呂号第五百潜水艦(ろごうだいごひゃくせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。もともとはドイツ海軍のIXC 型潜水艦 U-511 である。日本で同型の潜水艦を量産し、インド洋海域でイギリスに対する通商破壊戦に使用させるという作戦で使用するために、ドイツのヒトラー総統が帝国海軍に無償譲渡した2隻の潜水艦の内の1隻である。戊型潜水艦はこれらを参考したという説があり、大量建造される予定であったというが、伊二百一型潜水艦と波二百一型潜水艦の建造のために計画は取りやめとなった。ハンブルクのドイチェ・ヴェルフト307番ヤードにて1941年2月21日に起工、同年9月22日に進水。同年12月8日に竣工し、フリードリッヒ・シュタインホフ(Friedrich Steinhoff)大尉が艦長となった。第4潜水隊群での訓練の後、1942年5月からU-511を使用して、30cmヴルフケルパー42ロケット弾をUボートから発射できるかの実験を行った。ペーネミュンデ陸軍兵器実験場所属で、艦長の兄であるが協力した。6つのロケット弾が入ったラックを甲板に装備し、浮上状態と深さ12mまで潜降した状態での発射に成功した。しかし、ロケット弾の狙いが正確ではなかったことや、甲板に装備したラックがUボートの水中での操作性や性能に悪影響を及ぼしたことから、計画は断念された。その後、最前戦の任務につくために第10潜水隊群に配属された。U-511時代に4回の哨戒を行って通商破壊戦に従事した。U-511時代の艦長は2名おり、前述のシュタインホフ大尉と、フリッツ・シュネーヴィント(Fritz Schneewind)大尉である。1942年7月16日にキールを出航し、大西洋を横断してカリブ海へ向かった。8月27日0629、のキューバのグアンタナモ湾の南南東120浬地点付近で、U-511はトリニダード島からへ向かうTAW-15船団に対して4発の魚雷を発射。うち3本が命中して2隻を撃沈し、1隻に損傷を与えた。18,000トンの重油を輸送中の英タンカーサン・ファビアン(San Fabian、13,301トン)は轟沈した。船長と乗員31名・砲手1名が駆逐艦「」と哨戒艇「PC-38」に救助され、乗員23名・砲手3名が死亡した。11,364トンのガソリンを輸送中の蘭タンカーロッテルダム(Rotterdam、8,968トン)は左舷機関室付近に魚雷1本が命中し、すぐに船尾から沈没。乗員47人のうち37人が救命艇で船から脱出し、駆潜艇「SC-522」により救助された。104,170バレルの軽油を輸送し、輸送船団の旗艦であった米タンカー「エッソ・アルバ」(Esso Aruba、8,773トン)は、左舷5番油槽と6番油槽の中間部に魚雷を1発受け、爆発。しかし、機関と舵はまだ動いていた。これにより、2発目を受ければ沈没するという危険の中で、自力でグアンタナモ湾まで航行することを可能にし、翌日到着した。船は引き揚げられ、積荷が降ろされた。応急処置を受けてガルベストンへ向かい、1943年2月に輸送任務に復帰した。76日の航海の後、9月29日に母港であるドイツ占領下のフランスのロリアンに帰投した。1942年10月24日にロリアンを出航し、アフリカ北西部の海岸の哨戒を36日間行って、11月28日に帰投した。この哨戒では戦果はなかった。艦長がフリッツ・シュネーヴィントに交替となり、1942年12月31日にロリアンを出航、スペイン・カナリア諸島・アゾレス諸島の哨戒を行った。1943年1月9日2142、のカナリア諸島西方沖合で、西アフリカで生産された・パーム油・ゴム、合計5,054トンを積んでラゴスからリバプールへ単独航行中の英貨客船ウィリアム・ウィルバーフォース(William Wilberforce、5,004トン)を雷撃により撃沈した。「ウィリアム・ウィルバーフォース」は乗員3名が死亡し、船長・乗員41名・砲手6名・乗客41名はスペインの商船「モンテ・アルナバル(Monte Arnabal)」によって救助された。U-511は68日の航海を終えて3月8日にロリアンに帰投した。U-511は技術交流の一環として日本に無償譲渡されることとなった。U-511としての最後の出撃は、日本への航海となった。通常の乗員の他に、東京へ向かう新任のドイツ大使ハインリヒ・ゲオルク・スターマーやベルリン駐在日独伊三国同盟の軍事委員の野村直邦海軍中将、ドイツ人科学者や技術者が搭乗した。1943年5月10日、フリッツ・シュネーヴィント艦長の指揮の下、ロリアンを出航した。大西洋を通り喜望峰を回りインド洋に入った。インド洋にて米商船2隻を撃沈した。最初の攻撃は6月27日0942に行われた。のマダガスカル島沖で、空船でモンバサからバイーアへ単独航行中の米リバティ船セバスチャン・セルメニョ(Sebastian Cermeno、7,194トン)へ向け魚雷を発射。セバスチャン・セルメニョの4番船倉後部、5番船倉前部に魚雷1本ずつが命中して航行不能となり、3人が死亡した。生存者は、5隻の救命艇で船から脱出した。雷撃の10分後に、セバスチャン・セルメニョは沈没した。U-511は浮上して、生存者の尋問をしてから海域を離れた。救命艇のうち4隻は連合国の船に救助され、1隻はマダガスカルにたどり着いた。2回目の攻撃は7月9日だった。5644トンの弾薬と一般の貨物を積んでフリーマントルからコロンボへ単独航行中の米リバティ船サミュエル・ハインゼルマン(Samuel Heintzelman、7,176トン)を雷撃した。U-511は魚雷発射の後潜水し、結果を直接観測はしなかったが、水中の爆発音が聞こえた。海面には船の姿はなく、破片が浮いているだけだった。乗員75名は全員死亡した。サミュエル・ハインゼルマンは亡失認定され、当時は日本の攻撃により沈没したと思われていた。9月30日、船の残骸がモルディヴ沖で発見された。同年8月7日、U-511は90日の航海を終えて呉に入港した。1943年9月16日に日本海軍の艦籍に入り、「呂号第五百潜水艦」と命名された。本籍を呉鎮守府とし呉鎮守府警備潜水艦に定められた。日本では、実戦には投入されず、対潜訓練隊(後の第五十一戦隊)で訓練目標として使用された。ソ連の参戦に伴い樺太へ出撃することとなったが、舞鶴で待機中に終戦を迎えた。1945年11月30日に除籍され、1946年4月30日に米軍によって若狭湾で海没処分された。撃沈総数は5隻、撃沈トン数は41,373トンである。撃破総数は1隻、撃破トン数は8,773トンである。
出典:wikipedia
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