アジアーゴ()は、イタリア共和国ヴェネト州ヴィチェンツァ県にある、人口約6,400人の基礎自治体(コムーネ)。アジアーゴ高原に位置するコムーネで、この地域では最大のコムーネ人口を有する。歴史上は、ドイツ語系の言語と独自の文化を有して自治を保った「セッテ・コムーニ」の中心地であり、第一次世界大戦の激戦地(アジアーゴの戦い)としても知られる。冬はウィンタースポーツ(特にノルディックスキー)、夏はハイキングやサイクリングなどで賑わうリゾート地であり、またアジアーゴ・チーズにその名を冠している。歴史的にはドイツ語系のチンブロ語が話された地域である。イタリア語以外の言語では以下の名称を持つ。日本語文献では「アジアーゴ」のほか、「アジアゴ」とも表記される。ヴィチェンツァ県北端、アジアーゴ高原(セッテ・コムーニ)に位置するコムーネで、北にトレンティーノ=アルト・アディジェ州に接する。おおむねT字型の市域の面積は162.99kmに及び、これはヴィチェンツァ県は最も広い。市域の北部は山岳・高原地帯が広がっている。アジアーゴの中心市街は市域南部にあり、県都ヴィチェンツァの北約37km、トレントの南東約37km、州都ヴェネツィアの北西約79kmに位置する。隣接するコムーネは以下の通り。TNはトレント県所属を示す。この地域に最初に人類が居住するようになったのは、旧石器時代・中石器時代にさかのぼる。ローマ時代以前にはすでに定住が見られた。アジアーゴ高原の7つの都市(セッテ・コムーニ)は、1310年に同盟を結んだ。アジアーゴは同盟の中心地であった。セッテ・コムーニは5世紀にわたり自治を行った。ナポレオン戦争によりフランスが北イタリアを占領すると、1807年にセッテ・コムーニの自治も失われた。第一次世界大戦では、当時オーストリア=ハンガリー帝国領であった南チロル(現在のトレンティーノ=アルト・アディジェ自治州)との国境にあたるアジアーゴ高原はイタリア戦線の戦場となった。当初は国境線に沿った塹壕をめぐり、膠着した戦いが繰り広げられた。1916年5月、オーストリア軍はアジアーゴ高原の突破を図って攻勢をかけた。激しい砲撃により、アジアーゴの市街地も破壊された。1か月に及ぶこの戦いはオーストリア軍の敗退に終わるが、両軍合わせて2万7000人の戦死者を出した。その後も、国境付近のオルティガーラ山を巡るオルティガーラ山の戦い(1917年6月)などが繰り広げられた。第一次世界大戦の終結後、市街地の再建が行われるとともに、戦没者の遺骨を収拾して記念碑(納骨堂)が作られた。アジアーゴでは、19世紀半ばまでドイツ語系の言語であるチンブロ語が話されていた。アジアーゴ・チーズの産地である。熱を少し加えたグラーナ・タイプのチーズで、ペコリーノに似て平らで丸く、重さは一つ9kgほどである。原産地名称保護制度 (DOP)による名称保護を受けており、アジアーゴで規定に従って生産されたチーズだけが「アジアーゴ・チーズ」という名称を使用できる。市街近くの丘には軍人墓苑があり、記念碑(納骨堂)や博物館が建てられている。この記念碑は、やモンテ・グラッパ、トネッツァ・デル・チモーネの戦争記念碑と同様に、ヴィチェンツァ県のシンボルとなっている。軍人墓地には各国の戦没者が埋葬されている。アジアーゴの戦いに従軍したエミリオ・ルッス(のちに小説家・政治家となる)は、『戦場の一年』でこの戦闘を描いている。アーネスト・ヘミングウェイも当地で戦った一人である。アジアーゴには天文台が2つある。パドヴァ大学が所有するアジアーゴ天文台と、イタリア国立天文学研究所(INAF)のアジアーゴ・チーマ・エカール天文台である。1999年から、パドヴァ大学天文学部とドイツ航空宇宙センター(DLR)の共同プロジェクトとして、アジアーゴ・チーマ・エカール天文台の望遠鏡を用いて地球近傍天体を観測するアジアーゴDLR小惑星サーベイが行われた。アイスホッケーのクラブチーム 、インラインホッケーのクラブチーム が本拠を置く。
出典:wikipedia
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