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北条時宗

北条 時宗(ほうじょう ときむね)は、鎌倉時代中期の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権。鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国(大元朝)の日本に対する圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻を退け(元寇)、後世には日本の国難を救った英雄とも評される。官位は、正五位下相模守。贈従一位。建長3年(1251年)5月15日、相模国鎌倉、安達氏の甘縄邸に生まれる。長兄に宝寿丸(のちの北条時輔)がいたが彼は側室の子(庶子)であったため、正寿が後継者に指名された。康元2年(1257年)、まだ7歳という年齢でありながら、将軍御所にて征夷大将軍・宗尊親王の加冠により元服、親王より偏諱(「宗」の1字)を賜り、相模太郎時宗(ときむね)と名乗る(この時、後に義兄となる安達泰盛が烏帽子を運ぶ役目を務めたという)。元服には北条氏一門や得宗被官、公家などが列席し、盛大な儀式が催された。庶兄である時輔とは元服の規模に大きな違いがあり、時宗が名実共に北条の次期棟梁であることが周知された。正嘉元年6月23日には、宗尊親王が納涼の為に時宗の住む山ノ内の泉亭に来訪している。文応元年(1260年)、将軍の供奉などを務める小侍所の別当に就任する。当時すでに北条実時が別当の任にあり、また小侍所はそれまで別当を複数置く官職ではなかったが、時宗の就任以降は別当を複数任命することが慣行となる。これは、すでに実時が別当になっているところへ、さらに時宗が別当に就任したことを正当化するための慣例化だという。 この時宗の小侍所入りは、将来の彼が執権になるための経験を積ませるための時頼の配慮だった。ともに小侍所の別当であった実時は深慮に富んだ教養深い人物で、時宗は彼から指導を受けて人格を陶冶したと考えられる。弘長元年(1261年)4月に安達義景の娘(安達泰盛の異母妹)の堀内殿と結婚。極楽寺での武芸大会で宗尊親王から褒め称えられた逸話もある。文永元年(1264年)7月、6代執権の北条長時が出家、北条政村が7代執権となり、8月には時宗は14歳で執権の補佐を務める連署に就任する。執権政村や一族の重鎮北条実時と協力して、文永3年(1266年)に幕府転覆を計画していたとされる宗尊親王の廃位と京都送還、惟康親王の擁立などを行った。フビライ・カーンがモンゴル皇帝に即位した8年後の文永5年(1268年)正月、高麗の使節が元の国書を持って大宰府を来訪、蒙古への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られる。3月5日には政村から執権職を継承し、時宗は18歳で第8代執権となる。時宗は前執権の政村や義兄の安達泰盛、北条実時・平頼綱らに補佐され、モンゴルの国書に対する返牒など対外問題を協議し、大田文の作成、御家人の所領譲渡制限、異国警固体制の強化や、異国調伏の祈祷などを行わせる。モンゴルからの度々の国書には一切返事を与えず、また朝廷が作成した返牒案も採用しなかった。一方でモンゴルに滅ぼされた高麗の残党にあたる三別抄からの援助要請も黙殺した。文永8年(1271年)、モンゴルの使節が再来日して武力侵攻を警告すると、少弐氏をはじめとする西国御家人に戦争の準備を整えさせ、異国警固番役を設置している。また、得宗家の権力を磐石なものとするため、文永9年(1272年)には六波羅探題の南方の別当(長官)で、弟の時宗が執権になった事に不満を持ち朝廷に接近するようになっていた異母兄の時輔や、一族の評定衆北条時章・教時兄弟を誅殺し、世良田頼氏を佐渡へ配流している(二月騒動)。また、文永11年(1274年)、『立正安国論』を幕府に上呈した日蓮を佐渡に配流するなど、モンゴルや朝鮮に対してだけでなく、国内の世論や一門に対しても苛烈に臨んだ。文永11年(1274年)、元軍が日本に襲来した(文永の役)。いわゆる元寇である。激戦の末に元軍の内陸部への進撃を阻止した。翌年、降伏を勧める使節杜世忠らが来日すると、鎌倉で引見し、連署の北条義政の反対を押し切って処刑する。建治3年(1277年)に義政は程なく連署を辞して出家するが、弘安6年(1283年)に北条業時が連署に就任するまで連署は空席となった。弘安2年(1279年)に来日した周福ら使節団も、大宰府で処刑させた。これらの処刑には元への示威行動の意図もあった。時宗はじめ幕府の首脳陣は自ら高麗出兵を一時は命じたが、軍事費などを勘案した末に結局は中止となった。代わりに異国警固番役を拡充し、長門探題及び長門警固番役を新たに設置し、文永の役を教訓として博多湾岸に現代も残る石塁を構築するなどして国防強化に専念した。特に石塁や警固番役には、御家人のみならず寺社本所領などの非御家人にも兵や兵糧の調達を実施したため、鎌倉幕府の西国における実質的な支配権が拡大した。六波羅探題に対しても、御家人の処罰権を与えるなど機能を強化させた。また、北条一族を九州などの守護に相次いで任命し現地にも下向させ、時宗も小山氏の播磨守護を免じて、自身が就任した。また寄合衆には平頼綱ら御内人の参加を広げ、将軍権力であった御恩沙汰などを行うなど得宗専制が強化された。その方針は、時宗の没後に具体化された弘安徳政にも反映されることになる。また、その頃の朝廷では、後嵯峨法皇の遺言により、亀山天皇と後深草上皇のどちらが治天の君になるかで時宗が執権を務める幕府が裁定し、亀山天皇の親政が決定した。亀山天皇は皇子の後宇多天皇に譲位して院政を開始するが、時宗は後深草上皇の皇子である熙仁親王(後の伏見天皇)の立太子を実現させた(両統迭立)。弘安4年(1281年)の弘安の役では、作戦指示が時宗の名義で出され、御内人が戦場へ派遣されて部隊の指揮にあたった。元軍は、2ヶ月近くの戦闘で日本軍の抵抗に苦戦した末に台風を受けて混乱し、さらに日本軍の総攻撃により壊滅した。こうして時宗は二度の元軍の襲来を撃退したが、戦後に今度は御家人などに対する恩賞問題などが発生し、財政難のなかで3度目の元軍襲来に備えて改めて国防を強化しなければならないなど、難題がいくつも積み重なっていた。弘安7年(1284年)には、すでに病床にあったとされる。自身の死期を悟ったのか4月4日には出家し、同日に34歳(満32歳)で逝去。自らが開いた鎌倉山ノ内の瑞鹿山円覚寺に葬られた。死因は結核とも心臓病とも云われる。時宗は禅宗に帰依するなど信心深く、特に禅宗は父の時頼と交友のあった蘭渓道隆、南宋から来日した兀庵普寧・大休正念などから教えを受けていた。蘭渓道隆が死去すると名師を招くために中国に使者を派遣し、無学祖元を招聘する。祖元が開山した鎌倉の円覚寺(鎌倉市山之内)の開祖となり、円覚寺を関東祈祷所とし、尾張国富田庄を寄進する。また、忍性の慈善活動を支援し、土佐国大忍荘を寄進したとも言われる。熊本県南小国町の満願寺に時宗を描いたとされる頂相が所蔵されているが、描かれているのは別人であるという説もある。また、『一遍上人絵伝』には一遍と出会った時宗の姿が描かれている。時宗は、父の時頼ほど伝説や逸話が豊富ではなく、本格的に論評が風発するのは近世に入ってからであった。その事績を礼賛するか、非難するかの差異は評する者の史実の解釈に依拠するところが大きい。肯定的評価の多くは、権勢を振るった夷狄蒙古を撃退したという事績に集約され、蒙古からの通達に侵略の意図があり、使者を斬殺したことを是認する前提に立脚する。『増鏡』で名君であると称賛されている他、国学者の観点から、承久の乱で三上皇を島流しにした北条氏を逆賊として排撃した本居宣長も、時宗については肯定的に評している。水戸藩発行の『大日本史賛藪』では、全面的に時宗は礼賛されている。他、頼山陽も時宗を礼賛している。時宗が帰依した無学祖元は、時宗は40年未満の生涯ながらその功績は70歳を越えて生きた人にも勝る、感情的になることなく、驕ることもない立派な人物だ、と、時宗の三回忌の際に賛辞の言葉を連ねた。中世から近世においては、否定的な評価はあまり下されることがなかったが、橘守部は、蒙古襲来は朝廷潰しを意図する北条氏と蒙古が結託して行った自作自演であると仮定して時宗を弾劾している。しかし、守部のこの評価は荒唐無稽に過ぎるとしてあまり顧みられることはない。守部がかような荒唐無稽な珍説を提唱した背景には、守部の本居宣長に対する反感が沈潜していたと指摘される。幕末、諸外国との折衝で紛糾し、尊王攘夷の気風が高まるようになると、俄然、時宗に対する礼賛は傾向を強めるようになる。明治時代には元寇受難者への追贈で時宗にも従一位が追贈され、湯地丈雄によって元寇記念碑が設立された。太平洋戦争の頃になり、皇国史観が鼓吹されるようになると、時宗に関する論考は一層盛んになり、評伝などが数多く書かれた。太平洋戦争で日本本土が攻撃されると、強大な外敵からの侵略に断固として立ち向かった時宗の姿勢を肯定的にとらえ、礼賛する風潮が生まれた。代わって戦後においてはその反対の評価が出されるようになった。時宗の強硬政策は得宗専制の強化と国際意識の欠落が招いたものという評価が生まれ、防塁の築造をはじめとする蒙古への対策は、「日本帝国主義の原点である」という評価さえ生じるようになった。上横手雅敬は「結果的に日本防衛には成功したが、多大な犠牲を払って徹底抗戦したその姿勢が、本当に適切だったかどうか疑わしい」と評し、無学祖元による賛辞も、「この手の禅僧の言葉は空疎」として、額面通りに信用することはできないと述べる。また上横手は蒙古の使者を斬首に処したことについては、「国際慣行を無視した蛮行」と評した上で、使者を斬首しなければ弘安の役は避けられたかもしれないと時宗を非難している。しかしながら、この上横手の指摘は誤りで、斬首の報せが元に届く前に、クビライは日本征服の野望を表明し、戦艦の造船を開始しており、また使者の斬首の報せが元に届くと、元では朝議の結果、この件に関しては迂闊に元から反応を示さないことに決しており、使者の斬首と弘安の役の発端には何の関係も見い出せない。時宗の外交姿勢の原因は、蘭渓道隆や大休正念そして無学祖元ら、時宗や父時頼が帰依した禅僧達が強く影響していると指摘される。彼らは皆、宋から渡来した人物であり、祖国を蒙古に滅ぼされ、蒙古への憎悪は一入であったとしている。また上横手は、そもそも時宗の政策そのものについても安達泰盛や平頼綱ら重臣の意見が反映された可能性もあり、若い時宗が全て自分の意思で数々の政策を行ったとは断定しがたいと述べている。細川重男は、二月騒動における、肉親や一族に対する粛清や、誤殺とみるや自分が差し向けた追手達さえ処刑する、さらには蒙古に対する強硬姿勢など、苛烈な処置から、目的の為には逡巡せず武力を行使し、意向に反するものは容赦せず処断する人物と評している。そして、細川は時宗の政治の本質は「武力偏重」であり「暴力主義」であると評している。そして、時宗がこうした強硬、暴力的な政策を取った背景には、「武家政権」というものが、暴力による支配、力による強制を根源、基盤としているためであると指摘する。このような時宗への否定的な評価に対しては、元が高麗で行った統治を考慮すれば、時宗の徹底抗戦の判断はむしろ妥当なものであったと反論されている。また、鎌倉幕府が武断的性格を持つ武士によって作られた政権であったことから、徹底抗戦の構えは必然でもあった。事績を概観すれば非情であり、専制的な政治家、権力者としての側面を指摘される一方、禅に篤く帰依し、また家族に対しては温情を以って接した。内政では、細分化する御家人の所領問題と蒙古襲来の事後処理に追われた。また蒙古襲来以降、内政・外交の両面で京都の朝廷に対する主導権を握ることとなった。これを契機として、鎌倉幕府は軍政組織としての「幕府」から全国的な国家組織としての色合いが濃くなっていったとする説がある(網野善彦『蒙古襲来』)。"(「北条氏#北条氏による一字付与について」も参照。)"ゲーム

出典:wikipedia

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