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バリモスニセイ

バリモスニセイとは日本の競走馬である。母ブラツクビーの持ち込みで、名前は父バリモスより。諏訪真が38戦すべてで騎手を務めた。初勝利は1963年12月22日の新馬(阪神競馬場、以下阪神)。1964年、皐月賞(東京競馬場、以下東京)で、13番人気ながらもシンザンの4着と健闘。5月9日の70万円下(東京)を勝ち、5月31日に行われる東京優駿(東京)の出走権を獲得。しかし、同レースでは4番人気に支持されながらも7着に終った。10月25日に行われた朝日チャレンジカップ(阪神)では、52.5kgの恵量も手伝って重賞初勝利。その後、シンザンも出走した11月1日の京都杯(現在の京都新聞杯。京都競馬場、以下京都)に連闘で駒を進め、シンザンに1馬身4分の1差をつけ重賞連覇。これは中央競馬史上最短間隔での重賞勝利である。なお、シンザンが生涯で重賞競走において敗戦した唯一の事例ともあいなった。その後、11月15日の菊花賞(京都)に出走したものの、道中折り合いを欠いて6着に終った。1965年、2月14日の第1回中日杯(現在の中日新聞杯。中京競馬場)を勝ち重賞3勝目。その後2戦を経て、4月29日に行われた春の天皇賞(阪神)に出走。3着に入ったものの、勝ち馬のアサホコからは2.2秒も離された。その後、芝1850mの距離で行われた5月23日の阪急杯(阪神)において、1分53秒5のレコード勝ち、続く6月6日の鳴尾記念(阪神)でもアスカらを破って人気に応え、6月27日の宝塚記念(阪神)では、シンザンと対決。スタートで出遅れながらも、後方から直線で鋭く追い込み、何とかシンザンが半馬身差退けたものの、同馬に薄氷を踏む思いをさせる内容のレースを演じ2着に入った。しかし、その後は勝ちきれないレースが続いた。1966年、3月20日のサンケイ大阪杯(現在の産経大阪杯。阪神)において、1番人気のキーストンらを一蹴し、芝1900m、1分56秒4のレコード勝ち。続く4月17日のスワンステークス(京都)では、スタートからハナを奪い、カブトシロー、ハクズイコウ、チトセオー、ダイコーターらを一蹴した。しかし、4月29日の春の天皇賞では競走除外となった。その後、9月18日の京阪杯(京都)では、61kgの斤量を背負いながらも、1番人気のワカクモらを破って重賞8勝目。この時点でシンザンと並ぶ、当時の中央競馬重賞勝利最多記録をマークしたが、同時にこれが最後の勝利となってしまった。その後、8戦するものの一度も3着以内に入れず、1967年6月4日の鳴尾記念(7着。阪神)が最後のレースとなった。引退後は種牡馬入りし、1973年のクイーンカップを制したキクノツバメを出したが、他に活躍馬は出なかった。1979年死亡。代表産駒のキクノツバメも障害転向後レース中に故障し予後不良となっており、現存する子孫は極めて僅かである。概ね、2000mまでの距離ならば先行力を武器に、直線に入っても粘り強い走りを見せていた馬だった。よって、自身の範疇の条件が揃ったレースにおいては、『八大競走馬キラー』的な存在となった。特筆すべきは、シンザンに重賞で唯一の黒星を京都杯でつけたことだが、上記に示す通り、他にも八大競走馬を破った例がいくつかある。半面、2000mを超える距離だと折り合いを欠くシーンが目立ったため、結果が伴わなかった。2000mを超える距離における勝利は、1965年の鳴尾記念のみだった。従兄弟にイギリスで種牡馬になったKing's Leapがいる。母ブラツクビーの牝系子孫はすでに現存していない。

出典:wikipedia

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