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サブゥー

サブゥー(Sabu)のリングネームで知られるテリー・ブルンク(Terry Michael Brunk、1964年12月12日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミシガン州デトロイト出身。ギミック上の出身地はインド・ボンベイとなっている。元祖「アラビアの怪人」ザ・シークの実の甥。プロレスの枠を超えた前代未聞ともいうべきファイトスタイルは日本でも支持を得ている。試合終了後にリング内に机を置き、机が壊れるまでムーンサルトプレスを連発という無謀ともいえるパフォーマンスも有名。メジャーやインディーを問わず、世界中の団体で幅広く活躍している。妻は日本人。伯父のザ・シークにあこがれ弟子入りを志望するが、当初体が小さかったことを理由にシークは取り合ってくれなかった。しかし熱意が認められ、シークのコーチを受け1985年にデビュー。1991年11月、FMWの世界最強総合格闘技タッグリーグ戦にシークのパートナーとして初来日。以降日本ではFMWのリングを主戦場として、机や椅子を使った全力のラフファイト、自爆も厭わない「自虐的パフォーマンス」が話題を呼んだ。1993年10月、ECWにてシェーン・ダグラスを破りECW世界ヘビー級王座を獲得。同年11月にはテリー・ファンクからTV王座も奪取し、二冠王者となった。1994年7月には、初代NWAインディペンデント世界ヘビー級王座を獲得。以降もさまざまなインディー団体を荒らしまくり「インディーの帝王」的な存在にまでのし上がった。インディー団体での名声を受け、WCW、WWF、新日本プロレス、全日本プロレスなどのメジャー団体にも参戦したが、本人は大所帯の一員になるよりも小さな団体の救世主になることを望み、これらへの参戦はごく短期間に終わっている。しかし1995年には金本浩二を破り第24代IWGPジュニアヘビー級王者となるなど実績を残している。1998年6月には弟弟子ロブ・ヴァン・ダムとタッグを組み、クリス・キャンディード&ランス・ストームを破りECW世界タッグ王座を獲得した。ECWの活動停止後は、2002年よりTNAを主戦場としていた。2003年1月、直前にザ・シークの訃報を受け喪章を付けて『ファンタジーファイトWRESTLE-1』東京ドーム大会に参加。2004年、全身の骨や筋肉に正体不明のウイルスが感染し、長期欠場を余儀なくされる。2005年に復帰を果たし、WWEが開催したECWワン・ナイト・スタンドに登場。シェーン・ダグラスのプロデュースによる " にも参戦し、メインイベントの3WAY有刺鉄線デスマッチにてダグラスとテリー・ファンクを破り勝利を収めた。WWEがECWを復活させることに伴い、2006年4月にWWEと契約。同団体所属となるが、6月にロブ・ヴァン・ダムとともに大麻所持により検挙され30日間の謹慎処分を受けている。以降はECWオリジナルズの一員として活動した。2007年5月、WWEから解雇となる。AAAなど世界各地のリングを転戦。2009年はアイルランドのAWRに参戦し、かつての盟友ロブ・ヴァン・ダムやボールズ・マホーニー、Xパックなどと共にヨーロッパで活動した。同年10月4日にはDDTプロレスリングのブランドのひとつであるCruiser's Gameの興行で、NOSAWA論外のタッグパートナーとして久しぶりの来日を果たした。2010年下期には短期間ながらTNAに再登場し、ミック・フォーリー、ロブ・ヴァン・ダム、トミー・ドリーマーら旧ECW勢が結成していたEV 2.0(Extreme, Version 2.0)に加入。11月7日に行われたPPV " にてレイヴェン、スティービー・リチャーズ、ライノ、ブライアン・ケンドリックと組み、リック・フレアー率いるTNA版フォー・ホースメンの(A・J・スタイルズ、ダグラス・ウィリアムス、ビアマネー・インク、)と対戦するも敗退、フレアーによってTNAを解雇された。2011年3月31日、SMASH.15後楽園大会に参戦。セミファイナルでTAJIRI&朱里と組み、マイケル・コバック、リン "ビッチ" バイロン、ガブリエル・アントニックとハードコア・マッチで対戦し、アントニックからアラビアン・フェイスバスターでフォールを奪い勝利した。ルチャ&ハードコアというアメリカのインディー団体の軽量級選手によく見られるファイトスタイルの先駆者であり、自爆すらも得意とし、プロレスでしか表現できないその奇想天外なスタイルは高い評価を受けている。

出典:wikipedia

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