韓日合邦を要求する声明書(かんにちがっぽうをようきゅうするせいめいしょ)は、1909年12月4日、大韓帝国で親日団体一進会(公称会員数百万人、実数数万人程度)が皇帝純宗、韓国統監曾禰荒助、首相李完用に送った大韓帝国と日本の対等合併を要望する声明書である。韓日合邦建議書(かんにちがっぽうけんぎしょ)ともいう。1904年、李容九・宋秉畯・尹始炳が中心となって一進会が設立された。会長は当初は尹始炳であったが、すぐに李容九に代わった。一進会はアジア主義と大東合邦論を掲げ、アジアが団結して欧米帝国主義の侵略を阻止すべきであると主張。さらに李容九は、日本と大韓帝国の軍事同盟が、ロシアに対抗し、大韓帝国の富国強兵を図る方法であると主張した。1906年、李容九は「韓日合邦」をはじめて主張し、同年、天道教(東学)を脱退して侍天教を設立し、その教祖となった。1909年10月26日、併合反対派だった前統監伊藤博文がハルビン駅で暗殺されたのち、李容九は同年12月4日、一進会員との連名で、韓国皇帝純宗、統監曾禰荒助、首相李完用に対し声明書を提出した。この声明書の中で、「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」と、大韓帝国政府と大日本帝国政府が新たに一つの政治機関を設立し、韓国と日本が対等合邦して一つの大帝国を作るように求めた。李容九は日本の内田良平とともに、日本と韓国の対等な立場での合邦を希望し運動したが、実際には、この声明書の求める内容は拒否され、日本による韓国の一方的な併合(韓国の主権喪失、朝鮮半島の日本領化)となった。1910年8月22日の韓国併合条約ののち、9月12日に日本政府によって一進会解散を命じられた李容九は9月25日にこれを解散した。これは、韓国統監府が朝鮮内の政治的混乱を収拾するために朝鮮の政治結社を全面的に禁止したため、解散費用として15万円を与えられて他の政治結社と同様に解散したものである。この韓国併合によって、朝鮮王族は日本の「公族」となり、朝鮮の有力者らの一部は日本の「華族」に列せられたが、李容九は爵位を辞退し、1911年疲労により入院、1912年5月、悲嘆のうちに亡くなった。李容九は、数度にわたる朝鮮の政治改革の失敗から、両班による下層階級への搾取虐待を朝鮮人自身の力で克服することを不可能と考えており、日本との合邦によって初めてこれが実現できると信じたのである。一方の宋秉畯は韓国併合後、日本政府から朝鮮貴族として子爵に列せられ、朝鮮総督府中枢院顧問になり、後に陞爵して伯爵となった。かれは併合後の朝鮮政治にも大きな影響を与え、合邦善後策として日本の桂太郎内閣総理大臣に資金150万円を懇請したところ、1,000万円でも差し支えなしとの回答を得て、活動に邁進したといわれる。南北朝鮮では当時一進会が民衆のみならず知識人からも強い批判を受けていたこと、それまで一進会が同じく親日派の李完用首相と共に日本の朝鮮侵出を援護してきたことなどから、この声明書に対して「国権防衛運動、義兵闘争、愛国啓蒙運動などに反するもの」であると非常に批判的であった。ただ日本を含めた諸外国の研究者は、一進会が大日本帝国の意図を見抜けず韓国を亡国へと導く役割を果たしたことは歴史的事実であるものの、対等合併論自体は日本の朝鮮併合論(主権を放棄する形で朝鮮が日本に従属)とは明らかに異なり、むしろ併合後の日本が一進会すらも用済みとして切捨てて統治を開始したことを踏まえ「一進会もまた犠牲者であり、必ずしも責められるべき点ばかりではなかった」とする同情的意見も強い。実際、一進会会員の多くは日本の韓国併合による主権喪失を知るや、「日本に騙された」と感じて後悔したという記録がある。
出典:wikipedia
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