ホンダF1(Honda F1)は、2006年から2008年まで旧B・A・Rの株式をホンダが100%取得してF1に参戦していたレーシングチーム。正式名称はホンダ・レーシング・F1チーム(Honda Racing F1 Team)。F1参戦は、シャーシ、エンジン含め全て自社製造しフルワークス体制でチームとして参戦した第1期、既存チームにエンジンを供給するという「エンジンサプライヤー」のかたちをとった第2期、当初エンジンのみを供給し、後にフルワークス体制のホンダF1チームに移行した第3期、エンジンとエネルギー回生システム(ERS)をパッケージしたパワーユニットのサプライヤーとなる第4期に分かれる。厳密にいえば、参戦体制は、第1期・第2期・第4期の参戦は本田技研工業及び本田技術研究所によるものであり、2006年以降を含む第3期参戦は本田技研工業により1999年にイギリスに設立されたホンダ・レーシング・ディベロップメント(HRD)社によるものである。なお、1964年から1968年の単独チームによる参戦(第1期)と、1983年から1992年(第2期)および2000年から2005年(第3期)のエンジン供給による参戦、2015年からのパワーユニット供給による参戦(第4期)に関してもここで述べる。1964年にF1参戦した当時のホンダは、マン島TTレースを制したものの、単なるオートバイメーカーに過ぎず、四輪車は軽トラックを発売しただけという四輪車メーカーとしては弱小メーカーでしかなかった。F1参戦の準備は、順風満帆の2輪部門の陰でこっそりと行われた。1961年からF1の排気量は1500ccと決まっており、横置きの1500ccV型12気筒エンジンを開発することに決定。エンジン技術者である中村良夫は、開発したエンジンを使ってもらうコンストラクターを探し始める。当初ホンダはエンジンサプライヤーとして参戦する予定だったのである。フェラーリとBRMは自社製エンジンを使っているため除外、ブラバムとロータスとクーパーにしぼられそのうちのブラバムにほぼ内定。ブラバムのシャシーに載せることを前提にエンジンの熟成が進められた。1963年秋、ロータスのコーリン・チャップマンが急きょ来日、ホンダ本社に訪れこう言った。「2台走らせるロータス25のうち1台はクライマックスエンジンを載せるが、もう1台にホンダを載せたい。場合によってはジム・クラークにドライブさせてもいい」と。これを機にコンストラクターはブラバムからロータスに変更され、エンジン開発もロータス25にあわせて行われた。ところが1964年2月、チャップマンから電報が届いた。「2台ともクライマックスエンジンでやる。ホンダのエンジンは使えなくなった。あしからず」というものだった。となると自社でシャーシを造るしか道はなくフルコンストラクターとして参戦することになった。急きょシャシーを急造することになるが、さらなる問題が発生する。ナショナルカラーの問題である。1960年代のF1マシンは国ごとにナショナルカラーが決まっており、イギリスはブリティッシュグリーン、フランスはブルー、イタリアはレッド、ドイツはシルバーという具合だった。日本は初出場なためナショナルカラーは決まっていなかった。宗一郎が好きな色だったゴールドが提案されたがすでに登録済み、日の丸をイメージした白と赤を申し出たがかなわず、アイボリーホワイトに日の丸を入れたものに決定した。1964年8月2日のドイツGP(ニュルブルクリンク)で初参戦。チャップマンから絶縁電報を受け取ってからわずか6か月後のことであった。1965年には全戦出場し最終戦の第10戦メキシコGPでリッチー・ギンサーが念願の初優勝を果たすが、これは1.5Lエンジン時代のF1最終戦での勝利であると同時に、その後F1に参加したタイヤメーカーの中では最多の368勝をあげることになるグッドイヤーの初勝利でもあった。犠牲と困難を乗り越えて辿り着いた勝利であったが、当時の日本国内ではモータースポーツへの理解や認知が乏しく、テレビニュースで扱われた際に暴走族に加担する企業として捉えられてしまい、クレームが多数寄せられる結果となった。1966年に大幅なレギュレーションの改正が行われ、エンジンの排気量がそれまでの1.5Lから倍の3.0Lになった。ホンダはこのレギュレーションに対応するべく新しいV型12気筒エンジンの開発を行ったが、既存のエンジンを結合したり、スポーツカーレースのカテゴリで使っていたエンジンを流用した他のチームと比べると、大幅に出遅れた。結局このシーズンは終盤のイタリアGPでようやくエンジンが完成して参戦した。1967年にはジョン・サーティースがチームに加入した。1964年のワールドチャンピオンの加入はチームに大きな力を与えた。このシーズンのドライバーはサーティース1人だけだったが、彼はホンダのマシンで1位1回、3位1回と2回表彰台に昇り20ポイントを獲得、コンストラクターズランキング4位につけた。特に優勝したイタリアGPは2位のジャック・ブラバムに対してわずか0.2秒差での勝利で、この1967年の成績が第1期ホンダの最高成績となった。1968年のワークスマシーンは昨シーズンサーティースがイタリアで劇的な勝利をもたらしたRA300の進化版RA301であった。一方これとは別に、創始者の本田宗一郎が固執していた空冷エンジンを搭載したRA302が制作され、この年のフランスGPに持ち込まれたが、スポット参戦でドライブしたジョー・シュレッサーが炎上死する悲劇に見舞われた。この事故の後、ホンダはF1を撤退するのではないかとささやかれ始めた。この頃社会問題になっていた大気汚染に対する市販車用低公害型エンジンの開発を理由として、結局1968年シーズン終了後F1活動休止を発表した。この年は初めてフォード・コスワース・DFVエンジンを搭載したマシンがドライバーズとコンストラクターズのチャンピオンになった。DFVエンジンの登場はグランプリからワークスチームの退場と、プライベーターチームの百花繚乱をもたらした。ルノーによって先鞭が付けられたターボエンジンの登場は、自動車メーカーに対してF1へのカムバックを促した。ホンダはまず国際F2選手権や全日本F2選手権にエンジン供給を行い、1983年にスピリットチームにエンジンを供給するというかたちでF1への復帰を果たした。その年の最終戦南アフリカグランプリからウィリアムズへのV型6気筒エンジンRA163Eの供給を開始し、翌1984年第9戦アメリカGPでケケ・ロズベルグにより復帰後初勝利をあげた。開発初期にはターボラグの解消に悩まされたが、量販車の技術を応用した低燃費・高出力のターボエンジンの開発に成功。車載センサーからリアルタイムでデータを収集するテレメトリーシステムを導入し、衛星回線を通じて日本の研究所でも分析を行った。さらに1986年まで中嶋悟が鈴鹿サーキットなどでウィリアムズシャシーを使ったエンジンテストを行いつつ、ヨーロッパでもホンダエンジンを搭載したラルトでF2に参戦した。その後中嶋悟は1987年にロータス(この年からエンジンを供給)から日本人初のフル参戦を果たした。なお、ホンダは中嶋の個人スポンサーでもあった。また第2期F1活動中の1980年代後半には、1986年と1987年にはコンストラクターズ・タイトル、1987年にはネルソン・ピケのドライバーズ・タイトルを獲得した上に、1988年にホンダエンジンを搭載したマクラーレンが16戦15勝し、アイルトン・セナがドライバーズ・タイトルを獲得した。さらに1989年にはマクラーレンのアラン・プロストが、1990年にはセナが再びチャンピオンに輝くなど、その当時ホンダのエンジンが最も高性能であり、コンストラクターは6年連続、ドライバーは5年連続でホンダエンジン搭載車が獲得したことから、「ホンダエンジンなくしては総合優勝を狙えない」とまで言われた。またホンダの活躍と中嶋の参戦、フジテレビジョンによる全戦中継が後押しした1980年代後半から1990年代前半にかけての日本国内のF1ブームでは、当時人気を博したセナと蜜月関係を結び、「F1のホンダ」として大いに知名度を高めた。 1991年には、中嶋が所属するティレルチームに対し、前年マクラーレンが使用したV型10気筒エンジンをベースとしたRA101Eを供給した。しかし、これは前年のコスワースDFRに比べて、重く大きくなったことからマシンバランスを崩すことになり、エンジンパワーの増加による駆動系の信頼性の問題と相まって、ステファノ・モデナのモナコGPでの予選2位、カナダGPでの決勝2位という散発的な好リザルトは得るも、シーズン通しての好成績には結びつかなかった。同1991年にマクラーレンMP4/6には、V型12気筒エンジンRA121Eが搭載された。そしてブラジルGPにおいてアイルトン・セナがドライブするマシンは深刻なギアボックス・トラブルを抱えていた。4速を失ったのを始め、続いて3速・5速を失った。レース終盤にはついに6速のみで走行せざるを得なかったが、セナは母国初優勝を果たした。このことは彼の秀逸なドライビングテクニックのみならず、ホンダエンジンの高い適応性を示した。その後、ルノーエンジンを搭載したウィリアムズチームの台頭や、本田技研工業の世界各国での新車販売不振などにより、第2期F1活動は1992年に終了。この間ウィリアムズやマクラーレンなど多くのチームにエンジンを供給していたホンダは、1983年~1992年までの間だけで通算69勝をあげ、F1史上空前の強力なエンジンサプライヤーとして君臨した。F1撤退後の1993年には、かつてライバルだったフェラーリへ技術供与を行っていた。1992年には無限(現・M-TEC)が1991年にティレルに供給されたRA101Eをベースに独自に開発した無限MF351Hで、F1への参戦を開始するなど、ホンダの撤退後もホンダの技術を元にしたエンジンはF1に参戦し続けた。1996年にはモナコGPにてオリビエ・パニスが無限ブランドとしての初勝利をあげ、この勝利を皮切りとして1998年ベルギーGPではデーモン・ヒルが優勝、ラルフ・シューマッハが2位という、無限ブランドとして初のワン・ツーフィニッシュを飾る。1999年にはハインツ=ハラルド・フレンツェンがフランスGP、イタリアGPにてそれぞれ優勝を飾った。なおハインツ=ハラルド・フレンツェンのF1生涯における3回の優勝のうち、2回が無限エンジンでの勝利であった。2000年もシーズン終了までジョーダン・グランプリにエンジン供給がなされる予定であったが、この年からホンダブランドでB・A・Rのために開発したエンジンを投入したことに伴い、シーズン途中からジョーダン・グランプリにもホンダエンジンとしてのブランドのエンジンが供給されることが決定したため、2000年度をもってこのブランドでの参戦に幕を閉じた。1992年から2000年にかけての無限ブランドの F1 における戦績は、通算4勝、ポールポジション1回、獲得総ポイント182ポイントであった。第2期活動の終盤、「エンジンだけでなく車体も造ってみたい」という社内有志の希望により、水面下でリサーチカーの試作が行われた。1991年末にはV12エンジンを搭載するRC-F1 1.0X(現在ホンダ学園所蔵)、1992年にはモノコックを新造したRC-F1 1.5Xがテスト走行を行った。さらに、F1活動休止中の1996年にも、ステップドボトム仕様のRC-F1 2.0X(無限ホンダV10搭載)が製作された。1.5Xと2.0Xは黒一色のボディカラーから通称「カラス」と呼ばれた。1998年には当時本田技研工業の社長だった川本信彦の口から「シャシー製造を含めたフルワークスによるF1参戦」が明言された。その後、イギリスにホンダ・レーシング・ディベロップメント (HRD) を設立し参戦準備を進め、デザインを日本で行いイタリアのダラーラがシャーシRA099の製作を担当して、1999年にテストドライバーにヨス・フェルスタッペンを起用してサーキット走行を行うところまで準備が進んだ。しかし、当時テクニカルディレクターを務めていたハーベイ・ポスルスウェイトがバルセロナでのテスト中に急死したこと、またホンダ社内に根強く残る慎重論などを背景に、結局ホンダはフルワークスによる参戦を断念した。2000年に、B・A・Rへエンジン供給と車体の共同開発を行うという形でF1に復帰した。2000年シーズンはすでにB・A・Rによってマシンが製作されていたため、本格的な車体の共同開発は2001年以降となる。エンジン供給にとどまらず、2002年からはホンダ独自のギヤボックスの開発が行われた。当初はギヤなどの内部部品とマグネシウムケーシングの研究が行われた。マグネシウムケーシングに関しては2002年のB・A・R 004で採用されたが、B・A・Rがカーボンファイバーケーシングの採用を決定したことから開発はそちらに移行した。内部部品のほうに関しては開発が継続され、2004年から実戦投入された。2005年には、変速時のパワーロスを無くすシームレスシフト(クイックシフト)を実戦投入した。2006年以降他チームにも急速に広まっていった。2001年と2002年にはジョーダンにもエンジン供給を行った。2000年から始まった第3期では、第2期と異なりなかなか結果を残せずにいた。しかし、2004年シーズンは好成績を収めた。タイヤをブリヂストンからミシュランに変更したが、その変更にうまく対応できたB・A・R 006で11回表彰台に上り、コンストラクターズランキング2位へと躍進した。しかし、念願の第3期初優勝には手が届かなかった。同年末にはチームの株式45%を取得し、共同経営に乗り出した。2005年シーズンは、開幕当初レギュレーション変更に伴う影響をマシン設計に十分反映できていなかったことから出遅れ、ようやく、第4戦サンマリノGPで3、5位でフィニッシュし復活の兆しを見せたと思われるや、レース後の車検で重量違反が発覚し、その後の裁定でサンマリノGPのリザルト取り消しおよびその後2戦(スペインGP、モナコGP)の出場停止となってしまった。しかし、その後巻き返しを見せて、第8戦カナダGPでポールポジションを獲得、第12戦ドイツGP、第16戦ベルギーGPではジェンソン・バトンが表彰台を獲得したが、コンストラクターズランキングは6位に終わった。2008年シーズン終了後、チームは2009年から搭載が可能になる運動エネルギー回生システム (KERS) のテストを進め、来期のドライバーにはバリチェロに代わり、セナの甥であるブルーノ・セナかルーカス・ディ・グラッシを起用すると噂された。しかし、2008年12月5日、ホンダ社長の福井威夫が緊急記者会見を行い、2009年以降F1世界選手権シリーズから撤退する方針を発表した。撤退の理由として、サブプライムローン問題に端を発した金融危機による業績の悪化に伴って、レーシングチームの維持費負担がホンダの経営を圧迫する恐れがあるため、経営資源の効率的な再配分が必要であることが挙げられた。なお、今回の記者会見では「2008年の成績や今後のレギュレーション変更が(撤退の)理由ではない」ことを明言している。「休止」ではなく「撤退」という表現を使用したことについては、「自動車産業の新しい時代に対処するというメッセージが入っている」と説明した。ホンダはチームを解散せず、新オーナーへの売却によりF1参戦を継続することを目指しており、2009年1月12日にFIAが公表した2009年シーズンのエントリーリストには依然名前が残されていた。3月6日、チーム代表であったロス・ブラウンに全株式を売却したことが発表され、新チーム名は「ブラウンGP F1チーム」となった。売却額が1ポンド(147円)と報道されたように実質的には無償譲渡に近く、2009年のブラウンGPの活動資金についても支援が行われたとみられる。ホンダのチーム資産とRA109(改めブラウン・BGP001)を引き継いだブラウンGPは、2009年開幕戦で初出場、初優勝を遂げるなどし、最終的にはダブル・タイトルを獲得した。なお、F1への投資額に関して、2007年はホンダが全F1参戦チームで最もコストが高かったという。また、デイリーテレグラフによれば、ロス・ブロウン獲得とその後の「2009年向け開発」を重視しての先行開発費用がさらに増えることから、2008年も最も高いコストをかけたチームとなる模様だと伝えられてきた。他にもBBCが報じた2005-2009年のメーカー別F1投資額では、撤退し参戦していない2009年を除き全ての年で最高額を投じている。さらに「Pitpass」の報じた1950-2009年のF1の全歴史で投じた額でも、ホンダは17億2000万ポンドでトップとなっている(2位はメルセデスの14億7000万ポンド、フェラーリは8億9100万ポンド)。撤退後の2009年、現在のホンダ社長である伊東孝紳は「経済的に回復してもF1に復帰することはない」と述べた。しかし、2014年からF1のエンジン規定が見直されることから、ホンダがF1に復帰するのではないかとの憶測が流れた。2013年2月の記者会見で、伊東は「F1のレギュレーションも変わりつつあり、一方で我々の事業も安定してきている」「今は一生懸命勉強している最中です」とコメントした。なお、F1エンジンの開発を担当していた一部エンジニアは、2006年から2008年までF1プロジェクトの技術担当だった中本修平によってHRCへと招聘され、ロードレース世界選手権に参戦しているRC212Vのエンジン及び電子制御システム開発を担当している。また撤退発表後も、ホンダの栃木研究所においてシャシー開発が引き続き行われていたことが、2012年に明らかになっている(詳細はブラウン・BGP001#幻のRA109を参照)。2013年5月16日、ホンダは緊急記者会見を開き、よりパワーユニット(エンジンおよびエネルギー回生システム(ERS))のサプライヤーとしてF1へ復帰すると発表した。2015年は第2期のパートナーだったマクラーレンのみと再び組むことになるが、独占契約ではないため2016年以降は複数チームへ供給する可能性もある。2015年2月10日には本田技研工業本社(東京都港区南青山)にて本田技研社長伊藤孝紳および新井PJ総責任者がアロンソおよびバトンの両選手同伴でF1復帰に関する記者会見を開いた。ホンダでは伝統的に「RA」で始まる型式名としているが、これは第1期のF1参戦時において、すでに実績を残していた2輪と区別する意味において、「Racing Automobile」を示す意味で付けられたもの。なお、その後に付けられる数字については参戦時期において下記のように異なる意味が込められている。
出典:wikipedia
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