バディ・ホリー(Buddy Holly、1936年9月7日 - 1959年2月3日)は、アメリカのミュージシャン。本名はチャールズ・ハーディン・ホリー(Charles Hardin Holley)。ロックンロール草創期に活躍したことで知られる。しゃくりあげるような裏声を用いて独特のアクセントをかもすヒーカップ唱法や、現代のロックにも通じるギターサウンドや軽快なビートが特徴である。愛用のギターはフェンダー・ストラトキャスターで、アコースティックギターが全盛だった当時は新鮮であった。1960年代にデビューしたミュージシャンには、ホリーの影響でストラトキャスターを手にしたと語る者も少なくない。ホリーのバンド、バディ・ホリー&ザ・クリケッツはギター2本とベース、ドラムスでバンドを編成し、後のバンドの基本的な形となった。当時はロックでもいわゆるビッグバンドスタイルが主流だったが、金がない彼らは、巡業では4人のバンドメンバーだけで演奏することが多く、結果的にそのスタイルが定着した。最悪、バディとドラムのジェリー・アリソンだけで回ったこともある。ホリーが表舞台で活躍した期間は1950年代末期から死去するまでの実質2年間あまりだったが、そのわずかな期間にもザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズ、サーチャーズ、ホリーズを始めとする60年代のロックバンドに極めて多大な影響を与え、70年代以降のミュージシャンにも影響を見出すことができる。ただし、ホリーは22歳の若さで死去したため自身がその功績を知ることはなかった。活動後期にはヴォーカルのダブル・トラックやストリングスの導入など、レコーディング・テクニックの可能性を追求し始めた。存命し続けていればさらなる音楽的発展が期待できたとも言われており、今尚その早すぎる死を惜しむ声は多い。1986年に、ロックの殿堂入りを果たした。ホリーズのバンド名は、ホリーにちなむ。またビートルズはクリケッツのように2つの意味を持つ昆虫を考え、「Beatles」と綴り、発音からは昆虫を、スペルからはビートを想像させる名前を考えた。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第48位。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第13位。2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第80位。テキサス州の石油と酪農の街、ラボックに4人兄弟の末っ子として生まれた。愛称の由来は、母親がホリーの事を「buddy(坊や)」と呼んでいた事からと言われている。家族全員が音楽好きという環境の中で自然と音楽に親しみ、高校時代には親友のボブ・モンゴメリーとバンドを結して、当初は主にカントリーを演奏した。1953年、ホリーとボブの2人はベーシストのラリー・ウェルボーンとローカルラジオ局KDAVの30分番組を持つ様になり、その頃にはスリー・チューンズとよばれたカントリーバンドとしてクラブなどで演奏していた。1955年、エルヴィス・プレスリーとの出会いがあり、その影響でホリーはロックンロールに傾倒、自分のバンドにドラマーのジェリー・アリソンを加える。ホリーのみに対してデッカ・レコードが契約を申し入れるが、ホリーはそれに対し不快感を示す。結局親友ボブの説得により、デッカ・レコードと契約。この際、自身の姓を「Holley」ではなく「Holly」と間違えて署名してしまったことからそのまま定着したといわれる。1956年、ナッシュヴィルのスタジオでプロデュースをオーウェン・ブラッドリー、ギターをソニー・カーティス、ベースをドン・ゲスという構成で1月に4曲のレコーディングをし4月にファーストシングルをリリース。更に7月に3曲、11月に1曲、レコーディングを行い、ホリーは出来の良さを確信し11月分を12月にリリースするが、全く反響がなく終わる。事実上デッカ・レコードとは契約放棄という形となった。1957年、ホリーの理解者であり有能な音楽プロデューサー、ノーマン・ペティのコネクションによりデッカ・レコードの子会社であるコーラル・レコードと契約。その才能を開花させるが、出版に当たりデッカ録音分の版権の問題があった為、新たなバンド名でクリケッツを結成し、クリケッツはブランズウィック・レコードと契約するという形をとる。当初は、バディ・ホリー名義はコーラル、クリケッツ名義はブランズウィックという形をとっていたが、後半は「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」として公式に認められる。デビュー曲の「ザットル・ビー・ザ・デイ」をはじめ、「イッツ・ソー・イージー」「ペギー・スー」などを大ヒットさせた。1958年8月15日、プエルトリコ出身の女性と結婚する。同年、ホリーはソロとしてクリケッツと別々に活動する事になっていく。自ずと契約はコーラルのみになりニューヨークでのレコーディングが多くなる事から住所を同地へ移した。音楽性に関してはポップスの傾向が強くなる。眼鏡にスーツという出で立ちは、一般の大人しい若者を中心に受け入れられたが、1959年2月3日未明、アイオワ州クリアレイクでのツアー後搭乗したメイソンシティ空港発ミネソタ州ムーアヘッド行きのチャーター機(ビーチクラフト ボナンザ35、機体記号N3794N)が、吹雪のために方向を失ってアイオワ州セロ・ゴード郡グラント郡区のトウモロコシ畑に墜落し、パイロットとホリー、同乗していたリッチー・ヴァレンス、の4人全員が死亡した。ホリーは22歳、ヴァレンスは17歳、ビッグ・ボッパーは28歳で没した。このツアーの終了後、クリケッツと活動を再開する予定となっていたが、果たされなかった。3人のロックンローラーが一度に死に、ファンに衝撃を与えたこの日は、後に「音楽が死んだ日」と呼ばれるようになった。妻のマリアは当時ホリーの子供を妊娠していたが、程なくして流産した。ポール・アンカが書き贈った「イット・ダズント・マター・エニモア」が事実上の遺作となった。墓石には、愛用したストラトキャスターの形が刻まれている。ホリーは死の直前に6曲のデモテイクを録音しており、死後にクリケッツによってオーバーダビングが行われた「クライング、ウェイティング、ホーピング/ペギー・スーの結婚」がリリースされている。ホリーの独特な歌唱法、バディ節は、その後日本において坂本九によって受け継がれたという(奇しくも坂本もホリー同様、飛行機事故で命を落とすことになった)。坂本の代表曲で世界的大ヒット曲「上を向いて歩こう」の「ウォウウォオウ」というフレーズを導入したのは坂本本人であると、『ビートルズの謎』(光栄カルト倶楽部刊)に記されている。
出典:wikipedia
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