岩瀬 仁紀(いわせ ひとき、1974年11月10日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(投手)。日本プロ野球における通算セーブ数記録保持者。1974年に愛知県で生まれる。西尾東高校3年生時の1992年7月19日、第74回全国高等学校野球選手権愛知大会2回戦で三好高校を相手にノーヒットノーランを記録。その後、4回戦で敗退し、卒業後は愛知大学へ進学。愛知大学リーグでは1年春から外野手でレギュラー出場。打者としてリーグ通算101試合出場、384打数124安打、打率.323、9本塁打、64打点。通算124安打は神野純一(元中日)に次ぐリーグ歴代2位。春季リーグでは愛知学院大学戦で1試合3本塁打を記録。外野手としてベストナイン4度受賞。一方、1995年秋季のリーグから外野手と兼任で投手としても登板すると、投手では3季で通算15試合に登板し8勝4敗の成績を残した。大学3年時に外野手として大学オールジャパンに選出されるなど、当時は打者として注目されていた。大学の卒業後は社会人野球のNTT東海に入社。近藤真市にスカウトされ、1998年のドラフト会議で中日ドラゴンズを逆指名し、2位で入団。背番号は近藤がノーヒットノーラン記録時に付けていた13を付けることとなった。、開幕戦の対広島東洋カープ戦で前田智徳、江藤智、金本知憲に連打を浴びて失点を許し1死も取れずに降板。しかし、これをバネにして以降の登板で首脳陣の信頼を勝ち取ると左の中継ぎを任され、自身の持ち味である制球力と鋭く曲がるスライダーを武器に落合英二、サムソン・リー、宣銅烈らと共に活躍し、リーグ優勝に貢献、最優秀中継ぎ投手賞を受賞。防御率1.57、中継ぎながら10勝と好成績を残したが、同期の新人に20勝を挙げた上原浩治がおり、新人王は逃した。10月8日の対広島戦の1試合だけ先発登板し、7回7安打1失点で勝利投手となった。岩瀬本人が先発を希望していたこともあり、監督の星野仙一がテストも兼ねて起用した。その後は中継ぎで起用され、特に、は防御率1点台でシーズンを終えるなど、首脳陣の信頼を勝ち取っていく。には落合博満より抑えに指名されるが、開幕直前に自宅の浴室で転倒して左足小指を骨折。その影響もあってか前半戦は不調が続いたが、2勝3敗22セーブの成績でチームの5年ぶりの優勝に貢献した。8月に行われたアテネオリンピック野球日本代表にも選出された。10月1日の対広島戦(ナゴヤドーム)において46セーブを達成し、シーズン最多セーブの日本プロ野球新記録。60試合に登板しながら被本塁打0だった。1月20日の契約更改交渉で7500万円増の推定年俸3億500万円で更改。中日に在籍した日本人選手としては、の落合博満を抜く球団史上最高年俸となった。4月4日の対横浜ベイスターズ戦で、9回裏に多村仁に同点2点本塁打を打たれ救援に失敗した。2004年9月25日に村田修一に打たれて以来許していなかった本塁打を打たれ、被本塁打0の記録は対戦打者265人目にして途絶えた。7月30日、プロ入り通算100セーブを達成。10月8日、NPB史上初の2年連続40セーブを達成。2年ぶりのリーグ優勝を決めた10月10日の対読売ジャイアンツ戦の11回裏、3対3の場面で登板し、2回を無失点に抑えて胴上げ投手となった。4月6日、郭源治の持つ球団記録を更新する117セーブ目を挙げた。7月7日、NPB史上8人目の通算500試合登板を達成。9月8日、秋山登に並ぶNPBタイ記録9年連続50試合登板。翌日の9月9日には、NPB史上6人目の150セーブ。9月19日、NPB史上初の3年連続40セーブを達成。しかし、シーズン中盤に速球の球速が140km/hを下回ったり、低めへの制球に苦しむ場面が目立つなど、全体としては球威、制球に苦しんだシーズンであったが、8月以降の防御率は1.27と好調だった。2007年のセントラル・リーグクライマックスシリーズでは、第1ステージの対阪神タイガース第2戦から第2ステージの対読売ジャイアンツ第3戦まで、いずれも8回途中からの4連投でチームの日本シリーズ進出に貢献。北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズの第5戦において、8回まで完全試合ペースの好投をしていた山井大介に代わり9回に登板。三者凡退に抑えてNPB史上初の継投による完全試合を達成し、胴上げ投手となった。完全試合目前の山井から岩瀬への継投を行った落合の采配については、スポーツマスコミ、野球評論家などを中心に賛否両論が巻き起った。6月14日、対オリックス・バファローズ戦でアレックス・カブレラに557試合目にしてプロ入り初のサヨナラ本塁打を打たれている。8月、北京オリンピック野球日本代表として出場したが、韓国代表の李承燁に逆転本塁打を打たれるなど大会を通じて10失点、3試合で敗戦投手となった。帰国後は日本プロ野球史上初の10年連続の50試合登板を達成。また、ポストシーズンの無失点記録を22回1/3まで伸ばしている。12月、推定年俸4億3000万円(現状維持)で4年契約の契約更改を行った。4月21日、鈴木孝政の持つ球団記録を更新する通算登板587試合を記録。4月30日の対東京ヤクルトスワローズ戦(ナゴヤドーム)では青木宣親に頭部死球を当て、自身初の危険球退場を受けた。5月12日、NPB史上4人目、左腕投手としては同史上初の通算200セーブを達成。7月30日、NPB史上初の5年連続30セーブ。8月15日、NPB歴代単独3位の通算228セーブ。8月18日、20試合連続セーブ。しかし終盤は体調不良もあり、登板はできなかった。6月16日の対日本ハム戦(ナゴヤドーム)で、通算250セーブを達成。佐々木主浩、高津臣吾に次いで3人目の救援投手として名球会入りの条件を満たす。更に6月23日の対横浜ベイスターズ戦(豊橋市民球場)では、日本プロ野球歴代2位となる通算253セーブ。8月7日の対阪神戦で自己記録を更新する6年連続30セーブ。は開幕から調子がなかなか上がらず、失点する試合も多く、時には浅尾が抑えで登板する試合もあった。その一方で5月17日の対千葉ロッテマリーンズ戦(QVCマリンフィールド)で通算700試合登板、6月16日の対福岡ソフトバンクホークス戦(ナゴヤドーム)でNPB新記録となる通算287セーブ、9月3日の対広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)でNPB史上初の通算300セーブ、9月20日の対横浜戦(横浜スタジアム)で自己記録を更新する7年連続30セーブ。9月29日の対広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)でNPB新記録の通算740試合救援登板を達成するなど、後半戦から調子を持ち直し数々の記録を樹立、防御率も5年振りに1点台で終えた。はオールスター戦を前後してリリーフを失敗する場面が目立ち始め、7月14日の巨人との首位攻防戦では1対0で9回に登板。先頭の高橋由伸に死球、その後一死一、三塁となり代打の阿部慎之助に逆転タイムリーを打たれて敗戦投手となり、巨人の首位独走のきっかけとなる。この試合を境に調子を大きく落とし、2日後の対広島戦ではスクイズを決められ逆転負け、その後も自身のエラーで逆転負けするなど不振が続き、8月2日に左肘の違和感を訴えて自ら二軍調整を申し出た。故障、成績不振で一軍登録を抹消されるのは2002年6月以来約10年ぶり。後半戦は代役の山井大介が好投していたこともあり、山井との併用で中継ぎに降格することもあった。終盤は調子を取り戻し、8月24日の対ヤクルト戦で自らの記録を更新する8年連続30セーブ。最終的にトニー・バーネットと並んで最多セーブのタイトルを獲得した。最多セーブ獲得はセ・リーグ史上最多の5度目、最年長記録を更新。しかし防御率は前年を大きく下回り、33セーブはストッパーに定着した2004年以降では自己ワースト2位、救援失敗数は8度と両リーグ最多タイ記録を樹立してしまう。10月5日の対広島戦にてNPB史上6人目の通算800試合登板、入団1年目から14年連続50試合登板となった。巨人とのクライマックスシリーズでは第3戦でセーブを上げるが、第5戦の9回裏に1死満塁のピンチを招き降板、後続が打たれて敗戦投手となった。シーズン終了後の10月31日に山崎武司、川上憲伸、山本昌とともに球団首脳と個別に面談。球団代表の佐藤によると「引退についてお互い思っていることを直接言い合いましょうという話」だという。契約更改では8千万円減とプロ入り後で初の減俸となった。、 4月18日 の対ヤクルト戦(明治神宮野球場)で通算350セーブを達成。5月14日の対日本ハム戦で日本プロ野球史上初の10年連続10セーブを達成。8月27日の対ヤクルト戦で自らの記録を更新する9年連続30セーブを達成。9月18日の対巨人戦(ナゴヤドーム)で通算382セーブとし、佐々木主浩(元横浜、シアトル・マリナーズ)の日米通算セーブ数を上回り、前人未到の日本人最多セーブを更新した。、7月26日の対巨人戦(ナゴヤドーム)でNPB史上初の通算400セーブを達成。しかし8月に左肘の張りを訴え、一軍登録を抹消され、NPB記録の連続50試合登板が15年、連続30セーブが9年でそれぞれ途切れた。また、防御率も2001年以来の3点台に終わった。11月4日、7000万円減となる3億円で2015年の契約を結んだ。は左肘の故障の影響で開幕二軍スタートとなり、抑えの座も福谷浩司に譲り、プロ入り初の実戦登板なしに終わった。12月7日には2億5000万円減の5000万円(日本プロフェッショナル野球協約〈野球協約〉で規定された減額制限を大幅に超える83%ダウン)で一発サインし、来季の現役続行が決まった。減給額としては2013年オフの小笠原道大(当時巨人)の3億6000万円(当時)に次ぐ歴代2位(後に巨人の杉内俊哉が4億5000万減の5000万出来高払いで更改したため、歴代3位となる)となった。4月9日、2年ぶりに1軍登板すると、8月6日の対横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)で、米田哲也・金田正一に次いで史上3人目となる通算900試合登板を達成した。ただし、この試合は1つもアウトを取れず、高城俊人と桑原将志にそれぞれ適時安打を打たれ降板、敗戦投手となっている。「魔球」と呼ばれる球界屈指のスライダーを武器とし、好調の時は打者のひざ元まで回り込んでいくほどの変化とキレを持つ。スリークォーターから平均球速約140km/h、最速149km/hのストレート(ムーヴィング・ファスト)とシュート、2012年シーズンより右打者に限り速度のあるシンカーを投げる。2013年シーズンからはナックルの握りでブレーキのかかったカーブのような球種を投げる(学生時代にもナックルを投げていた)。ストレートはキャッチボールの時でも動いているというが、自分では普通のストレートを投げているつもりなのだと言い、入団して初めての春季キャンプで当時正捕手だった中村武志が捕り損ねて突き指してしまったほどであった。近年はボールを低めに集めて左右の揺さぶりで勝負する投球に終始している。打撃面でも大学時代にリーグ歴代2位を誇る成績を残している。プロの打撃成績は2009年終了時点で48打数11安打で打率.208、3打点の成績を残している。抑えとして起用されるようになってからは打席に立つ機会もほとんど無くなったが、8回途中から登板した2006年7月16日の対阪神戦(京セラドーム大阪)では、9回表に立った打席でリードを2点に広げる犠飛を放った。家族は妻と2子。妹が居る。以前からドラゴンズファンで、何度も球場で試合を見ていた。ドラゴンズにおいて、入団以後リリーフ投手としてチームを支え続けているチームの大黒柱的存在。入団当初は中継ぎ、2004年からは抑えを任されている。2009年からは、中継ぎで岩瀬への勝利の方程式を担う浅尾拓也が起用されているが、浅尾と岩瀬が登板して敗れた時は、あまり人を褒めない落合博満監督(当時)から「浅尾と岩瀬で行って負けたなら何の悔いもない」とまで言われる。浅尾共々、漫画「ONE PIECE」のファンであり、就寝時にDVDを見ることが日課になっている。あだ名は野口茂樹が命名した「満太朗」。由来は諸説あり、本宮ひろ志の漫画『さわやか万太郎』の主人公から取られた説、かつて放映されていたテレビドラマ「男一番!タメゴロー」で金子信雄演じる「西尾満太郎」から取られた説などがある。同じく中継ぎで活躍した落合英二は「まんちゃん」と呼んでいる。公私ともに仲の良い川上憲伸は、岩瀬の「岩」の字から「ガンさん」と呼んでいる。川上がメジャーに行った後は、チームでは川上の大学時代からの後輩である小笠原孝と仲が良いという。前人未到の入団以来15年連続50試合以上登板を記録し、シーズン46セーブの日本記録(藤川球児とタイ記録)などの記録を保持する日本球界史上でも屈指のリリーフ投手。ハードな起用にも関わらず致命的な故障もなく、防御率も常に高いレベルで維持している。2005年ごろから魚、野菜中心の食生活にし、2010年の元旦からは禁煙に取り組んでいる。普段はオーラがないと言われている。2007年1月31日の中日スポーツの記事で、沖縄で川上と一緒にタクシーに乗った時には、「(川上の)マネージャーさんですか?」と言われたほどである。酒が全く飲めない(体質的にアルコールを一切受け付けない)。リリーフ起用の理由も、1999年当時の中日で左腕のリリーフ投手が不足していたことに加え、投手チーフコーチだった山田久志が、岩瀬が酒が飲めないことを聞きつけ「(二日酔いの心配がないので)打たれても連投できる」と考えたことが一因である。「どんな形でも、チームが勝てばいい」という気持ちでマウンドにあがっており、自身の記録にはあまりこだわりがないようである。また本人は、「記録は引退後に振り返ればいい」とも語っている。2004年から2012年までは毎年、ナゴヤドームでのオープン戦の初戦の先発を務めるのが恒例だった(2010年は調整遅れの影響で登板せず)。これは、首脳陣の「たまには岩瀬に『誰も踏みならしていないマウンド』で投げさせてやりたい」という配慮である。なお、2011年のオールスターゲームに出場した際には、ナゴヤドームでの開催となった第1戦で先発を務めた。新人時代の1999年オフに行われた『プロ野球ってナンだ?〜南原プロ野球研究会〜』内でのドリームチームドラフト企画にて、当時現役であった古田敦也は投手部門で各球団の先発エース・クローザーを差し置き、岩瀬をドラフト1位で選択した。理由は「彼の真っスラ(スライダー)は球筋で判断して打つことは出来ない。投げる前から真っスラと読んでそれ以外の球種ならゴメンナサイと割り切らないといけないから」であった。長良川球場で通算200セーブを達成した際、通常は中日の地方球場主催試合ではヒーローインタビューを行わないが、プロ野球記録の達成という事情もあり、特別に行われた。これまで日本シリーズを6度経験しているが、一度も失点したことがない。一部のネット上では、登板すると最早打ち崩すのは不可能かという絶望感を相手に与えるため敬意を込めて岩瀬のことを「死神」、またそのスライダーを「死神の鎌」と渾名されている。
出典:wikipedia
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