておきながら、激情、節度を抑制するため、あえて言葉を濁らせ、文を完結させない手法。省略された部分は暗黙の了解で、読者に分かっていたり、また想像を膨らませたりするものもある。また、一番大事な部分をわざと遅らせる場合や逆に文の途中を中断する用例、黙説した部分を地の文で補完する場合もあり、これを『待望法』『逆中断』『暗示黙過』などと訳している。 …彼女は静かにコクッと頷いた。一つの事柄に対して、必要以上の語を用いる技法。文法的には誤りだと指摘されることがあるが、ある狙いを持って意図的に用いることが多い。男の評価は「冴えない」で一旦表現されているので、後の表現は冗語といえるが、より主語の人物の疑り深い、信じられないという驚嘆の心が浮き彫りされる。 コーチはそう一蹴した。相手に伝えたいことを強調するために、通常使う文法形式のかわりに別の形を使いる手法。
出典:wikipedia
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