源 有仁(みなもと の ありひと)は、平安時代後期の公家。後三条天皇の皇子輔仁親王の第二王子。従一位左大臣。花園左大臣とも称された。皇族時代は有仁王と称する。永久3年(1115年)元服。始め白河院の養子となり皇嗣と目されたが、院の孫鳥羽天皇に顕仁親王(後の崇徳天皇)が生まれたことから元永2年(1119年)源姓を賜り臣籍降下し、直ちに従三位・権右中将に任ぜられる。同年、堀河・鳥羽両天皇の乳母藤原光子の希望により、藤原公実と光子の間の娘(源有仁室)と結婚。翌保安元年(1120年)には権大納言に任ぜられる等、その後も急速に昇進し、保延2年(1136年)34歳で従一位左大臣に至り、花園離宮を賜った事から花園左大臣と呼ばれた。晩年は病気により朝廷への出仕が困難な状況であったといい、久安3年(1147年)2月3日に出家、成覚と号するが、間もなく薨去した。詩歌・管絃(琵琶・笙)・書に秀で、また儀式や故実を集大成し、儀式書『春玉秘抄』『秋玉秘抄』を著している。また、洒落好みであり、公家の化粧・鉄漿・引眉の風習は、この人より始まると言われる。日記『花園左府記』は80巻にも及ぶものとされる。その逸文は『御産部類記』に天治元年(1124年)3月、5月、6月、天治2年(1125年)4月、5月、6月条が、『園太暦』に大治3年(1128年)正月、永治2年(1142年)4月、康治3年(1144年)4月条が伝わる。
出典:wikipedia
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